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伏見・護法寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月16日 (土)

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'''護法寺'''(ごほうじ)は、京都伏見にあった平氏ゆかりの古代寺院。[[出雲寺]]や[[毘沙門堂門跡]]の前身の一つ。(参考:同名寺院[[護法寺]])
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[[ファイル:毘沙門堂門跡・玄関・扁額.jpeg|thumb|500px|毘沙門堂門跡玄関に掲げられている「護法山」の扁額 ]]'''護法寺'''(ごほうじ)は、[[京都]]伏見にあった[[平氏]]ゆかりの[[古代寺院]]。[[出雲寺]]や[[毘沙門堂門跡]]の前身の一つ。(参考:同名寺院[[護法寺]])
== 歴史 ==
== 歴史 ==
平範家が伏見に創建。源有仁が伏見山荘を寺院にした[[伏見寺]]の後身ともいう。応保元年(1161)、北岩倉に移転し翌年、落慶法要をしている。
平範家が伏見に創建。源有仁が伏見山荘を寺院にした[[伏見寺]]の後身ともいう。応保元年(1161)、北岩倉に移転し翌年、落慶法要をしている。
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長寛元年(1163)、[[比叡山]]の衆徒に焼かれた。焼け残った[[毘沙門天]]は永万元年(1165)、大原来迎院近くに堂を建てて祀られた。
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長寛元年(1163)、[[比叡山]]の衆徒に焼かれた。焼け残った[[毘沙門天]]は永万元年(1165)、大原[[来迎院]]近くに堂を建てて祀られた。
建久6年(1195)、[[尊重寺]]、[[太秦・平等寺]]と合併して出雲寺となったという。毘沙門堂の山号の護法山は伏見護法寺に由来するのかもしれない。
建久6年(1195)、[[尊重寺]]、[[太秦・平等寺]]と合併して出雲寺となったという。毘沙門堂の山号の護法山は伏見護法寺に由来するのかもしれない。
(世界大百科事典、日本歴史地名大系、国史大辞典)
(世界大百科事典、日本歴史地名大系、国史大辞典)

2023年12月16日 (土) 時点における最新版

毘沙門堂門跡玄関に掲げられている「護法山」の扁額
護法寺(ごほうじ)は、京都伏見にあった平氏ゆかりの古代寺院出雲寺毘沙門堂門跡の前身の一つ。(参考:同名寺院護法寺

歴史

平範家が伏見に創建。源有仁が伏見山荘を寺院にした伏見寺の後身ともいう。応保元年(1161)、北岩倉に移転し翌年、落慶法要をしている。 長寛元年(1163)、比叡山の衆徒に焼かれた。焼け残った毘沙門天は永万元年(1165)、大原来迎院近くに堂を建てて祀られた。 建久6年(1195)、尊重寺太秦・平等寺と合併して出雲寺となったという。毘沙門堂の山号の護法山は伏見護法寺に由来するのかもしれない。 (世界大百科事典、日本歴史地名大系、国史大辞典)

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