ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
住心院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
住心院
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
[[ファイル:都名所図会・住心院.jpg|thumb|500px| 『都名所図会』の六角堂の絵図で、本堂の上に住心院が描かれている]] '''住心院'''(じゅうしんいん)は、京都府京都市左京区岩倉にある[[修験道]][[本山派]]の寺院。本尊は[[毘沙門天]]。[[聖護院門跡]]の[[院家]]であったと同時に六角堂[[頂法寺]]の塔頭だった。[[新熊野神社]]別当。旧称は'''勝仙院'''。通称の'''東山住心院'''とは旧地の地名によると思われる。 ==歴史== 室町時代、長乗という僧が新熊野神社の近くに創建(修験道小事典では鎌倉時代の文永年間創建とある)。'''勝仙院栴之坊'''と称した。1432年(永享4年)足利義教が住心院を訪問。 1444年(文安1年)と1446年(文安3年)には伏見宮貞常親王と将軍足利義政の弟(のちの聖護院義観)が訪問。 衰退後、15世紀初頭、六角堂にいた熊野先達厳尊が継承。六角堂東隣の三文字町(三条東洞院通下ル西側)に移転。元は六角通り沿いに入口があったが、宝永5年(1708)の火災の後は、東洞院通側を入口とした(『修験道小事典』では宝永5年に六角堂隣地に移転したとする)。宝永7年(1710)に住心院と改称。近世、聖護院の院家では最大となる20国余りの霞を有した。戦後、岩倉に移転した。(日本歴史地名大系、修験道小事典ほか) ==組織== *首藤善樹「住心院と勝仙院の歴代」 *『修験道聖護院史要覧』 *「聖護院門跡と「門下」[https://ci.nii.ac.jp/naid/110008448906] ほか ===歴代住職1=== 旧住心院の歴代。 {|class="wikitable" |+ !style="width:3%;"|世数 !style="width:6%;"|名 !style="width:8%;"|生没年 !style="width:8%;"|在職年 !style="width:30%;"|略歴 |- |始祖 |覚愉 |1158-1233 | |平康房の子。1158年(保元3年)生。[[園城寺]]の良慶に天台を学ぶ。1217年(建保5年)7月7日、[[如意寺]]で慶範のもとで伝法灌頂。[[浄土教]]の別所として知られた[[光明山寺]]に3、4年滞在した後、京都出雲路に草庵を開く。これが[[廬山寺]]の復興とみなされるが詳細は不明。草庵を開いた前後に[[法然]]と交流があったとみられている。浄土宗では浄土宗の僧とみなされている(その評価は分かれる)。住心院の始祖ともいう。門下に浄土宗鎮西派[[九品寺流]]開祖の長西がいる。覚愉とも。住心房。出阿。出雲路上人。1233年(天福1年)1月30日死去(「廬山寺代々住持」によると1170年(嘉応2年)生まれで1245年(寛元3年)1月29日死去とある)。著作に『善導和尚類聚伝』などがあったが伝わらない。(新纂浄土宗大辞典ほか) |- |1 |長乗 |1244-1323 | |難波長貞(難波長定)の子。1244年(寛元2年)生。園城寺寛乗の弟子。1268年(文永5年)伝法灌頂。天台・倶舎を学ぶ。園城寺戒壇設置問題で、土佐国に配流。1321年(元亨1年)3月に帰還。園城寺別当とも。1323年(元亨3年)死去。一印房。 |- |2 |道猷 |1279-1358 | |1279年(弘安2年)生。1300年(正安2年)長乗のもとで剃髪受戒。1310年(延慶3年)、[[園城寺唐院]]で長乗に従い伝法灌頂入壇。1340年(暦応3年)円明寺で授法。『三井続灯記』に「新金峰山」に住すとあり、修験と何らかの関係があったことが推定されるという。1358年(正平13年/延文3年)死去。権僧正。 |- |3 |豪猷 |1334-1420 | |三条家の出身。1334年(建武1年)生。1375年(天授1年/永和1年)、常住院良瑜に従い、伝法灌頂入壇。両峰先達を9回務めた。熊野先達も務め、室町幕府管領斯波氏や甲斐武田家を檀家としたらしい。美濃に隠居。1419年(応永26年)[[伏見宮]]を訪問。没年は1424年(応永31年)説と1420年(応永27年)説があり、後者が有力。僧正。 |- |4 |深基 |1356-1419 | |豪猷の弟子。豪猷の実子ともいう。1356年(正平11年/延文1年)生。1384年(元中1年/至徳1年)[[如意寺]]で常住院良瑜に従い伝法灌頂。1396年(応永3年)以来、8回公武の熊野先達を務めた。1419年(応永26年)死去。権僧正。 |- |5 |実意 |1386-1459 | |藤原公為の子。内大臣藤原公豊の猶子か。1386年(元中3年/至徳3年)生。1408年(応永15年)剃髪受戒。修験道を学び、[[大峰山]]入峰5回。1413年(応永20年)[[如意寺]]で千光院道意に従い、伝法灌頂。1435年(永享7年)護持僧。1436年(永享8年)[[伊勢神宮]]参詣。1421年(応永28年)の室町殿御台の参詣など公武の熊野先達を務めた。伏見宮家と親戚で親交があった。「看聞日記」に住心院の記事が散見する。1438年(永享10年)禁裏で御修法。著書は『熊野詣日記』。1459年(長禄3年)死去。大僧正。[[興福寺]]別当の実意とは別人。 |- |6 |公意 |1405-? | |法性寺親継の子。正親町三条公雅の猶子。1405年(応永12年)生。1426年(応永33年)如意寺で、聖護院満意に従い伝法灌頂。1465年(寛正6年)、厳尊に陸奥や甲斐[[武田家]]などの熊野先達職を安堵。没年不詳。 |- |7 |実昭 | | |経歴不詳。1473年(文明5年)法印となる文書が残る。 |- |8 |実瑜 | | |経歴不詳。実昭と同一人物説もあるが別人とみられる。1490年(延徳2年)宮中法華八講の講師の一人となった記録がある。1496年(明応5年)護持僧。 |} ===歴代住職2=== 勝仙院(のち住心院と改称)の歴代。 {|class="wikitable" |+ !style="width:3%;"|世数 !style="width:6%;"|名 !style="width:8%;"|生没年 !style="width:8%;"|在職年 !style="width:30%;"|略歴 |- |1 |厳尊 | | |勝仙院初代。[[六角堂]]浄尊の弟子。六角堂の不動院、愛染院を継承。住心院豪猷から住心院の檀那場(霞)を譲り受ける。1465年(寛正6年)にも住心院公意から安堵を受けているが、霞の委任に関する再確認とみられ、1466年(文正1年)頃には完全に譲渡されたらしい。1469年(文明1年)弟子の快秀に霞を譲る。上野坊と号す。 |- |2 |深秀 | | |経歴不詳。1442年(嘉吉2年)に法印となった。 |- |3 |快秀 | |1472-1523 |初名は宗秀。1472年(文明4年)、[[聖護院]]から厳尊の檀那などを安堵される。1523年(大永3年)快厳にゆずる。勝蔵坊と号す。 |- |4 |快厳 | | |経歴不詳。勝林坊と号す。 |- |5 |快俊 | | |経歴不詳。 |- |6 |淳秀 |1498-1546 | |1498年(明応7年)生。1520年(永正17年)[[解脱寺]]で伝法灌頂。1524年(大永4年)聖護院道増入峰の副先達を務めた。1546年(天文15年)死去。諄秀とも。勝千坊、金剛院と号す。 |- |7 |増堅 |1536-1616 |?-1600 |1536年(天文5年)生。聖護院門跡の補佐役として活躍し、[[院家]]としての地位を固めた。1563年(永禄6年)、足利義輝に命じられ、大友義鎮と毛利元就の和解のために聖護院道増が九州に下った時に随行している。道増から異例の重用を受け、若年で大峰先達に命じられた。1565年(永禄8年)、正院家に準じる出世院家の寺格を得た。[[新熊野神社]]の別当職について乗々院としばしば争った。[[武田信玄]]との交流もあった。[[徳川家康]]の領地へも聖護院の代理として派遣された。このことで[[徳川家]]とのつながりが生まれ、江戸時代を通じて大峰の採燈護摩で、徳川家の祈願を住心院が取り次ぐこととなった。1598年(慶長3年)権僧正。1600年(慶長5年)に隠居して[[因幡堂]]の草庵に移り、桂芳院と号した。1609年(慶長14年)、[[京都・方広寺|方広寺]]鐘銘呪詛事件で嫌疑が掛かった聖護院興意に随行して江戸に出る。1616年(元和2年)死去。 |- |8 |澄存 |1553-1625 |1600-1625 |今川氏真の子。中山親綱の猶子。1553年(天文22年)生。増堅の弟子。初名は澄興。1600年(慶長5年)住職継承。1601年(慶長6年)伝法灌頂。1621年(元和7年)に[[乗々院]]24世に転じて同寺を復興した。住心院も兼務する。さらに[[伽耶院]]も兼務。1646年(正保3年)父の三十三回忌に菩提寺として乗々院内に仙岩院を創建。1652年(承応1年)に隠居。1625年(寛永2年)江戸で死去。73歳。乗々院に埋葬。徳本院と号す。大僧正。 |- |9 |晃玄 |1634-1694 | |佐倉藩主松平家信の子。大炊御門経孝の猶子。澄存の弟子。1668年(寛文8年)伝法灌頂。一時期、[[平等院]]子院の[[最勝院]]を兼務したらしい。新熊野神社の再建の奉行を務め、以後、別当を幕末まで務めた。この頃から住心院の称も用いている。1694年(元禄7年)死去。大僧正。 |- |10 |晃諄 |1667-1728 |?-1719 |肥前小城藩主鍋島直能の子。1667年(寛文7年)生。正式に住心院と改称したのはこの代らしい。1690年(元禄3年)伝法灌頂。1708年(宝永5年)の大火で伽藍焼失。1716年(享保1年)乗々院を兼務(世代外)。1719年(享保4年)隠居。1728年(享保13年)死去。退蜜院、円了院と号す。晃存とも。 |- |11 |晃珍 |1709-1776 |1719-1742 |篠山藩主松平信庸の子。久我通誠の猶子。乗々院を兼務。1709年(宝永6年)生。1719年(享保4年)、住心院と乗々院(世代外)を継承。1731年(享保16年)伝法灌頂。1742年(寛保2年)隠居。前年から嵯峨正円庵に住み1743年(寛保3年)丹波篠山に移り、虚心庵と号す。1776年(安永5年)死去。 |- |世代外 |誉章 | |1744-? |乗々院30世。1744年(延享1年)から住心院を兼務。 |- |世代外 |賞深 | | |乗々院住職(世代外)。兼務。 |- |12 |賞ミン |1759-1806 |1769-? |[[錦織寺]]14世良慈(1720-1787)の子。広橋豊忠の孫。1759年(宝暦9年)生。1769年(明和6年)9月2日、住心院住職となり、同月6日乗々院を兼務(世代外)。1806年(文化3年)死去。僧正。如実院と号す。(ミンは「王民」) |- |世代外 |盈源 | | |乗々院32世。兼務。 |- |13 |盈存 |1802-1838 |1813-? |庭田重能の子。1802年(享和2年)生。1813年(文化10年)に入院か。位牌には1838年(天保9年)に死去とあるが、1840年(天保11年)に39歳で亡くなったことを示唆する史料もある。 |- |14 |藤谷雄真 |1836-1893 |1848-? |藤谷為知の子。1836年(天保7年)生。1848年(嘉永1年)継承。1882年(明治15年)聖護院門主となる。1893年(明治26年)死去。 |} [[category:京都府]]
住心院
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ