ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

信濃・本誓寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2015年2月14日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
移動: 案内, 検索

本誓寺(ほんせいじ)は、長野県長野市松代(信濃国埴科郡)にある、親鸞高弟の二十四輩第10番是信房ゆかりの浄土真宗寺院。善光寺信仰の寺院。南朝武将新田家ゆかりの寺院。松代藩真田家の庇護を受け、松代城の東南800mにある。真宗大谷派。「平林山新田院真田園本誓寺」(へいりんざん・にったいん・さなだえん・ほんせいじ)といい、「園号」を持つ珍しい寺院。(参考:同名寺院本誓寺

是信房は、京都出身の藤原氏の公家で、俗名を吉田信明と言ったが、平氏の没落で流罪となって、越後柏崎にいた。このとき、親鸞に出会い、弟子になった。親鸞の善光寺参詣に随従したとき、師は善光寺如来の夢告を受けて、阿弥陀像を刻んだ。この像を笈に入れて、旅立とうとすると、豪雨のため千曲川(ちくまがわ)を渡れなかった。するとどこからか童子が現れ、親鸞の手を引いて川を難なく渡り、西にある「本の誓いの御寺」が我が住処だと告げて、背中の笈の中に消えた。下ろして中を見ると、像がずぶ濡れになっていた。西に進むと童子の予言通り、埴科郡倉科(現・長野県千曲市倉科?)に天台宗藤原寺(自證院?)という廃寺があり、像を奉安し、これが信濃本誓寺の始まりとされる。像は「瀬踏みの阿弥陀如来」と呼ばれ、善光寺如来と一体とされる。親鸞は是信に本誓寺を託した。のち是信は、常陸稲田の草庵(現・茨城県笠間市)に赴き、親鸞より奥州布教の命令を受け、陸奥本誓寺(現・岩手県盛岡市)を建てた。

倉科(くらしな)の地が現在の千曲市倉科とすると千曲川右岸(東方)、大峯山(標高841m)西北麓に当たる。藤原寺のあった藤原山とは大峯山だろうか(童子が述べた「西の寺」との言葉と親鸞らが川を渡った位置との関係が問題になるが)。

南北朝時代の正平元年(1346)、当寺は倉科より北2kmの同郡生萱(いきがや)(千曲市生萱)に移転。現在も「本誓寺橋」が同地にある。このころ、南朝武将新田義貞の子、新田貞重がこの寺に匿われ、のち第4代住職宗信房となったという。慶長15年(1610)、川中島藩(松代藩)主の松平忠輝の命令で山を越えて生萱の東北4kmに位置する松代城下に移転(松代に移る前に倉科村方額に移されたともいう)。

親鸞の臨終を知らせるために涙を流したという「落涙の聖徳太子」像や親鸞が感得した「日の丸名号」があるという。

参考文献

  • 今井雅晴監修 2011『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』本願寺出版社
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E3%83%BB%E6%9C%AC%E8%AA%93%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール