ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

修武台航空神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2013年1月25日 (金)

移動: 案内, 検索
修武台航空神社
しゅうぶだい こうくう じんじゃ
Shubudai-otakebi-jinja 004.jpg

航空神社旧社殿(現・小手指神社)

概要 修武台・陸軍航空士官学校の営内神社。廃絶。
所在地 (埼玉県狭山市稲荷山2-15-1)
祭神 天照大神・陸軍航空関係戦死陣没殉職者3661柱
関連記事

修武台航空神社(しゅうぶだい こうくう じんじゃ)は修武台・陸軍航空士官学校の営内神社である。祭神は、天照大神と「陸軍航空関係戦死陣没殉職者」の3661柱(終戦時)である(あるいは1960年(昭和35年)時点で3186柱であったともいう。)。1965年(昭和40年)廃絶した。

1937年(昭和12年)9月、陸軍所沢飛行場内の所沢陸軍飛行学校に創建された。主唱したのは日本初の飛行機操縦士である8代校長徳川好敏(清水徳川家8代当主)で、10代校長木下敏によって創建された。天照大神とともに、木村鈴四郎砲兵中尉・徳田金一歩兵中尉(日本発の航空事故殉職者)を始めとする陸軍航空殉職者が祭られた。平時の殉職者は靖国神社合祀の対象とならなかったのが創建の理由だという。これは弥生神社創建の理由に似ている。陸軍所沢飛行場は現在の所沢航空記念公園の地であるが、どのあたりに神社があったのかは未調査である。

創建の翌月には所沢陸軍飛行学校は閉校となり、変わって設置された陸軍航空士官学校(当初は陸軍士官学校所沢分校)に継承された。翌年、陸軍航空士官学校の修武台移転とともに遷座した。現在の航空自衛隊入間基地一帯の地である。ただし、鎮座地は現在の東京家政大学狭山キャンパスにあった。現在、入間基地に航空神社跡の記念碑がある。

1945年(昭和20年)8月の敗戦時には、ポツダム宣言の受諾に反対してクーデター(宮城事件)を起こした上原重太郎大尉が8月19日に当社神前で自決している。

同年9月3日、占領軍の進駐に備えて、所沢の北野天神社に奉遷し、11月3日改めて遷座祭を執行した。占領軍による辱めを受けるのを避けるためだったという。その後は航空神社奉賛会により維持され、毎年の祭典では航空自衛隊の殉職者も合祀された。1962年(昭和37年)に市ケ谷に自衛隊殉職者慰霊碑が建立されると、当社から殉職者が分霊されたという。しかし、1965年(昭和40年)に廃絶となり、11月7日、御神体であった霊名簿4冊・霊名牌三座は航空自衛隊に譲渡された。旧社殿は小手指神社として当地の招魂社の社殿として供用された(現在、小手指神社そばに「建空神社」の碑があるが関連があるのだろうか。)。旧御神体は奈良の航空自衛隊幹部候補生学校の資料館に奉安されたのち、1988年(昭和63年)2月に旧地である入間基地の修武台記念館・航空神社資料室の奉安庫に遷された。

参考文献

  • 春日恒男「航空神社小史」第10回文化資源学研究会、『陸軍士官学校』
  • 坂井久能「営内神社等の創建」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BF%AE%E6%AD%A6%E5%8F%B0%E8%88%AA%E7%A9%BA%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール