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元明天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
元明天皇陵
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奈良県奈良市にある[[元明天皇]]の[[天皇陵|陵墓]]。[[元正天皇陵]]や[[基王墓]]が近くにある。'''奈保山東陵'''。 == 歴史 == [[ファイル:9C67C2DD-8912-4328-A25D-41C4A58D7DAF.jpeg|thumb|300px|元明天皇陵・元正天皇陵(国土地理院空中写真より)]] [[ファイル:7CF9D5D7-ABAF-4032-A1E4-594273D3FEB5.jpeg|thumb|300px|元明天皇陵(国土地理院空中写真より)]] 元明天皇は、古墳を否定し山丘をもって陵墓となすように命じた。大化の改新以来の薄葬思想がさらに進んだことを示し、「古墳型陵墓」から「山丘型陵墓」への転換期を示す陵墓であるとされる。 721年(養老5年)12月7日に崩御したが、遺詔として、華美な葬儀を戒め、「雍良峯」で火葬し、古墳を築かず、火葬所を山陵とし、碑を建てることを命じている(『続日本紀』)。火葬については既に[[持統天皇]]や[[文武天皇]]の例があり、元明天皇で三番目になる。しかし、古墳を築かないことは、元明天皇に始まるのであった。また天皇陵に限らず、墓碑の類が製作されることは、日本古代の墳墓としては極めて異例である。これらのことは、唐の皇帝陵の影響があったと考えられている。陵碑に関しては鎌倉時代の『東大寺要録』に図示されているが、次第に元明天皇陵の存在は忘れられ、所在地は不明となった。 江戸時代に天皇陵の考証が始まると、当初は「ウワナベ古墳」(中期・5世紀中葉・前方後円墳)が有力視された。しかし、「養老ケ峰」という山で崩落があり、そこから「函石」が出土した。1769年(明和6年)、藤貞幹がこの石こそ『東大寺要録』に記載のある元明天皇陵碑であると考証した(『奈保山御陵碑考証』)。これを受けて文久の修陵の際には、従来の「ウワナベ古墳」ではなく、「養老ケ峰」が元明天皇陵として修復された。このとき、「函石」は山陵頂上部の新造された覆屋に保管されるとともに、1870年(明治3年)には模刻の石碑が製作され、隣接して設置された(非公開)。『文久山陵図』の成功図にも陵頂に小屋が確認できる。一方、ウワナベ古墳はのちに「[[宇和奈辺陵墓参考地]]」となった(『文久山陵図』207・山田邦和「元明天皇陵」『歴史検証天皇陵』)。 [[category:奈良県]]
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