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八海山
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2016年2月28日 (日)
八海山 |
左:八海山 八ツ峰 右:大崎里宮(八海山尊神社) |
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目次 |
概要
八海山(はっかいさん)は、南魚沼地方に位置する、木曽御嶽信仰の霊山である。
古くから信仰の霊山であり、中世には越後三宮(『神道集』による。どの神社を指すのかは不明。)として知られていたが、江戸時代後期に、木曽御嶽山を中興した人物の一人普寛が、八海山山麓居住の泰賢を弟子としてともに八海山を開山し、八海山は木曽御嶽信仰の霊山となった。
かつては、薬師如来の霊山とされたが、木曽御嶽信仰では八海山大頭羅神王(八海山大神)が鎮座する山として信仰されている。八海山大頭羅神王は、十六善神(『般若経』護法神)の一神である提頭頼〓善神(四天王としては持国天)に由来する神で、神道の神としては、天地開闢とともに出現した国狭槌尊とされる。木曽御嶽信仰の主神は、木曽御嶽山に鎮座する御嶽山座王大権現(御嶽大神)であるが、八海山大頭羅神王は、三笠山刀利天宮(三笠山大神)とともに、それに次ぐ最も重要な神として信仰されるようになった。木曽御嶽信仰の社寺霊場には八海山大神が祀られていることが多い。
主な登山口としては、古くからの大倉口、現在栄えている大崎口、普寛が開いた城内口屏風道などがある。ほかに城内口生金道(おいかねみち)があったが廃道となっている。各登山口に里宮がある。ただ、いま挙げた四つの登山道の里宮は、本格的な社殿が建てられたのは普寛による開山以降であった。一方で、かつて里宮の役割を担っていたと思われる神社が周辺にいくつか存在している。
山中には霊神碑が数多く建てられている。また八海山の語源とも言われる八つの池が存在している。山上には非常に険しい峰が八つ連続して並んでおり、八ツ峰と呼ばれて、こちらも八海山の語源説の一つにも言われている。その一つの不動岳が事実上の本社的地位にあり、かつては「万年堂」という祠があったらしい。また大日岳が奥社的な地位にあると考えられる。ただし、現在は本格的な社殿は建立されておらず、石祠や碑像があるのみである。
本社となる神社については、ちょっとはっきりしない点がある。かつては不動岳の「万年堂」が頂上本社にあたるものだったと思われ、現在もそのような位置付けにあると思われる。というのも現在も登拝した際には、大日岳に行けない場合でも不動岳で祭祀を行っているからである。ところが、江戸時代後期には頂上ではなく、屏風道と生金道の七合目に本社が祀られていた。特に屏風道の「屏風ケ岩倉」というところには普寛が八海山を開山したときに建てた社殿があった。生金道には「生金の立岩」というところに本社があったという。これらの本社と頂上の祠との関係や変遷の経緯については不詳である。
木曽御嶽信仰とは比較的関連の薄い八海山信仰も行われており、修験道においては、聖護院認定の越後の国峰(くにみたけ)となっており、入峰修行が行われている。
由緒
歴史
近世中期まで
木曽御嶽信仰の進出
木曽御嶽信仰の霊場と八海山
構成
山上
位置 | 名称 | 所在地 | コメント |
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山上 | 地蔵岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八ツ峰の一つ。地蔵が祀られている。 |
山上 | 不動岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八ツ峰の一つ。事実上の本社と思われる。かつては「万年堂」と呼ばれた(『越後野誌』、鈴木1978)。現在は文久2年閏8月の祠がある(松本1979)。また八海山大神像や不動明王像のほか、国常立、摩利支天やあるいは、一心霊神の名が刻まれた数十基の神名碑、霊神碑が祀られている。なお、このほか山上の各峰には合計21の社があるといい(松本1975)、「二十一社大神」として信仰されているようである。 |
山上 | 七曜岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八ツ峰の一つ。 |
山上 | 白川岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八ツ峰の一つ。 |
山上 | 釈迦岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八ツ峰の一つ。 |
山上 | 摩利支天岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八ツ峰の一つ。 |
山上 | 剣ヶ峰 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八ツ峰の一つ。 |
山上 | 大日岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八ツ峰の一つ。八海山の奥社。標高は1710m。大日岳には八海山大神の像がある。 |
山上 | 入道岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 空明が御池道(阿寺山道)とともに嘉永2年6月に開山したという。日本武尊(摩利支天)を勧請したものと推測されている(鈴木1978)。 |
山上 | 五龍岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 五龍ケ池がある。五龍ケ池には五竜王大神を祀るともいう。(鈴木1978) |
山上 | 漕池 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八海山の語源となった八つの池の一つ。『八海山御伝記』(鈴木1978所収)によると、八海山の語源となったのは次の八つの池であるという。古気池(漕池)(難陀龍王)、裏冨池(浦戸池)(跋難陀龍王)、瓶丹池(瓢池?)(娑伽羅龍王)、硯池(和修吉龍王)、日池(徳叉迦龍王)、月池(阿那婆達多龍王)、神生池(摩那斯龍王)、赤石池(優鉢羅龍王)であるという。それぞれ八大龍王が祀られているという。ただし、八つの池は、こぎ池、浦戸池、ひょうたん池、雨池、月の池、日の池、一の池、二の池という説もある(宮家1981)。 |
山上 | 浦戸池 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八海山の語源となった八つの池の一つ。 |
山上 | 瓢池 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八海山の語源となった八つの池の一つ。 |
山上 | 硯池 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八海山の語源となった八つの池の一つ。 |
山上 | 日池 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八海山の語源となった八つの池の一つ。 |
山上 | 月池 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八海山の語源となった八つの池の一つ。 |
山上 | 神生池 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八海山の語源となった八つの池の一つ。 |
山上 | 赤石池 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 八海山の語源となった八つの池の一つ。赤石池は現在、どの池に当たるのか不明である。 |
越後三山 | 中ノ岳 | 新潟県南魚沼市 | 越後三山の一つ。八海山の南東にある。標高は2085m。御嶽山大神・国常立尊を祀る(1918(大正7)「越後八海山全図」宮家1981所収、松本1975、松本1979)。あるいは幕末に変摂(?-1867(慶応3))が開山したともいう(鈴木1978)。 |
越後三山 | 越後駒ケ岳 | 新潟県南魚沼市 | 越後三山の一つ。八海山の北東にある。標高は2003m。三笠山大神を祀る(1918(大正7)「越後八海山全図」、宮家準「南魚沼における修験の展開」所収)。あるいは、「豊雲斟尊」(「豊斟停尊」)(ママ)を祀るという(松本1975、松本1979)。現在、山頂には神像が祀られているようだが、三笠山大神の神像だろうか。 |
城内口祓川道
位置 | 名称 | 所在地 | コメント |
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城内口祓川道 | 暮坪里宮 暮坪八海神社 | 新潟県南魚沼市長森暮坪761 | 祓川道里宮。通称「元里宮」。祭神は、「水徳神国狭槌命、天津日子瑤之許命、伊茂神々吾田鹿違津姫命」(ママ)(宮家1981)。社家は栗田家。かつての登山道入口。かつては「宮の入り」の山麓にあったという。伝承(『八海山大明神由緒及記録』)によると、応神天皇の時代に大和の栗田清国が日向高千穂に参籠したところ、国狭槌尊、瓊瓊杵尊、鹿葦津比女が出現し、越後八海山に祭祀するように託宣を下した。そこで栗田清国は帰国して、氏子を引き連れて条内郷に下り、八海山に神々を祭り、暮坪に遥拝所を設け、延喜年間に社殿を建立したという。1799年(寛政11年)、社殿を造営し、当社こそが山頂の峯八海山大明神の兄弟社だと主張した。現在は講を満願寺に譲り、大崎里宮と密接にある。(鈴木1978、宮家1981) |
城内口祓川道 | 稲荷山満願寺 | 新潟県南魚沼市長森暮坪847 | 祓川道入口にある当山派修験寺院。真言宗醍醐派。泰賢が修行した。本尊は不動明王で、脇侍として「八海提頭羅〓神王、弘法大師、普寛、泰賢」を祀る(宮家1981)。応永年間に戸隠より法道という僧侶が来て創建。あるいは慶長年間に胎蔵院浄円が創建したともいう。あるいはまた、暮坪八海神社の栗田神主の後継者が京都に神主の資格を修得しに行ったとき、神主ではなく修験の資格を得て帰ってきて建てたものだともいう。かつての登山口にあたるという。1851年(嘉永4年)7月24日、醍醐寺より「八海山城内表口別当職」の許状を貰う。空明が寄寓していたという。(鈴木1978、宮家1981) |
城内口屏風道
位置 | 名称 | 所在地 | コメント |
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城内口屏風道 | 八海山長福寺 | 新潟県南魚沼市山口上薬師堂100 | 真言宗寺院。真言宗智山派。本尊は薬師如来。木曽御嶽信仰以前の八海山において、八海山の本地仏薬師如来を祀った寺であった可能性があるという。(鈴木1978) |
城内口屏風道 | 山口里宮 山口八海神社 | 新潟県南魚沼市山口中手原454 | 城内口の里宮。社家は村山家。祭神は「国狭槌尊、瓊瓊杵尊、木花咲耶姫尊」ほかを祀る(松本1975)。江戸時代後期においては、自然石を祀っていたが、のち杉の木を祀るようになり、鳥居が建てられた。1840年(天保11年)7月、藤原集落の井口伊豆正が生金道を開山し、生金本社を創建すると、それに触発される形で山口村の十二所神社神主村山吉永は同年秋に登山口の「鳥居の木」という場所に里宮を創建した。やはり井口家に触発される形で、1841年(天保12年)2月、村山家は吉田家より「山口村十二所大明神・西表八海山大明神両社神主職」の許状を得た。村山家は神道修成派に所属し、第六教務支局長を勤めた。1910年(明治43年)、周辺の小社を合祀。1927年(昭和2年)、村社となる。戦後は御嶽教との関係を深め、境内に「新御嶽教大霊場」が設置されている。(鈴木1978、松本1975、宮家1981) |
城内口屏風道 | 十二所神社 | 新潟県南魚沼市山口 | 山口集落の鎮守。現存不明。位置不明。城内口屏風道里宮の社家村山家は、もともとこの神社の社家であった。(鈴木1978) |
城内口屏風道 二合目 | 普寛塔 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 普寛霊神碑を中心とする霊神場と思われる。八海山では大崎里宮の霊神場に次ぐ霊神場となっている。80基ほどあるという。場所不明。(鈴木1978) |
城内口屏風道 四合目 | 清滝 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 不動尊がまつられているというが不詳である。現在、猿田彦像がある。30基ほどの霊神碑があるという。(鈴木1978) |
城内口屏風道 | 徳恵稲荷 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 不詳。 |
城内口屏風道 七合目 | 屏風本社 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 城内口屏風道の本社。場所不明。1794年(寛政6年)6月18日、普寛が八海山屏風道を開山し、「屏風ケ磐倉」に社殿を創建した。1852年(嘉永5年)7月、「屏風ケ磐倉」での祭祀権を巡る係争が生じた。創建以来、山口集落の村山家が屏風本社の祭祀を行ってきたと思われるが、そこに藤原集落の井口家が進出し、社殿を建立したため、対立が生じた。内済人により、双方が建てた社殿はそのまま祭祀するが、破損しても再建しないことで決着した。戦後、廃絶したという。現在、10基ほどの霊神碑があるという。(鈴木1978) |
城内口屏風道 七合目? | 摩利支天 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 不詳。屏風本社の跡地か。祠や神像がある。 |
城内口生金道
位置 | 名称 | 所在地 | コメント |
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城内口生金道 | 繁盛山法音寺 | 新潟県南魚沼市藤原690乙 | 真言宗寺院。現在は真言宗智山派。木曽御嶽信仰以前の八海山において、八海山信仰の拠点であったと推定されている寺院である。のち上杉家の菩提寺となり、同名の寺院が米沢に現存している。(宮家1981) |
城内口生金道 | 生金里宮 藤原八海神社 | 新潟県南魚沼市藤原150 | 城内口生金道里宮。藤原集落にある。主祭神は「国狭槌大明神、天津彦火瓊瓊杵尊、木花咲夜比売命」であり、相殿に「高皇産霊大神、国之常立大神、大山祇命」を祀る(宮家1981)。社家は本宮(井口)家。1840年(天保11年)に藤原集落の井口伊豆正が生金道を開山し、生金本社を創建したが、その九年後の1849年(嘉永2年)に自邸に接して八海神社を創建した。これは生金本社創建の当初から計画されていたが、ようやく実現したもの。関東講中の寄進による。開山した1840年(天保11年)には、井口伊豆正は吉田家より「八海山南表神主職」の免状を得た。井口伊豆正は関東方面を中心に活発に布教活動を行ったという。明治以降は神道修成派に所属した。生金道は昭和末期から平成初期にかけて廃道になった。屏風里宮に「なかば包摂される形をとっている」という(宮家1981)。(鈴木1978、宮家1981) |
城内口生金道 五合目 | 生金本社 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 城内口生金道の本社。1840年(天保11年)7月、井口伊豆正が創建。「生金の立岩」がある。生金本社の社殿造営は上野国勢多郡大胡町の講中に寄進に依ったものだという。1852年(嘉永5年)には八海山大神の神像が作られ、ご神体として祀られた(現在は里宮にある)。15回ほど建て替えられたが、1940年(昭和15年)に倒壊して以来、再建されていないという。1853年(嘉永6年)7月30日、新田郡講中の寄進により、参籠屋が設置された。1856年(安政3年)6月にも武蔵国幸手を中心とする講中の寄進により参籠屋が設置された。生金道は昭和末期から平成初期にかけて廃道になった。(鈴木1978、宮家1981) |
大崎口
位置 | 名称 | 所在地 | コメント |
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大崎口 | 大前神社 (新潟県南魚沼市) | 新潟県南魚沼市大崎4042 | 大崎集落の鎮守。式内「大前神社」。もと「稲荷大明神」と称した。泰賢を輩出した山田家は元来、この神社の社家であった。稲荷神を祀る。摂社に八海山社があった。1797年(寛政9年)3月、「大前神社」と改称。(宮家1981) |
大崎口 | 八海山尊神社社務所 | 新潟県南魚沼市大崎4161 | 大崎口里宮の社務所。神殿もある。講社の着到所にもなっている。山田家。(鈴木1978) |
大崎口 | 八海山龍谷寺 | 新潟県南魚沼市大崎3455 | 曹洞宗寺院。前身を「六万寺」と称し、堂平山の中腹の龍の口にあった。八海山とは密接な関係にあったのだと思われる。天文年間に現在地に移転(阪野2003)。当初は天台宗であったが、真言宗となり、のち曹洞宗となった。本堂の裏に八海山神の石祠を祀る(宮家1981)。八海社の旧地ともいう。(鈴木1978、阪野2003、宮家1981) |
大崎口 | 泰賢墓 | 新潟県南魚沼市大崎3455 | 泰賢の墓所。菩提寺である龍谷寺門前にある。宝篋印塔である(1815年(文化12年)建立、1884年(明治17年)再建)。同所には1904年(明治37年)建立の「円城院泰賢霊神百年塔」もある。埼玉県本庄にあるのが本墓であり、当所は分骨所である。(鈴木1978) |
大崎口 | 大崎里宮 八海山尊神社 | 新潟県南魚沼市大崎3746 | 大崎口里宮。祭神は「国狭槌尊、天津彦火瓊々杵尊、木花咲耶姫尊、大山祇尊、日本武尊」である(HP)。霊風殿、元宮、八意天神社、泰賢霊窟、泰賢霊神碑、霊神場がある。かつては石祠と鳥居のみがあったという。1794年(寛政6年)6月18日、普寛が八海山屏風道を開山に普寛によって屏風道が開山されたが、その後、泰賢によって1803年(享和3年)によって大崎口が開かれたとされる。泰賢が小堂を建立したとされ、1928年(昭和3年)に社殿を建立(現在の元宮)。1940年(昭和15年)に神社として公認された。1979年(昭和54年)に現在の社殿を建立した。現在最も活発な活動を行っている。南魚沼、長岡、栃尾、見附、新潟、東京など都市部の信者が多い。北魚沼郡、三島郡、南蒲原郡や群馬、埼玉と上越線沿いに信者が多い。(鈴木1978、鈴木1977、宮家1981) |
大崎口 | 八海山尊神社 霊風殿 | 新潟県南魚沼市大崎3746 | 大崎口里宮にある八海山大神の神像を祀った社殿。1994年(平成6年)の創建。(八海山尊神社ウェブサイト2010/10/28アクセス) |
大崎口 | 八海山尊神社 霊神場 | 新潟県南魚沼市大崎3746 | 大崎口里宮にある霊神場。八海山最大規模の霊神場である。およそ150基ほどの霊神碑があるという。泰賢霊神、二十一社大神、八海山大神、御嶽大神、三笠山大神の五基の神霊碑を祀った霊場がある。(宮家1981、松本1975) |
大崎口 | 泰賢霊窟 | 新潟県南魚沼市大崎3746 | 泰賢が参籠していたという洞窟。伝承によると、1798年(寛政10年)に泰賢はこの洞窟に籠り、三年間、塩断ち穀断ちの修行を行ったとされる。泰賢は洞窟に不動明王を祭り修行したという。(鈴木1978) |
大崎口 | 泰賢霊神碑 | 新潟県南魚沼市大崎3746 | |
大崎口 二合目半 | 金剛霊泉 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 不詳。 |
大崎口 四合目 | 山頂駅遥拝所 | 新潟県南魚沼市 八海山 | ロープウェイ山頂駅にある遥拝所。神像(八海山大神か)および八海山大神と木花咲耶姫命を祀った御幣がある。 |
大崎口 五合目半 | 三笠山 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 三笠山胎内潜りが五合目半にあるという。(松本1979) |
大崎口 六合目 | 御室女人堂 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 現在はロッジとなっているが、従来は祭壇を備えた小屋であった。周辺には20基ほどの霊神碑が建てられている(松本1979)(鈴木1978)。大倉口本社があったか?? |
大崎口 八合目 | 猿田彦大神 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 40基ほどの霊神碑が建てられている。(鈴木1978) |
大崎口 八合目 | 薬師岳 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 日本武尊や役行者が祀られている。霊神碑もある |
大崎口 九合目 | 千本檜小屋 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 千本檜にある山小屋。内部には祭壇がある。満願寺が管理。大崎、大倉、城内三登山口の共同経営ともいう。霊神碑が90基ほど建てられている。(鈴木1978) |
大倉口
位置 | 名称 | 所在地 | コメント |
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大倉口 | 大倉坂本神社社務所 | 新潟県南魚沼市大倉 | 大倉口里宮の社務所。信者の参籠所となっている。(松本1979) |
大倉口 | 大倉里宮 大倉坂本神社 | 新潟県南魚沼市大倉864 | 大倉集落の鎮守。式内「坂本神社」の論社。祭神は「瓊々杵尊、大山祇命、木花咲耶姫尊」であり、他に「日本武尊、大己貴神」を祀る(宮家1981)。通称八海神社。「八海山神」を祀るという。山上御室にある宮殿を本社とする。かつては里宮には鳥居のみがあった。やがて石祠が建立され、1873年(明治6年)7月に再建された。1930年(昭和5年)に現在の社殿が造営された。三条市を中心とする中越地方や東京宇都宮などの関東地方に信者を持つ。社家は上村家。八海山の社家では最も古い家系とされる。不動明王を祀った水行場がある。50基ほどの霊神碑がある。(鈴木1978、宮家1981、松本1979) |
大倉口 二合目半 | 結び岩 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 不詳。 |
大倉口 三合目 | 風穴 | 新潟県南魚沼市 八海山 | 不詳。 |
山麓
位置 | 名称 | 所在地 | コメント |
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山麓 | 五十沢坂本神社 | 新潟県南魚沼市宮590 | 式内「坂本神社」の論社。桂山の南西麓にある。五十沢・城内48村の総鎮守と言われていたという。祭神は「瓊々杵尊、木花開耶姫命」(玄松子)。八海山の峰続きである桂山の山麓にあることから、里宮だった可能性があるという。社家は小沢家。1895年(明治28年)5月、「八海神社」を「坂本神社」に改称。近隣より遷座したらしい。(鈴木1978) |
山麓 | 水尾八海神社 | 新潟県南魚沼市水尾 | 堂平山西麓にある神社。祭神は「天津彦火瓊々杵尊、大山祇神、木花開耶姫命」である(宮家1981)。社家は岡崎家。八海山の峰続きである六万騎山の麓にあることから、八海山里宮だった可能性があるという。(鈴木1978、宮家1981) |
参考文献
- ★鈴木昭英1977「八海山信仰の展開」鈴木昭英 2004『越後・佐渡の山岳修験(修験道歴史民俗論集3)』法蔵館(ISBN 4831875392)、『南魚沼』15
- ★鈴木昭英1978「八海山信仰と八海講 」鈴木昭英 2004『越後・佐渡の山岳修験(修験道歴史民俗論集3)』法蔵館(ISBN 4831875392)、『富士・御嶽と中部霊山(山岳宗教史研究叢書9)』名著出版[1]
- 鈴木昭英1979「八海山行者の憑祈祷・引座」鈴木昭英 2004『霊山曼荼羅と修験巫俗(修験道歴史民俗論集2)』法蔵館(ISBN 4831875384)、大谷大学国史学会編 1979『論集日本人の生活と信仰―大谷大学国史学会創立50周年記念―』同朋舎出版[2](原題「八海山行者の憑祈祷・引座について」)
- ★鈴木昭英1986「八海山信仰の源流」鈴木昭英 2004『越後・佐渡の山岳修験(修験道歴史民俗論集3)』法蔵館(ISBN 4831875392)、『雪国の宗教風土』名著刊行会[3](原題「八海山の風土と信仰」)
- ★鈴木昭英1988「八海山行者の木食・断食」鈴木昭英 2004『越後・佐渡の山岳修験(修験道歴史民俗論集3)』法蔵館(ISBN 4831875392)、『新潟県の歴史と民俗』[4](原題「八海山修験の木食・断食」)
- 鈴木昭英2003「祖庭禅師信仰の展開と八海山行者」鈴木昭英 2004『霊山曼荼羅と修験巫俗(修験道歴史民俗論集2)』法蔵館(ISBN 4831875384)、福田晃・山下欣一編 『巫覡・盲僧の伝承世界 第2集』三弥井書店[5]
- 井之口章次1950「八海山の麓から―新潟県南魚沼郡城内村」『民間伝承』147[6]
- ★宮家準1981「南魚沼における修験の展開―御岳と八海山の信仰」宮家準編 1981『修験者と地域社会―新潟県南魚沼の修験道』名著出版[7]
- 高岡功1972「越後八海山について」『あしなか』132
- ★阪野祐介2003「新潟県・八海山を対象とした山岳信仰の展開--大崎口崇敬者の分布を中心に」『歴史地理学』45(5)[8]
- 山崎久雄1968「越後三山地域の八海山岳信仰」『越後三山・奥只見自然公園学術調査報告(日本自然保護協会調査報告34)』財団法人自然保護協会[9]
- ★松本晧一1975「越後八海山信仰調査の中間報告--実態と今後の課題」『宗教学論集』8[10]
- ★松本晧一1979「越後八海山信仰の実態-承前-大倉口より不動岳にいたる」『宗教学論集』9[11]
- 松本晧一1981「越後八海神社における登拝講集団と里宮」『小口偉一教授古希記念論集』春秋社[12]
- 新潟中央高校歴史研究クラブ1966「八海山信仰の研究」『生徒会誌 記念樹』
- 池田享1978「八海山、火渡り祭り」『蒲原』夏号
- 池田享1978「八海霊山と山岳宗教」『護光』33巻8月号
- 中山郁1993「八海山行者の入巫過程」『神道宗教』152[13]
- 中山郁1994「八海山行者の修行」『神道宗教』157[14]
- ★八海山尊神社ウェブサイト[15]
★:既読文献