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出羽・寂光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
出羽・寂光寺
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'''寂光寺'''(じゃっこうじ)は、出羽国田川郡にあった[[出羽三山]]・[[羽黒山]]の[[天台宗]]寺院。(参考:同名寺院[[寂光寺]]) == 組織 == ===羽黒山執行=== 「羽黒山修験道要略」による。「羽黒山修験広法灌頂伝持血脈」(「伝持血脈」)も参照。号は「伝持血脈」による。 *[[蜂子皇子]](562-641):[[崇峻天皇]]皇子。聖徳太子の従兄弟に当たる。崇峻天皇暗殺に際して東北に落ち延びたと言われる。能除太子と同一視される。1823年(文政6年)8月、[[寛永寺]]を通じて朝廷より「照見大菩薩」の諡号を賜る。神仏分離に伴い、1874年(明治7年)2月7日、神号を「蜂子命」と定められた。 *弘俊:蜂子皇子の弟子。皇極天皇1年に初代執行になったとされる。尊法坊と号す。 *忍慶:大光坊 *行善:理本坊 *直酋:会部坊。「伝持血脈」では真西。 *源慶:越前坊。「伝持血脈」では深慶。 *行覚:理円坊。 *弘弁:聖泉坊。 *秀慶:下総坊。 *宗祐:善教坊。 *覚俊:密蔵坊。 *行栄:総持坊。 *良弁:山城坊。 *行栄:総持坊。再任。 *行承:形部坊。「伝持血脈」では行円。 *明春:加賀坊。 *宗慶:永真坊。「伝持血脈」では泉慶。 *盛慶:三河坊。 *了覚:了学坊。「伝持血脈」では宗円。 *乗円:伊豆坊。 *承宗:佐渡坊。「伝持血脈」では永宗。 *隆快:播磨坊。 *禅盛:甲斐坊。 *盛煕:空耶坊。 *常久:暹永坊。 *長豪:大耶坊。 *金薩:実蔵坊。 *広宗:式部坊。 *長豪:大耶坊。再任。 *盛酋:永泉坊。「伝持血脈」では盛酉。 *泉慶:永金坊。 *重盛:義宗坊。「伝持血脈」では重増。 *慶善:朝泉坊。 *慶宗:伊勢坊。「伝持血脈」では慶実。 *宗春:三河坊。 *永泉:二位坊。 *蔵賢:薬師坊。 *慶海:延命坊。 *盛永:沢内坊。 *永慶:沢内坊。 *慶尊:宝前坊。 *永慶:華蔵坊。沢内坊とは別人? *慶俊:初めて別当を兼任した三山執行。[[日月寺]]住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。別当を兼任する。以後、別当は三山執行の兼職となる。再任。宝前坊、光明院と号す。 *元慶:薩摩坊。 *源慶:空照坊。 *尊良:宝性院。 *慶俊:再任。 *宥源(-1617)<>:慶俊の弟子。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。1605年(慶長10年)ごろ、宝性院尊量に最上義光へ訴えられて、追放された。宝前院と号す。 *源慶(-1618)<1617-1618>:「羽黒山修験道要略」「伝持血脈」に記載なし。「出羽三山史年表」に記載。 *宥俊(1573-1661)<1618-1661>:宥源の弟子。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。1605年(慶長10年)ごろ、宝性院尊量に最上義光へ訴えられて、追放された。最上義光の死後、帰還を果たした。宝前院と号す。 *天宥(1593-1674)<1661-1668>:中興。宥俊の弟子。もと「宥誉」と称した。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。石工が巧みで、手向の六字橋、東照社の手水舎、荒沢の鳥居、須賀の滝を造営。また[[玉川寺]]の庭園を造営したという。1641年(寛永18年)、江戸で天海に謁して、「天宥」と称す。1661年(寛文1年)、宥俊の死去を受けて、執行を兼ねる。出羽三山全山を羽黒山の支配下に置こうとするが、湯殿山の抵抗にあって実現しなかった。1668年(寛文8年)4月、[[伊豆大島]]に遠島となるが、実際には伊豆[[新島]]に流された。同地で死去。以後、三山執行別当には、寛永寺の高僧が兼任するようになり、羽黒山の独立性は弱まった。宝前院と号す。 *純応:覚樹院。「羽黒山修験道要略」に記載なし。「伝持血脈」に記載。 ===近世の羽黒山執行=== *1668年(寛文8年)から[[輪王寺宮]]の命で任命。別当または別当代が職責を果たす。寛永寺僧が務め、赴任しなかったものが多い。 *主に戸川安章「出羽三山史年表」より。 {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|歴代 !style="width:10%;"|別当 !style="width:5%;"|別当代 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:10%;"|号 !style="width:40%;"|備考 |- |52 |圭海 | | |1668-1675 |尊重院 |宝樹院(徳川家綱の生母)の弟という。元は「月窓」と称した[[日蓮宗]]僧侶という。[[毘沙門堂]]公海の弟子。寛永寺浄円院に住す。[[愛宕山]]長床坊に転じる。 |- | |(圭海) |圭純 | |1668-1675 |円鏡院 |「出羽三山史年表」には記載なし。 |- |53 |(輪王寺宮) |実胤 |?-1677 |1675-1677 |寿命院 | |- |54 |(輪王寺宮) |円海 | |1677-1677 |明光院 | |- |55 |胤海 | | |1677-1682 |凌雲院 |天海の弟子。[[寛永寺]]学頭。[[寛永寺凌雲院]]。「別当別当代一覧」では1678年(延宝6年)就任。[[伯耆大山]]の[[伯耆・大山寺|大山寺]]学頭4世。 |- | |(胤海) |周海 | | |惣持院 |「出羽三山史年表」には記載ないが「別当別当代一覧」では1678年(延宝6年)就任の別当代とする。 |- |56 |(輪王寺宮) |良諶 | |1683-1684 |覚前院 | |- |57 |公雄 | | |1684-1691 |円覚院 |「別当別当代一覧」では1689年(元禄2年)退任のように記す。 |- | |(公雄・義天) |照寂 | |1684-1692 |和合院 | |- |58 |義天 | | |1691-1699 |仏項院 |義天以後は覚諄まで羽黒山に下向せず。「別当別当代一覧」では1692年(元禄5年)就任。 |- | |(義天) |光海 | |1692-1699 |心地院 | |- |59 |智舟 | | |1699-1705 |願王院 |寛永寺明王院。著書に『台宗二百題』。「別当別当代一覧」では「智周」とする。 |- | |(智舟) |存海 | |1699-1705 |理善院 |「別当別当代一覧」では「祐存」とする。 |- |60 |貫通 | | |1705-1709 |楞伽院 |「別当別当代一覧」では「貫道」とする。 |- | |(貫通) |了堂 | |1705-1709 |大乗院 | |- |61 |(輪王寺宮) |弁海 | |1709-1719 |智妙院 |「別当別当代一覧」では1710年(宝永7年)就任とする。「出羽三山史年表」では退任年を記さない。 |- | |慈永 | | |1719-1720 |霊山院 |[[善光寺大勧進]]に転任(75世の慈泉か)。「出羽三山史年表」では就任年を記さない。就任年は「別当別当代一覧」による。 |- |62 |(輪王寺宮) |智英 |?-1721 |1720-1721 |施徳院 |病死。「別当別当代一覧」では「知英」とする。「別当別当代一覧」では1719年(享保4年)就任とする。 |- |63 |(輪王寺宮) |亮天 | |1721-1730 |性源院 |「別当別当代一覧」では1720年(享保5年)就任とする。 |- |64 |(輪王寺宮) |可道 | |1730-1739 |久遠院 | |- |65 |(輪王寺宮) |覚泉 | |1739-1741 |霊光院 | |- |66 |(輪王寺宮) |弁宥 | |1741-1747 |正光院 | |- |67 |(輪王寺宮) |諄慶 |?-1759 |1747-1759 |医王院 |病死。 |- |68 |(輪王寺宮) |智印 | |1759-1766 |智願院 |「別当別当代一覧」では「知印」とする。 |- |69 |(輪王寺宮) |亮豊 | |1766-1775 |戒光院 | |- |70 |(輪王寺宮) |義詮 | |1775-1782 |得禅院 |辞任後2年間、別当代任命されず。 |- |71 |(輪王寺宮) |義俊 | |1784-1788 |成満院 |「別当別当代一覧」では1782年(天明2年)就任とする。 |- |72 |(輪王寺宮) |官惇 |?-1791 |1788-1791 |化城院 | |- |73 |(輪王寺宮) |義研 | |1791-1808 |篤行院 | |- |74 |(輪王寺宮) |亮明 | |1808-1811 |慈心院 | |- |75 |'''覚諄''' | |?-1847 |1811-1825 |深達院 |羽黒山中興。権僧正。越前勝山の出身。[[平泉寺]]で得度。[[日光山医王院]]より転住。山内の支持を得て、諸改革の実行を成功させた。1820年(文政3年)、本社再建を実現。さらに1823年(文政6年)、社号を「出羽神社」とし、正一位の神階授与、「照見大菩薩」号下賜を実現した。「別当別当代一覧」では1813年(文化10年)就任とする。荘厳院、深達院、摩訶衍院と号す。 |- |76 |山海 | |1784-1853 |1825-1836 |楞伽院 |日光山藤本院から転任。世良田[[長楽寺]]を経て[[善光寺大勧進]]に転住。(略歴は[[善光寺大勧進#組織]]を参照) |- |77 |覚音 | |?-1842 |1836-1842 |光明院 |日光山医王院から転任。「別当別当代一覧」では1837年(天保8年)就任とする。 |- |78 |(輪王寺宮) |実円 | |1842-1846 |隆信院 |延暦寺常光院に転じる。「出羽三山史年表」では別当代とするが、「別当別当代一覧」では1843年(天保14年)就任の別当とする。 |- |79 |澄海 | |?-1864 |1846-1861 |龍王院(海龍王院) |日光山龍光院から転任。権僧正。手向蓮台寺に隠居。「別当別当代一覧」では1847年(弘化4年)就任とする。 |- |80 |官田 | |?-1872 |1861-1870 |霊山院(霊鷲院) |寛永寺福聚院から転任。出羽国村山郡出身。立石寺弟子。権僧正。1870年(明治3年)10月還俗して「羽黒宝前」と名乗る。出羽神社社司となる。 1872年(明治5年)死去。 |} [[Category:山形県]]
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