ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

勝鬘寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年12月30日 (木)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
 
1行: 1行:
-
'''勝鬘寺'''(しょうまんじ)は、愛知県岡崎市にある[[浄土真宗]]寺院。[[和田門徒]]の拠点で、三河[[一向一揆]]の拠点となった。[[三河・上宮寺]]、[[本証寺]]と共に三河三カ寺とされ、[[本宗寺]]も加えて[[徳川家康]]軍と戦った。[[三河七箇寺]]の一つ。[[真宗大谷派]]。山号は和田山、寂光山。
+
'''勝鬘寺'''(しょうまんじ)は、愛知県岡崎市針崎町朱印地にある[[浄土真宗]]寺院。[[和田門徒]]の拠点で、三河[[一向一揆]]の拠点となった。[[三河・上宮寺]]、[[本証寺]]と共に三河三カ寺とされ、[[本宗寺]]も加えて[[徳川家康]]軍と戦った。[[三河七箇寺]]の一つ。[[真宗大谷派]]。'''赤渋勝鬘寺'''。'''針崎勝鬘寺'''。'''勝万寺'''とも。山号は和田山、寂光山。
-
聖徳太子が建てた寺院を正嘉2年(1258)信願房了海が親鸞に帰依して碧海庄赤渋に復興。
+
[[聖徳太子]]が建てた寺院を1258年(正嘉2年)信願房了海が親鸞に帰依して碧海庄赤渋に復興。
-
明応5年(1496)現在地に移転。
+
1496年(明応5年)赤渋から針崎の現在地に移転。1563年(永禄6年)10月の三河一向一揆で徳川家康と対決。
 +
1564年(永禄7年)1月、家康軍に火を放たれ大伽藍は焼失し、住職らは信濃に逃れた。
 +
1585年(天正13年)、家康の寺院再興の安堵を得て復興。1601年(慶長6年)黒印地50石を与えられた。
 +
1734年(享保19年)本堂再建。
-
[[越前・勝鬘寺]]とも関係あるか。
+
勝鬘寺6世の宗授が1475年(文明7年)に加賀に[[加賀・本善寺|敷地勝鬘寺]]を創建というが、宗授が誰にあたるのか不明。
 +
==組織==
 +
===歴代住職===
 +
(世数など主に真宗年表による。ウェブサイトの系図とは少し異なる)
 +
*1:了海()<>:信願房。信海房。ウェブサイトでは1282年(弘安5年)9月19日死去とある。真宗年表では1274年(文永11年)4月8日死去、83歳とある。
 +
*2:了尊()<>:
 +
*3:了覚()<>:
 +
*4:了翁()<>:
 +
*5:了勲()<>:
 +
*6:了恵()<>:
 +
*7:蓮恵()<>:ウェブサイトの系図にはなし。
 +
*8:了善()<>:
 +
*9:了通()<>:高珍。大町専修寺を兼務。蓮如と面会相談して自分の娘婿で蓮如の甥の蓮慶に大町専修寺を継がせる。
 +
*10:了顕(?-1530)<>:了通の外孫。大町専修寺5世蓮慶の長男。蓮如の妹の孫にあたり、本願寺と関係を深める。1530年(享禄3年)5月17日死去。高岩院。
 +
*11:了勝(?-1594)<>:了顕の長男。1594年(文禄3年)3月6日死去。瑞賀院。
 +
*12:了順()<>:信濃に逃げる。
 +
*:超了()<>:了順の長男。早世。真宗年表になし
 +
*13:了意(1551-1592)<>:了順の次男。三河一向一揆、石山合戦で活躍。天正年間、清洲に勝鬘寺を創建(のち名古屋に移転)。1592年(文禄1年)4月28日死去。42歳。
 +
*14:了明(1580-1641)<>:中興。1641年(寛永18年)死去。62歳。顕正院。
 +
*15:教了(1603-1676)<>:1676年(延宝4年)10月23日死去。74歳。府円。
 +
*16:宣了(?-1713)<>:1713年(正徳3年)2月15日死去。江雲。
 +
*:一了()<>:真宗年表になし
 +
*17:真了(?-1751)<>:宣如の外孫。高山照蓮寺琢晴の次男。1751年(宝暦1年)8月24日死去。
 +
*18:真海(?-1763)<>:1763年(宝暦13年)2月8日死去。
 +
*19:乗了(?-1784)<>:ウェブサイトの系図になし。1784年(天明4年)9月25日死去。誓純。
 +
*20:乗雄(?-1813)<>:ウェブサイトの系図になし。1813年(文化10年)12月29日死去。尊紙。
 +
*21:達了(1787-1835)<>:1835年(天保6年)10月29日死去。49歳。
 +
*22:達雄(1813-1858)<>:1858年(安政5年)2月20日死去。46歳。
 +
*23:安藤厳了(?-1909)<>:徳大寺実堅の猶子。1909年(明治42年)12月30日死去。67歳(60歳とも)。
 +
*24:安藤順謙(?-1886)<>:1886年(明治19年)2月25日死去。
 +
*25:安藤厳了(?-1909)<>:
 +
*26:安藤順了(?-1929)<>:1929年(昭和4年)1月16日死去。現了。
 +
*27:安藤順真(?-1970)<>:1970年(昭和45年)1月16日死去。
 +
*28:安藤順哲()<>:
-
勝鬘寺6世の宗授が1475年(文明7年)に加賀に[[加賀・本善寺|敷地勝鬘寺]]を創建。
 
[[Category:愛知県]]
[[Category:愛知県]]

2021年12月30日 (木) 時点における最新版

勝鬘寺(しょうまんじ)は、愛知県岡崎市針崎町朱印地にある浄土真宗寺院。和田門徒の拠点で、三河一向一揆の拠点となった。三河・上宮寺本証寺と共に三河三カ寺とされ、本宗寺も加えて徳川家康軍と戦った。三河七箇寺の一つ。真宗大谷派赤渋勝鬘寺針崎勝鬘寺勝万寺とも。山号は和田山、寂光山。

聖徳太子が建てた寺院を1258年(正嘉2年)信願房了海が親鸞に帰依して碧海庄赤渋に復興。 1496年(明応5年)赤渋から針崎の現在地に移転。1563年(永禄6年)10月の三河一向一揆で徳川家康と対決。 1564年(永禄7年)1月、家康軍に火を放たれ大伽藍は焼失し、住職らは信濃に逃れた。 1585年(天正13年)、家康の寺院再興の安堵を得て復興。1601年(慶長6年)黒印地50石を与えられた。 1734年(享保19年)本堂再建。

勝鬘寺6世の宗授が1475年(文明7年)に加賀に敷地勝鬘寺を創建というが、宗授が誰にあたるのか不明。

組織

歴代住職

(世数など主に真宗年表による。ウェブサイトの系図とは少し異なる)

  • 1:了海()<>:信願房。信海房。ウェブサイトでは1282年(弘安5年)9月19日死去とある。真宗年表では1274年(文永11年)4月8日死去、83歳とある。
  • 2:了尊()<>:
  • 3:了覚()<>:
  • 4:了翁()<>:
  • 5:了勲()<>:
  • 6:了恵()<>:
  • 7:蓮恵()<>:ウェブサイトの系図にはなし。
  • 8:了善()<>:
  • 9:了通()<>:高珍。大町専修寺を兼務。蓮如と面会相談して自分の娘婿で蓮如の甥の蓮慶に大町専修寺を継がせる。
  • 10:了顕(?-1530)<>:了通の外孫。大町専修寺5世蓮慶の長男。蓮如の妹の孫にあたり、本願寺と関係を深める。1530年(享禄3年)5月17日死去。高岩院。
  • 11:了勝(?-1594)<>:了顕の長男。1594年(文禄3年)3月6日死去。瑞賀院。
  • 12:了順()<>:信濃に逃げる。
  • :超了()<>:了順の長男。早世。真宗年表になし
  • 13:了意(1551-1592)<>:了順の次男。三河一向一揆、石山合戦で活躍。天正年間、清洲に勝鬘寺を創建(のち名古屋に移転)。1592年(文禄1年)4月28日死去。42歳。
  • 14:了明(1580-1641)<>:中興。1641年(寛永18年)死去。62歳。顕正院。
  • 15:教了(1603-1676)<>:1676年(延宝4年)10月23日死去。74歳。府円。
  • 16:宣了(?-1713)<>:1713年(正徳3年)2月15日死去。江雲。
  • :一了()<>:真宗年表になし
  • 17:真了(?-1751)<>:宣如の外孫。高山照蓮寺琢晴の次男。1751年(宝暦1年)8月24日死去。
  • 18:真海(?-1763)<>:1763年(宝暦13年)2月8日死去。
  • 19:乗了(?-1784)<>:ウェブサイトの系図になし。1784年(天明4年)9月25日死去。誓純。
  • 20:乗雄(?-1813)<>:ウェブサイトの系図になし。1813年(文化10年)12月29日死去。尊紙。
  • 21:達了(1787-1835)<>:1835年(天保6年)10月29日死去。49歳。
  • 22:達雄(1813-1858)<>:1858年(安政5年)2月20日死去。46歳。
  • 23:安藤厳了(?-1909)<>:徳大寺実堅の猶子。1909年(明治42年)12月30日死去。67歳(60歳とも)。
  • 24:安藤順謙(?-1886)<>:1886年(明治19年)2月25日死去。
  • 25:安藤厳了(?-1909)<>:
  • 26:安藤順了(?-1929)<>:1929年(昭和4年)1月16日死去。現了。
  • 27:安藤順真(?-1970)<>:1970年(昭和45年)1月16日死去。
  • 28:安藤順哲()<>:
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8B%9D%E9%AC%98%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール