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勧修寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
勧修寺
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'''勧修寺'''(かじゅうじ)は京都府京都市山科区にある[[真言宗]]の[[真言宗の本山寺院|本山寺院]]。[[門跡寺院]]。本尊は[[千手観音]]。[[官寺]]二十五大寺の一つで[[定額寺]]でもある。本堂は元仮[[内侍所]]。醍醐天皇の勅願で承後を迎えて創建。承後の出身寺院である東大寺と関係が深く、門跡が東大寺別当を兼ねたことも少なくなかった。元は住職を長吏といった。33世済範法親王が還俗して山階宮家を建てた。鎮守は[[勧修寺八幡宮]]。山号は亀甲山。'''勧修寺門跡'''、'''山階門跡'''、'''東山科御殿'''ともいう。 ==組織== ===歴代住職=== *済高(870-942) *貞誉() *遍覚(899-954): *雅慶(926-1012):真言宗の僧。敦実親王の王子。宇多天皇の孫。寛朝の弟。石山寺元杲、興福寺遍覚に学ぶ。955年(天暦9年)4月3日勧修寺別当。975年(天延3年)、東寺に入り、984年(永観2年)東寺の凡僧別当。988年(永延2年)、寛朝が東寺一長者になると同時に、雅慶も三長者となる。991年(正暦2年)には東寺二長者。999年(長保1年)に東寺一長者になる。同年8月9日東大寺別当63世となる。仁和寺別当。1012年(長和1年)10月25日死去。「がけい」と訓ずる。(『東大寺辞典』) *済信(954-1030):真言宗の僧。源雅信の子。敦実親王の孫。勧修寺雅慶に師事。寛朝に学ぶ。仁和寺喜受院に住す。998年(長徳4年)東寺二長者。1005年(寛弘2年)12月26日、東大寺別当64世。1007年(寛弘4年)、東大寺別当を辞任し、勧修寺長吏となり、さらに東寺長者法務。僧侶として初めて牛車の使用が認められた。1023年(治安3年)、仁和寺観音院で性信法親王に灌頂を授ける。[[藤原道長]]の葬儀の導師を務めた。1030年(長元3年)6月11日死去。(『東大寺辞典』) *深覚(955-1043):真言宗の僧。藤原師輔の子。寛朝に学ぶ。勧修寺長吏。[[禅林寺]]住職。東大寺別当60世・62世・68世(992年(正暦3年)7月8日東大寺別当。2年で辞任。998年(長徳4年)7月8日再任。半年で辞任。1016年(長和5年)5月16日再任。1020年(寛仁4年)辞任)。1033年(長元6年)東寺長者。[[金剛峰寺無量寿院]]を創建。1043年(長久4年)9月14日死去。(『東大寺辞典』ほか) *信覚(1011-1084):真言宗の僧。藤原公季の子。仁和寺で深覚に密教を学ぶ。勧修寺済信に師事。1071年(延久3年)2月22日東大寺別当80世。在任中に東大寺八幡宮を造替。1075年(承保2年)東寺長者法務。勧修寺長吏。仁和寺別当。金剛峰寺座主。1084年(応徳1年)9月15日死去。(『東大寺辞典』) *厳覚(1056-1121):[[園城寺]]行尊の弟。 *寛信(1084-1153):三論宗・真言宗の僧。勧修寺流の祖。参議藤原為房の子。東南院に入り、覚樹に三論宗を学ぶ。安祥寺厳覚に密教を学ぶ。1103年(康和5年)10月、20歳で勧修寺権別当。1110年(天永1年)勧修寺別当。1113年(永久1年)東寺に入る。維摩会講師。1118年(元永1年)最勝講講師を7年務める。1136年(保延2年)元興寺別当。1142年(康治1年)、鳥羽法皇東大寺で受戒し羯磨師。東寺二長者。1146年(久安2年)東寺一長者。翌年1月14日東大寺別当88世。また高野山で大塔造営を始めた。1153年(仁平3年)3月17日勧修寺で死去。東寺長者法務。著書に『類秘抄』『尊勝抄』『肝要抄』『東寺要集』など。(『東大寺辞典』) *雅宝(1131-1190):葉室顕頼の子。実信に師事。勧修寺長吏。1186年(文治2年)3月4日に東大寺別当95世(「仏家次第」では7日)。1188年(文治4年)東大寺別当辞任。別当在任中、周防国を東大寺造営料所に充てることが許可された。1189年(文治5年)3月21日、もしくは1190年(建久1年)5月13日死去。実報院。(『東大寺辞典』) *成宝(1159-1227):三論宗の僧。藤原惟方の子。勧修寺門跡。顕慧に師事。1199年(正治1年)元興寺に住す。1206年(建永1年)東寺長者。1210年(承元4年)4月17日東大寺別当102世。8月27日大仏殿拝堂。1212年(建暦2年)3月14日、東大寺華厳会を再興。大安寺別当を兼務。1213年(建保1年)東大寺別当辞職。1222年(貞応1年)4月4日東大寺別当再任。1221年(承久3年)東寺長者に再任。1227年(安貞1年)10月7日死去。(『東大寺辞典』) *聖基(1204-1267):藤原隆忠の子。摂政藤原基房の猶子。禅林寺静遍に師事。広沢流を学ぶ。1225年(嘉禄1年)維摩会講師。1226年(嘉禄2年)勧修寺長吏。1229年(寛喜1年)最勝講講師。1262年(弘長2年)6月16日東大寺別当113世(「仏家次第」では1263年(弘長3年))。1267年(文永4年)東大寺別当辞任。12月9日死去。東寺長者。南谷大僧正。(『東大寺辞典』) *道宝(1214-1281):九条良輔の子。勧修寺門跡。大安寺別当。安祥寺。九条道家の猶子。成宝の弟子。1234年(文暦1年)維摩会講師。1273年(文永10年)神泉苑で祈雨。1277年(建治3年)[[後宇多天皇]]護持僧。伊勢神宮で敵国降伏祈祷。1273年(文永10年)東寺二長者。1281年(弘安4年)3月5日東大寺別当117世となるがまもなく8月4日に死去(「仏家次第」では7日)。安祥寺大僧正とも呼ばれた。(『東大寺辞典』) *勝信(1235-1287):関白九条道家の子。11歳で東大寺尊勝院に入寺。華厳倶舎を学ぶ。のち勧修寺道宝の弟子となり、密教小野流を学ぶ。1253年(建長5年)勧修寺長吏。観修寺検校。1280年(弘安3年)東寺長者。法務?。1281年(弘安4年)8月4日東大寺別当118世。1287年(弘安10年)53歳で死去。(『東大寺辞典』) *道淳(生没年不詳): *信忠(?-1322):関白藤原忠家の子。勧修寺に学ぶ。勧修寺勝信に師事。道宝から密教と三論を学ぶ。1300年(正安2年)東寺二長者。翌年東寺長者。1305年(嘉元3年)東寺長者辞職。1310年(延慶3年)3月3日東大寺別当125世。1313年(正和2年)東大寺別当辞職。1322年(元亨2年)10月19日、関東で死去。(『東大寺辞典』) *教寛(生没年不詳):勧修寺長吏。1320年(元応2年)東大寺別当129世就任。1331年(元弘1年)東大寺別当131世に再任。1324年(正中1年)東寺一長者。(『東大寺辞典』) *寛胤法親王(1309-1376):後伏見天皇の第七皇子。勧修寺に入寺。東大寺戒壇院で受戒。東南院で三論宗を学ぶ。教寛に伝法灌頂。1337年(延元2年/建武4年)勧修寺長吏。1338年(延元3年/暦応1年)、北朝により東大寺別当136世。勧修寺に居て、寺務代を派遣し、政務を司った。寺領の悪党の対応に苦慮。1350年(正平5年/観応1年)東大寺別当138世再任。1360年(正平15年/延文5年)東寺長者法務。1367年(正平22年/貞治6年)6月東大寺別当140世再任。東南院を修理し、東大寺八幡宮領の確保に尽力。1376年(永和2年)4月3日死去。68歳。後安祥寺宮と号す。(『東大寺辞典』) *尊信法親王(1324-1380):常盤井宮恒明親王の王子。亀山天皇の皇孫。勧修寺寛胤法親王に師事。1373年(文中2年/応安6年)9月11日、東大寺別当141世。寺務代は尊勝院が務めた。1380年(天授6年/康暦2年)4月21日死去。56歳。勧修寺長吏。後宝泉院と号す。(『東大寺辞典』) *興信法親王(1358-1391):[[崇光天皇]]皇子。施無畏王院。 *尊興法親王(1375-1424):常磐井宮満仁親王王子。准三宮。 *興胤法親王(1394-1428):常磐井宮満仁親王の王子。兄の尊興法親王に師事。1411年(応永18年)東大寺別当149世(148世光経より先になってしまうので要検討。仏家次第では1416年(応永23年)2月就任とし、こちらが正しいか)。1414年(応永21年)東大寺別当辞職。のち勧修寺長吏。1428年(正長1年)5月27日、勝福院で死去。35歳。(『東大寺辞典』) *尊聖法親王(1375-1432):[[長慶天皇]]皇子。佐山宮。 *教尊法親王(生没年不詳):小倉宮の王子([[後醍醐天皇]]五世孫)。禁闕の変で捕縛され、隠岐に配流。 *恒弘法親王(1431-1509):常盤井宮直明王の王子。はじめ恒興と称し、恒弘に改めた。勧修寺に入る。教尊に真言を学ぶ。勧修寺長吏。1451年(宝徳3年)東大寺別当155世。。1455年(康正1年)別当辞任。1509年(永正6年)閏8月8日死去。69歳。(『東大寺辞典』) *常弘法親王(1461-1513):貞常親王王子。覚円法親王。染王院。日本仏家人名辞書では「常信」とする。 *海覚法親王(1499-1531):邦高親王王子。安祥寺寺務、四天王寺寺務。 *寛欽法親王(1514-1563):貞敦親王王子。安祥寺検校。天平寺検校。後染王院。 *聖信() *寛海() *寛俊() *済深法親王(1671-1701):霊元天皇皇子([[中御門天皇]]皇子?)。東大寺別当179世を兼務し、大勧進公慶と共に東大寺大仏殿再建に関わった。(略歴は[[東大寺#組織]]を参照) *尊孝法親王(1701-1748):伏見宮邦永親王の王子。1701年(元禄14年)9月24日生。勧修寺長吏。三論宗を学ぶ。潤海に真言宗を学ぶ。1722年(享保7年)12月12日東南院門跡。翌年1月15日東大寺別当181世。(『東大寺辞典』) *寛宝法親王(1733-1802):伏見宮貞建親王の王子。1748年(寛延1年)6月29日東大寺別当182世。1774年(安永3年)11月25日、還俗して伏見宮家17代を継ぐ。邦頼親王。究竟覚院。(『東大寺辞典』) *済範法親王(山階宮晃親王)(1816-1898):俗名の山階宮晃親王が知られる。勧修寺門跡。東南院門跡。1829年(文政12年)11月15日東大寺別当186世を兼務。1841年(天保12年)10月、女王と出奔事件を起こし東大寺別当など諸職解任。1864年(元治1年)還俗し、[[山階宮]]を創設。(『東大寺辞典』ほか) *渡辺雲照(1827-1909):戒律復興を主張。十善会を設立。[[仁和寺]]門跡。日本仏家人名辞書では「雲昭」とする。 *別所栄厳(1814-1900) *菅覚阿() *鼎龍暁() *釈内海寂() *長宥匡() (『望月仏教大辞典』) <!-- 『日本仏家人名辞書』 --> [[category:京都府]]
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