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北海道護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
北海道護国神社
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'''北海道護国神社'''(ほっかいどう・ごこくじんじゃ)は、北海道旭川市花咲町にある[[招魂社]]。祭神は北海道および樺太の戦没者など。[[内務大臣指定護国神社]]。[[別表神社]]。北海道を代表する護国神社であるが、道庁所在地ではなく、師団所在地に設けられた。道内には他の指定護国神社として[[札幌護国神社]]、[[函館護国神社]]があるが一番新しい。もともとは第七師団の招魂場が起源だが、正式な創立は昭和になってから。樺太の戦没者を合祀することから[[樺太護国神社]]を受け継ぐ存在ともみられる。護国神社様式の社殿であるが、朱色は珍しい。旧称は'''北海道招魂場'''、'''第七師団管招魂社'''、'''第七師管招魂社'''、'''北海道招魂社'''。占領中は'''北海道神社'''と称した。[[北海道・樺太の神社]]。 ==祭神== [[ファイル:北海道護国神社・旭川市史・1906年(明治39年).jpg|300px|thumb|旭川練兵場時代の招魂社社殿(1906年(明治39年))]] *1902年(明治35年):330柱(最初の招魂祭1902年(明治35年)5月5~6日『北海道護国神社史』P564-565) *1935年(昭和10年):4852柱(鎮座祭1935年(昭和10年)6月4日『北海道護国神社史』P596) *1939年(昭和14年):5537柱(『北海タイムス年鑑』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1105182/1/180]) *6万1039柱(『靖国神社百年史』) *6万3140柱(『全国護国神社一覧』) *2018年(平成30年):6万3156柱(2018年(平成30年)現在、ウェブサイトより) *合祀旧樺太護国神社祭神521柱(1948年(昭和23年)6月5~6日『北海道護国神社史』) *「御祭神一覧表」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2997331/1/105] *1939年(昭和14年)6月5日合祀者氏名[https://dl.ndl.go.jp/pid/1069704/1/260] 祭神の合祀範囲について札幌護国神社や函館護国神社との関係は不詳。 ==歴史== [[ファイル:北海道護国神社_(1).jpg|350px|thumb|北海道護国神社]] [[ファイル:北海道護国神社_(2).jpg|350px|thumb|北海道護国神社]] 日清戦争後の1902(明治35)年5月5日、第7師団長大迫尚敏が、旭川練兵場に社殿を建てて招魂祭を行ったのが、起源となる。日露戦争を経て1907年(明治40年)、旭川町に主催が移るが、1911年(明治44年)6月5日、北海道庁の協力を得つつ、現在地に社殿を造営(移築?)する。「第七師団管招魂社」と称したが、北海道全体の招魂社としての性格を強める。1916年(大正5年)、神霊常在の招魂社ではないことから、「北海道招魂場」と改称する。 1935年(昭和10年)4月26日、改めて社殿を造営し、内務省公認の招魂社として認可され、鎮座祭を行う([[官祭招魂社]]の可能性もあるが不詳。今井昭彦の『近代日本と戦死者祭祀』では「官祭北海道招魂社」とあるが根拠は不明)。神体となる祭神名簿は[[靖国神社]]で作成したという。1939年(昭和14年)4月1日、内務省告示142号で内務大臣指定護国神社の最初の34社の一つとなり、「北海道護国神社」と改称した。戦後、1946年(昭和21年)9月25日、「北海道神社」と改称。1951年(昭和26年)8月、北海道護国神社に復した。 1960年(昭和35年)4月、社殿改築をはかり、1965年(昭和40年)4月に竣工した(1964年(昭和39年)9月20日とも)。 神苑が造営されており、ほかに慰霊碑や馬魂碑、平成館(旧兵事記念館)がある。境内20000坪。関連団体として北海道護国神社奉賛会や北海道連合遺族会(近くに本部)がある。 *1902年(明治35年)5月5~6日:第7師団長大迫尚敏、練兵場に「招魂斎場」を設け、師団主催の招魂祭を行う(「第7師団の」招魂祭)。旭川町および鷹栖村も協力。社殿は師団屯営工事を請け負った大倉組の寄附による。祭日は[[靖国神社]]例大祭にあわせたものだという。戊辰戦争307柱、西南戦争8柱、日清戦争15柱、計330柱を祀る。師団では「遥拝所」と通称(靖国神社の遥拝所ということか)。(『北海道護国神社史』P564-565) *1907年(明治40年):招魂祭の主催が師団から旭川町に移管される。理由は『神社史』には書かれていない。(『北海道護国神社史』P566) *1907年(明治40年)4月:社殿を旭川町近文1線2号の現在地に移転。(『北海道護国神社史』P566) *1907年(明治40年)5月5~6日:招魂祭を旭川町主催で初めて行う。1910年(明治43年)まで(『北海道護国神社史』P566) *1910年(明治43年)6月2日:第7師団長上原勇作中将・北海道庁長官河島醇、招魂社建設のための募金許可願を北海道庁長官に提出。(『北海道護国神社史』P567) *1910年(明治43年)6月3日:北海道庁長官、募金許可。募金開始。招魂社建設委員長に第7師団参謀長小池安之。目標額50000円(建設費30000円。維持費20000円)。(『北海道護国神社史』P567-P569) *1910年(明治43年)8月:社殿設計、成る(『北海道護国神社史』P569) *1910年(明治43年)9月4日:招魂社建設着工。(『北海道護国神社史』P569) *1911年(明治44年)5月10日:招魂社社殿、竣工。設計陸軍技手渡辺音次郎および補助として同山添金太郎。工事経費20968円77銭。(『北海道護国神社史』P569) *1911年(明治44年)6月4日:落成式。「第七師団管招魂社」(『北海道護国神社史』P569) *1911年(明治44年)6月5-06日:招魂社の創建、初の招魂祭(ただし、神霊は常在せず)。以後、1945年(昭和20年)まで共催で祭典を行う。師団長と北海道庁長官が交互に祭主を務める(「北海道の」招魂社へ)。例大祭は6/5-6となる(理由は不明)。旭川町も経費を負担することになる。(『北海道護国神社史』P571) *1912年(大正1年)4月9日:師団長林太一郎・北海道庁長官石原健三、陸軍省用地の無償使用を北海道庁長官に願出。(『北海道護国神社史』P571) *1912年(大正1年)5月29日:北海道庁長官、無償使用を許可。15年間。(『北海道護国神社史』P572) *1916年(大正5年)9月18日:「北海道招魂場」と改称。理由は、法令で定める神社ではなく神職もおらず、神霊が常在するわけではないため。管理運営の大綱を制定。第7師団と北海道庁の共同管理となる。常置委員を置き、委員長に内務部長または師団参謀長を、師団司令部・道庁・上川支庁・旭川区役所職員から5人を委員を当てる。(『北海道護国神社史』P572-573) *1932年(昭和7年)7月15日:摂政、代拝?。(『北海道護国神社史』) *1933年(昭和8年)6月5日:第7師団長佐藤子之助中将・北海道庁長官佐上信一など68人(道議会議員・第七師団団体長・支庁市町村長)、増改築のため、募金開始。目標額は50000円。腐朽と狭隘のため。(『北海道護国神社史』P575) *1933年(昭和8年)9月25日:新本殿着工。(『北海道護国神社史』) *1934年(昭和9年)3月10日:北鎮兵事記念館計画。第7師団募金開始。(『北海道護国神社史』) *1934年(昭和9年)6月27日:本殿地固め式。(『北海道護国神社史』) *1934年(昭和9年)7月30日:本殿上棟祭。記念館地鎮祭。(『北海道護国神社史』) *1934年(昭和9年)10月1日:第7師団長杉原美代太郎・北海道庁長官佐上信一、旭川市長渡辺勘一など69人、「北海道招魂社創立願」を内務省に提出。(『北海道護国神社史』P590) *1934年(昭和9年)11月12日:新社殿竣工。本殿は神明造、拝殿は神明造切妻破風付。翼殿がある。技師青木芳太郎、技手松田知義が設計か。旧社殿は、旭川市第四区の偕行社前に移設され、[[鹿島神宮]]より[[建御雷命]]を、[[香取神宮]]より[[経津主命]]を分霊し、第7師団官舎地帯の氏神として、[[北鎮神社]]と称す。例祭は10月(『北海道護国神社史』P576・726) *1935年(昭和10年)4月26日:内務大臣より「北海道招魂社」創立許可。内務省九北社第15号(『北海道護国神社史』P594) *1935年(昭和10年)6月3日:神門献納式。師団請負業者より献納される。軍馬碑除幕式。(『北海道護国神社史』P596) *1935年(昭和10年)5月22日:霊代となる祭神名簿を靖国神社で作成。(『北海道護国神社史』P596) *1935年(昭和10年)6月4日:北海道招魂社工事竣工奉告祭及び鎮座祭。4852柱を祀る。受持神官は柴田直胤。(『北海道護国神社史』P596) *1935年(昭和10年)9月5日:北海道招魂社、創立完了届を北海道庁長官へ提出。北招発第46号(『北海道護国神社史』P597) *1936年(昭和11年):[[昭和天皇]]、行幸。幣帛料奉納(『北海道護国神社史』) *1937年(昭和12年)5月25日:社号標・制札台・一の鳥居、竣工。社号標も現存。(『北海道護国神社史』P600) *1939年(昭和14年)4月1日:内務大臣指定の「北海道護国神社」となる。法令上の神社となったため、維持団体から社寺兵事課に移管。1940年(昭和15年)度から、内務省より祭祀料500円、道庁地方費より祭祀料3000円が支出され、1945年(昭和20年)まで続く。(『北海道護国神社史』P603) *1939年(昭和14年)12月13日:社号標。銘文には「四月一日建立」としてある。(『北海道護国神社史』P601) *1939年(昭和14年)12月31日:道庁、専任社司に[[姥神大神宮]]社司である藤枝修衡を任命。内閣から補任。藤枝は[[江差招魂社]]の受持神官も勤めていた。(『北海道護国神社史』P604) *1940年(昭和15年)2月2日:紀元2600年記念事業開始。5カ年計画。予算33万3000円。廻廊新築など。(『北海道護国神社史』P606-) *1940年(昭和15年)11月25日:改修工事認可申請。(『北海道護国神社史』P608) *1940年(昭和15年)12月27日:改修工事認可。辰兵第1849号(『北海道護国神社史』P608) *1940年(昭和15年)12月27日:募金許可。結果、38万円が集まる。辰保第7258号(『北海道護国神社史』P608) *1941年(昭和16年)6月:これまでに拝殿前庭・廻廊・社務所・招魂斎場が竣工(『北海道護国神社史』) *1942年(昭和17年)2月20日:廻廊起工。(『北海道護国神社史』P611) *1942年(昭和17年)4月5日:廻廊上棟式(『北海道護国神社史』P611) *1943年(昭和18年)4月8日:再度、募金許可願を提出。物価高騰のため、当初予算ではまかないきれず。目標額は8万7784円5銭。結果、2万円が集まる。北護発第3号(『北海道護国神社史』P613) *1943年(昭和18年)4月16日:募金許可。未保第1327号(『北海道護国神社史』P616) *1943年(昭和18年)5月:西参道鳥居・斎庭鳥居、竣工。(『北海道護国神社史』) *1944年(昭和19年)5月:社務所増改築。(『北海道護国神社史』) *1944年(昭和19年)5月5日:[[樺太護国神社]]創建にともない以後の合祀者範囲を変更。(『北海道護国神社史』) *1945年(昭和20年)6月5日:増改築整備落成式(『北海道護国神社史』) *1946年(昭和21年)4月28日:北海道護国神社奉賛会(『全国護国神社会二十五年史』) *1946年(昭和21年)7月16日:藤枝、宮司となる。(『北海道護国神社史』) *1946年(昭和21年)10月2日:宗教法人令による宗教法人に登記。(『北海道護国神社史』) *1946年(昭和21年)10月11日:「北海道神社」と改称。(『二十五年史』には9/26)(『北海道護国神社史』) *1947年(昭和22年)9月21-20日:初めて秋季大祭を行う。20日合祀祭。戦没者が多く、年1回では遺族の招待が過剰になってしまうため。翌年から9/15-16に行う。1955年(昭和30年)まで(『北海道護国神社史』) *1948年(昭和23年)6月5~6日:例大祭。旧[[樺太護国神社]]祭神521柱を祀る。(『北海道護国神社史』) *1951年(昭和26年)8月:「北海道護国神社」に復称(『全国護国神社会二十五年史』) *1953年(昭和28年)1月8日:境内国有地16179坪、払い下げ(『北海道護国神社史』) *1953年(昭和28年)3月17日:宗教法人法による宗教法人に登記。(『北海道護国神社史』) *1958年(昭和33年)3月29日:神社本庁を離脱。[[靖国神社]]と同じく、将来、公共性を確立するために、その特殊性を明確にするためという。「靖国神社を本祀」とする。(『北海道護国神社史』) *1960年(昭和35年)4月1日:創祀60年記念北海道護国神社御造営奉賛会(『二十五年史』には5日)(『北海道護国神社史』) *1960年(昭和35年)9月21日:合祀概了奉告祭(『全国護国神社会二十五年史』) *1961年(昭和36年)5月26日:幣帛料。北海道植樹祭(『全国護国神社会二十五年史』) *1961年(昭和36年)6月5日:例祭を奉幣大祭として行う。(『全国護国神社会二十五年史』) *1962年(昭和37年)3月31日:指定寄附金の指定を受ける。戦災で廃絶した樺太護国神社の復興という名目をいれる。大蔵省告示第88号、大蔵省告示第90号(『北海道護国神社史』) *1962年(昭和37年)6月3日:神門竣工(『北海道護国神社史』) *1963年(昭和38年)7月11日:仮殿遷座祭(『北海道護国神社史』) *1963年(昭和38年)7月15日:社殿造営着手 本殿拝殿神門回廊(『全国護国神社会二十五年史』) *1963年(昭和38年)8月10日:地鎮祭。(『北海道護国神社史』) *1963年(昭和38年)11月23日:上棟祭(『北海道護国神社史』) *1964年(昭和39年)9月19日:本殿遷座祭。(『北海道護国神社史』) *1964年(昭和39年)9月20日:奉祝祭。幣帛料(『全国護国神社会二十五年史』) *1965年(昭和40年)6月5日:社殿竣工奉祝大祭(『全国護国神社会二十五年史』) *1965年(昭和40年)9月20日:終戦20周年祭(『全国護国神社会二十五年史』) *1966年(昭和41年)8月15-16日:初の献灯みたま祭(『北海道護国神社史』) *1966年(昭和41年)10月14日:二の鳥居・脇参道鳥居、竣工。(『北海道護国神社史』) *1967年(昭和42年)8月27日:北鎮神社、仮殿遷座祭。長春殿へ。(『北海道護国神社史』) *1967年(昭和42年)4月:開道百年記念事業実施。参道石畳。大鳥居3基。燈籠10基。翌年8月までかかる(『全国護国神社会二十五年史』) *1968年(昭和43年)9月3日:[[昭和天皇]]・皇后参拝。臨時奉幣大祭。開道100年。幣帛料(『全国護国神社会二十五年史』) *1968年(昭和43年)11月14日:北鎮神社社殿の上棟祭。(『北海道護国神社史』) *1968年(昭和43年)12月29日:北鎮神社、「北鎮安全神社」を改称して遷座祭。同時に愛宕神社・猿田彦神社・雷電神社の分霊を合祀。例祭は8/10。(『全国護国神社会二十五年史』) *1970年(昭和45年)11月:開道百年記念事業竣工(『全国護国神社会二十五年史』) *1971年(昭和46年)6月5日:創祀70年記念大祭。未合祀者を本殿仮座に一括合祀。[[招魂斎庭]]は廃止となる。以後、合祀祭は神霊を仮座から本座に奉遷。(『北海道護国神社史』) *1971年(昭和46年)9月3日:天皇皇后歌碑除幕奉告大祭(『全国護国神社会二十五年史』) *1972年(昭和47年)2月2日:奉幣。オリンピック行幸。(『北海道護国神社史』) *1973年(昭和48年)9月13日:翼殿。廻廊の屋根葺き替え(『北海道護国神社史』) *1975年(昭和50年)9月20日:30周年祭(『北海道護国神社史』) *2003年(平成15年)4月3日:神社本庁所属に復帰。 ==境内== *本社:護国神社様式。本殿仮座に未合祀者を合祀。護国神社では珍しく、朱色をしている。本殿は流造。 *[[招魂斎庭]]:1941年(昭和16年)6月造営。現在はない。 *長春殿:祭神は開拓功労者・[[稲荷神]]・[[伊弉諾神]]・[[伊邪那美神]]。 *北鎮安全神社:祭神は[[武甕槌大神]]・[[経津主大神]]・[[火之迦具土神]]・[[猿田彦大神]]・大雷命。旧招魂場社殿を用いて創建された北鎮神社が起源。1935年(昭和10年)、第七師団官舎地帯の氏神として偕行社前に創建。[[鹿島神宮]]と[[香取神宮]]の分霊を祀った。1968年(昭和43年)12月29日に境内に遷座。京都[[愛宕神社]]、伊勢[[猿田彦神社]]、伊勢崎[[雷電神社]]の分霊を新たに祭り、改称した。 ==組織== ===歴代宮司=== *1柴田直胤(1889-1941)<1935-1939>:岐阜県出身。1889年(明治22年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/1452619/1/50]。1913年(大正2年)8月、神職要請部祭式講習科と祝詞科を修了。1917年(大正6年)3月、神宮皇学館本科卒。同年6月26日、上川神社社司。1922年(大正11年)3月、全国神職会評議員。1923年(大正12年)4月、北海道神職会上川地方会副会長。1935年(昭和10年)4月30日、鎮座を前に北海道招魂社の受持神官となる[https://dl.ndl.go.jp/pid/3034878/1/117]。1939年(昭和14年)4月1日から12月31日まで北海道護国神社社司[https://dl.ndl.go.jp/pid/3034878/1/118][https://dl.ndl.go.jp/pid/1069704/1/260]。1941年(昭和16年)4月9日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/3034878/1/118]。著書『柴田直胤先生祝詞集稿』[https://dl.ndl.go.jp/pid/3034878]。五鈴廼舎と号す。 *2藤枝修衡(1892-1959)<1939-1959>:[[姥神大神宮]]社司。1892年(明治25年)生。1915年(大正4年)[[国学院大学]]卒業。1935年(昭和10年)姥神大神宮社司。[[江差招魂社]]受持神官。1939年(昭和14年)12月31日、北海道護国神社社司。戦後、全国護国神社会の設立を提案。1959年(昭和34年)9月21日死去。67歳。 *藤枝弘文(1916-1981)<?-1981>:1916年(大正5年)生。[[神宮皇学館]]卒業。1940年(昭和15年)旭川師範学校教諭。1950年(昭和25年)[[近江神宮]]禰宜。1962年(昭和37年)以前に札幌護国神社宮司。1981年(昭和56年)11月25日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/9490836/1/441]。65歳。 *岡崎義徳(生没年不詳)<>:稚内市体育振興課長か。1996年(平成8年)頃在職。 *塩野谷恒也()<>:2005年(平成17年)頃在職。 *小野雄一()<>:2023年(令和5年)頃在職。 ==画像== <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> ファイル:北海道護国神社・旭川市史・1906年(明治39年).jpg|旭川練兵場時代の招魂社社殿(1906年(明治39年)) ファイル:北海道護国神社・古写真004.jpg|1911年(明治44年)頃か ファイル:北海道護国神社・古写真005.jpg|1911年(明治44年)頃か ファイル:北海道護国神社_(1).jpg| ファイル:北海道護国神社_(2).jpg| ファイル:北海道護国神社・古写真001.jpg| ファイル:北海道護国神社・古写真002.jpg| ファイル:北海道護国神社・古写真003.jpg|護国神社になってからの北海道護国神社 </Gallery> ==資料== *1959『旭川市史』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3041458/300] *1981『北海道護国神社史』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766] **1明治のころを偲ぶ[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/35] **2シベリヤ・満州・支那事変 **3大東亜戦争1 **4大東亜戦争2 **5大東亜戦争3 **6北海道護国神社の歳月1[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/283] ***1945年(昭和20年)境内図[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/326]:招魂斎庭がある ***合祀方法の変更[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/332] **7北海道護国神社の歳月2[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/341] ***霊璽簿奉納箱[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/345] ***樺太護國神社祭神の合祀[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/346] ***神社歳時記[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/375] ***全ての英霊を招魂、斎庭廃止か[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/387] **北海道護国神社役職員録[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/399] **北海道護国神社年表[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266766/1/411] [[category:北海道]]
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