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南壇 (百済)

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年8月12日 (土)

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南壇は百済王都にあった天地壇大壇とも。中国式の壇廟祭祀の性格をどこまで取り入れていたのかは不明。おそらく遷都にともない、慰礼城、漢山城、公州と移ったと考えられる。即位翌年に祭祀を行っていることもあり、百済王室の王権と結び付いたと考えられる。扶余遷都以後は記録にない。

歴史

  • 2年2月:温祚王が「大壇」を築いて天地を祀る。(『三国史記』「三国史記」)
  • 20年10月:温祚王が「大壇」を築いて天地を祀る。(『三国史記』「三国史記」)
  • 29年2月:多婁王、「南壇」に天地を祀る。(『三国史記』「三国史記」)
  • 238年1月:古爾王、天地を祀るのに太鼓と笛を用いた。(『三国史記』「三国史記」)
  • 243年1月:古爾王、「大壇」を設けて天地山川の諸神を祀った。(『三国史記』「三国史記」)
  • 247年1月:古爾王、「南壇」に天地を祀った。(『三国史記』「三国史記」)
  • 371年:漢山城に遷都
  • 347年1月:近肖古王、天地の神祇を祀った。(『三国史記』「三国史記」)
  • 393年1月:阿〓王、「南壇」に天地を祀った。(『三国史記』「三国史記」)
  • 406年1月:腆支王、「南壇」に天地を祀った。(『三国史記』「三国史記」)
  • 475年:公州に遷都。
  • 489年10月:東城王、「壇」を設けて天地を祀った。以降は記録にみえない。(『三国史記』「三国史記」)
  • 538年:扶余遷都。
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