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名和神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年5月24日 (火)

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拝殿

名和神社(なわ・じんじゃ)は、鳥取県西伯郡大山町名和にある南朝武将名和長年を祀る霊社別格官幣社神社本庁別表神社南朝英雄奉斎神社。長年の墓は、南東900mにある長綱寺名和家長綱寺墓地にある。

目次

奉斎

  • 名和長恭1896『名和神社略縁記』「合祀諸神」[1]に基づく。
  • 配祀の人物は1862年(文久2年)の門脇重綾著『名和氏記事』に基づき定められたと考えられる。名和長重を除き、同書「宗族其他元弘以降王事に死する輩」[2]に順序も含めて一致する。
  • 名和長重は戦死の記述がないが、神器を守った功績が重視された可能性がある。
整理
番号
祭神名 生没年 略歴
1 名和長年 ?-1336 後醍醐天皇を迎えて船上山で挙兵。1336年(延元1年/建武3年)6月30日京都で戦死。名和長高。墓所は三人五輪名和家長綱寺墓地。法名は釈阿。
2 名和長重 生没年不詳 名和長年の甥。名和長義の次男。名和長年と共に船上山で挙兵。1352年(正平7年/文和1年)男山合戦で足利義詮に破れて賀名生に逃れたという。この時、鎧を脱ぎ、田んぼの中に放り出された八咫鏡の櫃を担いで守ったという。太郎左衛門。法名は正修。1915年(大正4年)、正四位追贈。
3 名和義高 1302-1338 名和長年の長男。1302年(乾元1年)生。名和長年と共に船上山で挙兵。建武中興で1334年(建武1年)1月、正五位上。肥後国八代の地頭職。1338年(延元3年/暦応1年)5月22日、石津合戦で戦死。彦三郎。墓所は三人五輪。法名は了阿。1938年(昭和13年)11月19日、正四位贈位。
4 名和高光 1315-1336 名和長年の三男。1315年(正和4年)生。船上山挙兵で功績を挙げ後醍醐天皇から黄楊の櫛を授けられたという。1336年(延元1年/建武3年)10月1日、比叡山の西坂本で戦死。22歳。正六位上。四郎左衛門尉。墓所は三人五輪。
5 名和泰長 ?-1333 名和長年の弟。隠岐の警固の武士だったが、隠岐国分寺の僧の紹介で後醍醐天皇に謁見して中国四国の情勢を説き兄を頼ることを述べ挙兵すべきだと進言したという。1333年(元弘3年/正慶2年)閏2月30日に出雲国で自害。名和悪四郎泰長。
6 名和行泰 ?-1335 名和長年の弟。1335年(建武2年)船上山で自害。十郎行泰。
7 名和義重 ?-1338 名和長年の甥。名和長義の長男。1338年(延元3年/暦応1年)5月22日、石津合戦で戦死。
8 名和高通 ?-1336 名和長年の甥。名和助高の二男。1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。弥二郎。
9 名和高政 1331-1352 名和長年の甥。名和助高の三男。1352年(正平7年/文和1年)4月2日、伯耆国で戦死。22歳。
10 名和長氏 ?-1352 名和長年の甥。名和行氏の三男。1352年(正平7年/文和1年)4月25日、男山合戦で戦死。
11 名和貞氏 ?-1336 名和長年の甥。名和行氏の四男。1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。
12 名和高長 ?-1336 名和長年の甥。名和高重の二男。1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。
13 名和高年 ?-1336 名和長年の甥。名和高則の二男。1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。名和高有。弥二郎。
14 名和行重 ?-1338 名和長年の従兄弟の子。名和行村の長男。1338年(延元3年/暦応1年)5月22日、石津合戦で戦死。小二郎。
15 名和秀村 ?-1336 名和長年の従兄弟の子。名和頼村の次男。1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。
16 名和五郎兵衛尉 ?-1352 名和長年の従兄弟の子。名和惟村の長男。1352年(正平7年/文和1年)4月2日伯耆国で戦死。諱は不詳。
17 名和重村 ?-1336 名和長年の従兄弟の子。名和惟村の次男。1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。
18 名和興村 ?-1352 名和長年の従兄弟の子。名和惟村の三男。1352年(正平7年/文和1年)4月2日伯耆国で戦死。
19 名和信貞 ?-1336 名和長年の従兄弟。名和行貞の長男。1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都の六角猪熊で戦死。
20 名和広貞 ?-1338 名和長年の従兄弟の子。名和信貞の二男。1338年(延元3年/暦応1年)5月22日、石津合戦で戦死。上神二郎。
21 名和広次 ?-1336 名和長年の従兄弟の子。「名和系譜」に記載なし。名和信貞の三男か。1336年(延元1年/建武3年)6月30日戦死。
22 名和助貞 ?-1333 名和長年の従兄弟。名和行貞の四男。1333年(元弘3年/正慶2年)4月8日、京都の二条大宮で戦死。四郎助貞。上神四郎三郎。村上助貞。上神助貞。
23 名和助重 ?-1336 名和長年の従兄弟。「名和系譜」に記載なし。名和行貞の五男か。1336年(延元1年/建武3年)6月30日戦死。
24 名和長信 ?-1352 名和長年の従兄弟の子。名和長貞の長男。1352年(正平7年/文和1年)3月18日、伯耆国で戦死。
25 名和高直 ?-1353 名和長年の従兄弟の子。名和直行の長男。1353年(正平8年/文和2年)1月10日、備前国富岡で戦死。上神太郎。
26 名和行実 ?-1352 名和長年の従兄弟。名和行忠の長男。1352年(正平7年/文和1年)4月3日、伯耆国で戦死。九郎。
27 名和助国 ?-1336 名和長年の従兄弟。名和高助の長男。1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。五郎三郎。
28 名和高国 ?-1336 名和長年の従兄弟の子。名和助国の長男。1336年(延元1年/建武3年)、越前国坂南で戦死。左衛門太郎。
29 内河真信 ?-1336 名和家執事。名和長年の従兄弟。内河右頼の次男。内河長祐の弟。1336年(延元1年/建武3年)6月5日、比叡山西坂本で戦死。墓所は米子の曹洞宗両足院。法名は天盾院殿傑巌俊雄大禅定門。内河兵衛三郎入道真信。兵衛三郎真信。入道念西。
30 内河真親 ?-1336 内河真信の二男。1336年(延元1年/建武3年)1月、播磨国書写山で自害。彦四郎。
31 内河真員 ?-1333 内河真信の甥。内河長祐の長男。1333年(元弘3年/正慶2年)4月8日、京都の二条大宮で戦死。新三郎
32 内河右真 ?-1336 内河真信の甥。内河長祐の次男。1336年(延元1年/建武3年)6月5日、比叡山西坂本で戦死。彦二郎。
33 内河右弘 ?-1336 内河真信の甥。内河長祐の三男。1336年(延元1年/建武3年)6月5日、比叡山西坂本で戦死。弥三郎。
34 内河義法 ?-1378 内河真信の孫。内河義真の四男。1378年(天授4年/永和4年)9月29日、肥後国府で戦死。彦三郎。
35 内河右景 ?-1338 1338年(延元3年/暦応1年)5月22日、石津合戦で戦死。四郎。
36 内河武景 ?-1338 1338年(延元3年/暦応1年)5月22日、石津合戦で戦死。
37 内河国時 ?-1336 1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。彦太郎。
38 河迫義元 ?-1336 1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。
39 河迫忠頼 ?-1336 1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。十郎。
40 荒松忠成 ?-1338 1338年(延元3年/暦応1年)5月22日、石津合戦で戦死。
41 香原林元親 ?-1336 1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。高田神社を創建。
42 小鴨幸清 ?-1336 1336年(延元1年/建武3年)6月30日、京都で戦死。
43 土屋宗清 ?-1352 千原宗行の子。1352年(正平7年/文和1年)4月8日、男山合戦で戦死。五郎。

歴史

建武中興十五社
社号 祭神
吉野神宮 後醍醐天皇
鎌倉宮 護良親王
井伊谷宮 宗良親王
八代宮 懐良親王
(配)良成親王
金崎宮 尊良親王
恒良親王
小御門神社 花山院師賢
菊池神社 菊池武時
菊池武重
菊池武光
(配)菊池武政他
湊川神社 楠木正成
(配)楠木正行他
名和神社 名和長年
(配)名和長重他
阿部野神社 北畠親房
北畠顕家
藤島神社 新田義貞
(配)新田義宗他
結城神社 結城宗広
(配)結城親光他
霊山神社 北畠親房
北畠顕家
北畠顕信
北畠守親
四條畷神社 楠木正行
(配)楠木正時他
北畠神社 北畠顕能
(配)北畠親房
(配)北畠顕家

前史

  • 1336年(延元1年/建武3年)6月30日:名和長年、京都で戦死。名和長年殉節地
  • 承応明暦頃:地元の住民が名和氏の屋敷跡に祠を創建。氏殿権現と呼ばれた。
  • 1677年(延宝5年)10月:鳥取藩主池田光仲が日吉坂の傍らの山王権現の境内に社殿を造営した。大窪友尚の建言によるという。古い木像があったが大窪友尚は木像を新たに彫刻し、旧像は胎内に納めたという。
  • 年月不詳:車尾村の深田某、氏殿神社境内に臣神社を鎮祭(『名和神社略縁記』)
  • 1686年(貞享3年):福住道祐、大窪友尚の依頼で「氏殿権現祠堂再興遺造記」を記す。
  • 1690年(元禄3年)8月:水戸藩士森尚謙、大窪友尚の依頼で建碑のための「故伯耆守名和君」の文を作る。建碑は実現せず。
  • 藩主池田綱清、社領2石1斗を寄進
  • 1797年(寛政9年)11月:池田治道、屋敷跡に建碑を企画し、箕浦徳胤が撰文する。池田治道は翌年死去し、計画は中断。
  • 1835年(天保6年)8月:池田斉訓、屋敷跡に、箕浦徳胤撰文を刻み「名和神君碑」を建立。
  • 1857年(安政4年)6月:(富豪橋井富三郎、船上山に「船上山之碑」を建立。)
  • 1858年(安政5年)5月:藩主池田慶徳が「故伯耆守名和君碑」を建立[3]。鳥取藩儒者の正墻薫が実施。
  • 1858年(安政5年)10月:(正墻薫、「元弘帝着船処」碑を建立[4]。同碑は1886年(明治19年)3月火災で焼損。1905年(明治38年)10月再建(元弘史跡船上山遺事)。)
  • 1859年(安政6年):鳥取藩、池田家家紋の使用を許可
  • 1861年(文久1年):汗入郡内の勧進許可。
  • 1862年(文久2年):(国学者門脇重綾、『名和氏紀事』を記す。)
  • 1862年(文久2年)3月:橋井富三郎、「名和氏倉址之碑」建立。
  • 1864年(元治1年)5月10日:赤石逸蔵が御霊代の木像を書写し、森田節斎が「名和公肖像記」を記す。

名和神社の成立

  • 1868年(明治1年)3月:山陰道鎮撫総督西園寺公望、出雲に向かう途中に参拝。
  • 1869年(明治2年)2月10日:池田慶徳、社殿を造営(近代の神社景観)
  • 1873年(明治6年):県社に列格。氏殿神社と改称。74年とも
  • 1876年(明治9年)6月22日:鳥取県から教部省、氏殿神社を国幣社に列するように伺う。[5]
  • 1876年(明治9年)10月28日:氏殿神社祠官糟谷末枝から教部省、別格官幣社に列するように建言。一族名簿添付。[6]
  • 1876年(明治9年)11日:池田慶徳から宮内省に建言。贈位と別格官幣社に列することを建言。[7]
  • 1876年(明治9年)12月16日:島根県から教部省に具申。楠木正成新田義貞に倣って官幣社に列格し、一門殉難者の霊を慰めることを願う。[8]
  • 1877年(明治10年)10月20日:内務省、氏殿神社と菊池神社藤島神社と同様に別格官幣社に列格するように上申。[9]
  • 1877年(明治10年)10月26日:書記官議案作成。氏殿神社の別格官幣社列格と社号改定、殉難将士の配祀をまとめる。[10]
  • 1877年(明治10年)11月19日:書記官から式部寮へ照会。氏殿神社社格が決まったので、御祭文の調査を依頼。[11]
  • 1877年(明治10年)11月20日:池田輝知から建言(内務省へ?)。池田慶徳の請願の採用を願う。この文書を12/11内務省から上申。[12]
  • 1877年(明治10年)12月7日:式部寮から上申。御祭文案提出し、勅使として地方官参向を提案。12/10書記官から上申。[13]
  • 1877年(明治10年)12月24日:式部寮上申に認可。[14]
  • 1878年(明治11年)1月10日:別格官幣社に昇格(菊池神社と同時)。名和神社と改称。名和長重ほか家臣41柱を配祀。祭典の神饌幣帛料として金15円。[15]
  • 1878年(明治11年)3月20日:別格官幣社列格祭典(3/27式部寮報告[16][17])。勅使として島根県令境二郎が参向(船上山史)。
  • 1878年(明治11年)4月27日:名和神社、日吉神社と臣神社を末社とするように出願。5月13日許可。(『名和神社略縁記』)
  • 1878年(明治11年)5月11日:式部寮と宮内省が上申。例祭日。[18][19]
  • 1878年(明治11年)5月14日:書記官議案。談山神社の例に基づき式部寮の上申を認める。[20][21]
  • 1878年(明治11年)5月21日:例祭日を8月15日と定める。[22][23]

社殿造営と贈位

  • 1878年(明治11年)6月19日:島根県から内務省に上申。社殿造営について。[24]
  • 1878年(明治11年)8月31日:内務省から島根県へ指令。社殿造営の詳細な見積を命じる。[25]
  • 1878年(明治11年)11月15日:島根県から内務省に上申。社殿造営費の見積5507円。[26]
  • 1878年(明治11年)12月21日:内務省、制限図に基づく社殿造営を上申。金4759円を3か年で府県営繕費支出見込み。[27]
  • 1878年(明治11年)12月25日:調査局から大蔵省。造営許可につき取調を通達。[28]
  • 1879年(明治12年)1月17日:社殿造営を許可[29]
  • 1879年(明治12年)10月30日:名和神社の順序を湊川神社の次位とする。
  • 1879年(明治12年)11月22日:島根県、旧社殿を元社として残すように伝達したという(『名和神社略縁記』)
  • 1880年(明治13年)12月8日:名和神社宮司名和十郎、内務省に「元社奉務上之義伺」提出。現在の社殿を元社として残すこと、御霊代は「偶像」であり腐食の恐れがあるためこれは神宝とし、新しく本社と元社の御霊代の調進を請願。元社のため仮拝殿と社務所をそのまま残してほしいこと。元社奉仕のため交代で1人詰めるのを認めてほしいこと。その由緒により末社のうち日吉神社は元社のまま残し、臣神社は本社に遷座してほしいこと。12/17島根県から内務省に進達。[30]
  • 1881年(明治14年)1月14日:内務省社寺局から式部寮に照会。御霊代は式部寮の所管のためという。元社の御霊代新造は認められないとの考え。[31]
  • 1881年(明治14年)1月24日:式部寮から社寺局。元社の御霊代新造は認められないが、旧来の御霊代の扱いは保留。[32]
  • 1881年(明治14年)5月22日:玉垣建設道路整備費支出許可。[33]
  • 1881年(明治14年)5月24日:島根県から名和神社へ、御霊代について指令([34]原文なし)。
  • 1882年(明治15年)1月12日:摂社氏殿神社を許可。(12/27内務省上申)[35]。(『名和神社略縁記』は1881年(明治14年)5月24日とする)
  • 1882年(明治15年)7月2日:鳥取県から内務省から具申。元社の御霊代について実地調査を踏まえ改めて新造を上申。[36]
  • 1882年(明治15年)7月18日:名和神社から内務省へ建言。御霊代について。[37]
  • 1882年(明治15年)9月15日:宮内省から内務省に照会。御霊代について。[38]
  • 1882年(明治15年)9月29日:内務省から宮内省に回答。旧御霊代は不都合なので元社の御霊代も新造するほうが良いが県令具申書のみではなお議論尽くさないところがあることを述べる。[39]
  • 1882年(明治15年)10月3日:宮内省から政府に上申。[40]
  • 1882年(明治15年)10月10日:第二局案作成。[41]
  • 1882年(明治15年)10月27日:御霊代として神鏡奉納を上奏(裁可)。[42]
  • 1882年(明治15年)10月30日:政府、宮内省上申を許可。[43]
  • 1882年(明治15年)11月24日:政府、旧御霊代の木像、名和神社の宝物として保存するように指示(遷座祭以降も氏殿神社に奉安されたままだったらしい)。(『学校訓話資料元弘忠臣名和長年』『名和神社略縁記』)
  • 1883年(明治16年)3月5日:宮内省から政府へ。御霊代奉納につき、式部寮官員に護送させ、勅使と御祭文の案を上申。同日上奏。翌日許可。[44]
  • 1883年(明治16年)3月21日:式部寮蔵田秋輔と松田貞之、御霊代を護送して鳥取に到着。22日県庁に仮に奉安。4月7日県庁を出発し、9日に御来屋に到着。
  • 1883年(明治16年)4月10日:新社殿へ遷座。御霊代奉納祭典。勅使として鳥取県令山田信道が参向。[45]。新しい社地は地元の信徒総代の寄進によるという(船上山史)。
  • 1883年(明治16年)8月6日:名和長年に従三位追贈。元は従四位下。
  • 1883年(明治16年)8月9日:宮内省から政府。贈位式について「墓所不分明」のため、「神階」ではないものの名和神社に勅使参向を伺う。14日許可。[46]
  • 1883年(明治16年)8月15日:宮内省から政府。勅使は地方官。策命案。17日許可。[47]
  • 1883年(明治16年)9月2日:贈位式。勅使として鳥取県令代理書記官本部泰が名和神社に参向。位記を社殿に納める。[48][49]

贈位以後

  • 1884年(明治17年)8月8日:男爵名和長恭、氏殿神社の御霊代として神鏡を奉納を出願。29日許可。(『学校訓話資料元弘忠臣名和長年』)
  • 1885年(明治18年)2月2日:日吉神社を氏殿神社の相殿神し、臣神社を新社地に遷座することを請願。6月18日許可。(『名和神社略縁記』)
  • 1885年(明治18年)5月3日:氏殿神社に新しい御霊代の神鏡を奉納。(『学校訓話資料元弘忠臣名和長年』)
  • 1885年(明治18年)8月7日:日吉神社、氏殿神社に遷座鎮祭。(『名和神社略縁記』)
  • 1885年(明治18年)8月10日:臣神社、氏殿神社境内から名和神社本社境内に遷座。(『名和神社略縁記』)
  • 1891年(明治24年)7月19日:(伯耆・大山寺に名和長年の弟の源盛を顕彰する「贈大僧正源盛之碑」建立。)
  • 1903年(明治36年):銅鳥居建立
  • 1907年(明治40年)5月:皇太子(大正天皇)参拝
  • 1886年(明治19年)1月:(京都の名和長年殉節地に「贈正三位名和公遺蹟碑」建立。「正三位」は「従三位」の誤り)
  • 1915年(大正4年):(名和長重に正四位追贈。)
  • 1932年(昭和7年):船上山義挙600年祭。社殿・神苑・参道などを造営整備か。(社殿造営は1935年(昭和10年)とも)
  • 1934年(昭和9年):(建武中興600年)
  • 1935年(昭和10年)5月8日:(名和長年に従一位追贈。
  • 1935年(昭和10年):名和長年600年祭
  • 1938年(昭和13年)11月19日:(名和義高に正四位追贈。)
  • 1939年(昭和14年)3月:(京都の殉節地に大型の石碑「贈従一位名和長年公殉節之所」建立)

境内・関連旧跡

組織

宮司

  • 糟谷武文(1823-1887)<>:鳥取藩士。1823年(文政6年)生。1854年(安政1年)、藩命により水戸で福地政次郎に砲術を学ぶ。1863年(文久3年)同志と共に京都本圀寺で態度を明確にしない鳥取藩重臣の黒部権之介を暗殺する(因幡二十二士事件)。戊辰戦争に参戦。その後、氏殿神社祠官となり、別格官幣社昇格に尽力した。1887年(明治20年)2月24日死去。糟谷末枝。加須屋右馬允。
  • 名和長恭(1835-1898)<1878->:華族。柳川藩士。1835年(天保6年)生。1878年(明治11年)1月31日、名和神社宮司。1883年(明治16年)9月24日、華族に列す。1884年(明治17年)7月8日男爵。1898年(明治31年)10月死去。
  • 名和顕義()<1899->:1899年(明治32年)5月3日、名和神社宮司。著書『別格官幣社名和神社略縁起』。
  • 寺井種長(1894-1968)<1929-1933>:1929年(昭和4年)から1933年(昭和8年)9月28日まで。(略歴は、大阪天満宮#組織を参照)
  • 杉村馨(?-1959)<?-1936>:山口県出身、国学院大学高等師範部卒、大神神社禰宜。1936年(昭和11年)9月19日まで名和神社宮司。熱田神宮宮司。豊栄神社・野田神社宮司。1945年(昭和20年)7月、香椎宮宮司。1959年(昭和34年)6月17日死去。
  • 長尾家和(?-1975)<1936->:1910年(明治43年)神宮皇学館専科卒。1912年(大正1年)出石神社主典。1924年(大正13年)出石神社禰宜。1936年(昭和11年)9月19日、名和神社宮司。のち宇倍神社宮司。1944年(昭和19年)出石神社宮司。1975年(昭和50年)8月20日死去。
  • 井上正道(?-1983)<1940-1946>:1913年(大正2年)皇典講究所神職養成部修了。1940年(昭和15年)から1946年(昭和21年)まで名和神社宮司。戦後、鷲峰神社宮司。1983年(昭和58年)2月23日死去。
  • 安江綱紀(1892-1974)<?-1946>:鳥取県神社庁長。鳥取県出身。1892年(明治25年)生。1916年(大正5年)国学院大学卒。1917年(大正6年)名和神社禰宜。1919年(大正8年)日吉大社宮司。名和神社宮司。1946年(昭和21年)12月19日、大神山神社宮司。1948年(昭和23年)3月9日から1960年(昭和35年)1月12日まで名和神社宮司を兼務。1959年(昭和34年)鳥取県神社庁長。1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)まで鳥取県護国神社宮司。1974年(昭和49年)4月30日死去。
  • 小林由太郎()<1946-1948>:倭文神社宮司。1946年(昭和21年)12月19日から1948年(昭和23年)3月9日まで。
  • 安江綱紀(1892-1974)<1948-1960>:1948年(昭和23年)3月9日再任、兼務。1960年(昭和35年)1月12日まで。
  • 名和顕忠(1904-1991)<1960-1991>:1904年(明治37年)生。1928年(昭和3年)愛知国学院本科卒。1931年(昭和6年)名和神社主典。1933年(昭和8年)名和神社禰宜。1943年(昭和18年)住吉神社禰宜。1946年(昭和21年)賀茂神社・坪田神社宮司。1953年(昭和28年)名和神社禰宜。1960年(昭和35年)1月12日、名和神社宮司。1991年(平成3年)1月27日死去。
  • 佐々木博正()<1991-?>:1991年(平成3年)5月1日から。
  • 名和靖恭()<>:2004年(平成16年)在職。
  • (石塚智康)

画像

資料

  • 福住道祐1686「氏殿権現祠堂再興遺造記」。抄出[50]
  • 森尚謙1690「故伯耆守名和君」銘文[51][52][53]
  • 箕浦徳胤1797「名和神君碑」銘文[54][55]
  • 広瀬旭窓1857「船上山之碑」銘文[56][57]
  • 正墻薫1858「元弘帝着船処」銘文[58][59]
  • 門脇重綾1862『名和氏紀事』[60]
  • 橋井富三郎1862「名和氏倉址之碑」銘文[61][62]
  • 森田節斎1864「名和公肖像記」[63]
  • 名和長恭1896『名和神社略縁記』[64]
  • 名和長恭1896『名和神社略縁記』「鎮坐ノ原由」[65]
  • 名和長恭1896『名和神社略縁記』「合祀諸神」[66]
  • 水島慎次郎1912『元弘史跡舩上山遺事』[67]
  • 池田喜市郎1913『学校訓話資料元弘忠臣名和長年』[68]
  • 池田喜市郎1913『学校訓話資料元弘忠臣名和長年』「祭神及合祀諸神」[69]
  • 鳥取県教育会1926『船上山史』[70][71]
  • 鳥取県教育会1926『船上山史』「合祀の諸神」[72]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%90%8D%E5%92%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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