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四天王寺五智光院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
四天王寺五智光院
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[[File:四天王寺・五智光院.jpg|五智光院|thumb|500px]] [[File:摂津名所図会・四天王寺・合成・部分・万燈院付近.jpg|1798年の『摂津名所図会』には西大門の内側脇に五智光院が描かれている。|thumb|500px]] '''四天王寺五智光院'''は大阪府大阪市天王寺区の[[四天王寺]]にある[[五智如来]]を祀る仏堂。本尊は五智如来。灌頂堂。本坊内にある。1177年(治承1年)[[後白河法皇]]が建て、灌頂を受けた。江戸時代は西大門内の南側にあった。江戸時代は[[徳川家]]の位牌を祀ることから御霊舎、御霊屋とも呼ばれた。[[叡尊旧跡]]。『天王寺誌』には「大日如来」とあり、「今ハ将軍家代々位牌処也」とある。[[四天王寺関連旧跡]]。 *1177年(治承1年):[[後白河法皇]]が建て、灌頂を受けた。中心伽藍の東廻廊に隣接する位置にあった。 *1623年頃:西大門内の南側に再建。この時の建物が現存。 *1628年:[[日光東照宮]]の13回忌に四天王寺僧の通順が出仕。[[天海]]から「権現様御影」を五智光院に勧請するように命じられた。ただし同時代史料では確かめられていない。(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」) *1632年:[[徳川秀忠]]の死去を受けて、位牌を五智光院に設けて家康の神影と間仕切りを設けた。(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」) *1637年:毎月17日に「東照大権現御法楽法事」を行うように命じられた。徳川家法事に関する史料上の初見。(同年「御条制」) *1651年:[[徳川家光]]の死去を受け、位牌を五智光院に設け、法要には大坂城代らが列席したが、その際、家康の神影を位牌と同所に祀るべきでなくいずれ別の場所に遷座するようにと命じられ、そこで用明天皇宮に合祀することにした(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」)。あるいは大坂町奉行の命令で、将軍家の法事を行うようになり、この時、家康神影と秀忠家光の「院号」を厨子と共に制作した(1682年「口上覚」)。この年の銘記がある大坂定番奉納の燈籠が本坊内に現存する。 *1801年:遅くともこの頃には東照宮が用明天皇宮に合祀されていた。12月5日に五重塔に落雷があり、境内東半分が焼失したが、「用明天王社に御相殿」の東照大権現の御影は無事で仮遷座を行ったと報告している。五智光院の歴代将軍の位牌は[[秋野坊]]に仮遷座した。 *明治後期:本坊内に移築。 *1915年:後堂を増築。 <Gallery widths="200" heights="150" perrow="2"> File:四天王寺・五智光院正門_(1).jpg|五智光院正門 File:安永摂州四天王寺絵図・部分・五智光院.jpg|1775年の『摂州四天王寺絵図』 File:文化四天王寺再建絵図・部分・五智光院・万燈院.jpg|1812年の『四天王寺再建絵図』 </Gallery> [[category:大阪府]]
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