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国学者旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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==羽倉家==
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*1[[荷田春満]](1669-1736):国学者。[[伏見稲荷大社]]社家の東羽倉家の出身。
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*2荷田在満(1706-1751):荷田春満の甥で養子。多賀高惟の子。1706年(宝永3年)生。1728年(享保13年)江戸に下り国学を広めた。やがて田安宗武の知遇を得て仕えた。1738年(元文3年)幕命で[[桜町天皇]][[大嘗祭]]の記録『大嘗会儀式具釈』を編纂。翌年その抄出本の『大嘗会便蒙』を出版したことが幕府の禁に触れ閉門の処分を受けた。『国歌八論』を著したところ田安宗武と意見が違い、1746年(延享3年)、賀茂真淵を後任に推薦した上で致仕した。1751年(宝暦1年)8月4日死去。46歳。墓は浅草[[臨済宗]]金龍寺。著書『本朝度制略考』『令三弁』『羽倉考』。
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*3荷田御風(1728-1784):荷田在満の子。1728年(享保13年)生。初名は冬満。岡藩の賓客として迎えられたが、禄を食むことは欲しなかったという。1784年(天明4年)8月16日死去。57歳。墓は金龍寺。著書『西遊紀行』。
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*4羽倉惟得(1765-1827):荷田御風の養子。岡藩士。1765年(明和2年)生。旧姓は藤井。村田春海、加藤千蔭に学ぶ。藩校由学館教授。1827年(文政10年)2月7日死去。63歳。号は子馨。墓は金龍寺。著書に『大江朝臣考』『狭布考』など。
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*5羽倉良重():
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*6羽倉季実():
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*7羽倉光表():
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*8羽倉信一():

2020年11月18日 (水) 時点における版

神職・神道家の旧跡と住み分け再編集予定

  • 本居大平(国足八十言霊大人命)
    • 宇禰之子神社(桜木神社内)
  • 本居春庭(後鈴乃屋春庭大人命)
    • 宇禰之子神社(桜木神社内)
  • 本居内遠(弥足功績道根大人命)
    • 宇禰之子神社(桜木神社内)
  • 服部中庸
    • 秀枝神社(桜木神社内)
  • 多田義俊
    • 篤志神社(桜木神社内)


羽倉家

  • 1荷田春満(1669-1736):国学者。伏見稲荷大社社家の東羽倉家の出身。
  • 2荷田在満(1706-1751):荷田春満の甥で養子。多賀高惟の子。1706年(宝永3年)生。1728年(享保13年)江戸に下り国学を広めた。やがて田安宗武の知遇を得て仕えた。1738年(元文3年)幕命で桜町天皇大嘗祭の記録『大嘗会儀式具釈』を編纂。翌年その抄出本の『大嘗会便蒙』を出版したことが幕府の禁に触れ閉門の処分を受けた。『国歌八論』を著したところ田安宗武と意見が違い、1746年(延享3年)、賀茂真淵を後任に推薦した上で致仕した。1751年(宝暦1年)8月4日死去。46歳。墓は浅草臨済宗金龍寺。著書『本朝度制略考』『令三弁』『羽倉考』。
  • 3荷田御風(1728-1784):荷田在満の子。1728年(享保13年)生。初名は冬満。岡藩の賓客として迎えられたが、禄を食むことは欲しなかったという。1784年(天明4年)8月16日死去。57歳。墓は金龍寺。著書『西遊紀行』。
  • 4羽倉惟得(1765-1827):荷田御風の養子。岡藩士。1765年(明和2年)生。旧姓は藤井。村田春海、加藤千蔭に学ぶ。藩校由学館教授。1827年(文政10年)2月7日死去。63歳。号は子馨。墓は金龍寺。著書に『大江朝臣考』『狭布考』など。
  • 5羽倉良重():
  • 6羽倉季実():
  • 7羽倉光表():
  • 8羽倉信一():
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6%E8%80%85%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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