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塚本社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''塚本社'''は京都府京都市東山区本町にあった神社。村社。仲恭天皇の陵墓の候補地とされた[[東山本町陵墓参考地]](廃帝塚)の上にあった。祭神は諸説ある。『京都府地誌』によると2社並ぶうちの1社は淳仁天皇・舎人親王・早良親王で、もう1社は神功皇后・井上皇后・他戸親王という。柿本社という説もある。官社の山城国紀伊郡の飛鳥田神社に比定する説もある。『坊目誌』は仲恭天皇、舎人親王、藤原実頼の墓という伝承があるとする。『山州名勝志』には「塚本社」は「廃帝の霊神」とある。『坊目誌』は1877年(明治10年)に廃されたというが[[京都・若宮八幡宮]]に合祀されたという。
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'''塚本社'''(つかもとしゃ)は京都府京都市東山区本町にあった[[仲恭天皇]]の[[霊社]]。村社。[[東福寺]]の西北の伏見街道沿いにある。[[仲恭天皇]]の陵墓の候補地とされた[[東山本町陵墓参考地]](廃帝塚)の上にあった。
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『陵墓一隅抄』は廃帝塚を仲恭天皇陵に比定した。
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創建不詳。1705年(宝永2年)『山城名勝志』に「柿本社」「今東福寺中門の北東側に小社有り。土人、塚本社と曰う。柿本社に擬すか」とある。延喜式神名帳に山城国紀伊郡の[[飛鳥田神社]]を「一名柿本社」と記すことを意識したとみられるが、飛鳥田神社説は弱いという。
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仲恭天皇との関係を記すのは1711年(正徳1年)『山州名跡志』で「塚本社」は「祭る所は廃帝の霊神。塚本と称す。此地は其の陵にて、社を陵前に立てる謂れなり。陵の体、人家の後ろに見ゆる。帝は人皇四十七代の帝なり」とある。1915年(大正4年)『京都坊目誌』でも仲恭天皇、[[舎人親王]]、藤原実頼の墓という伝承があるとする。このような伝承に基づき、幕末の平塚飄斎は1854年(安政1年)『陵墓一隅抄』で廃帝塚を仲恭天皇の陵墓に比定した。『京都坊目誌』によると、1877年(明治10年)に廃されたというが、[[京都・若宮八幡宮]]に合祀されたという。
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『京都府地誌』(1884年(明治17年)頃)は別伝を伝え、2社並ぶうちの1社は[[淳仁天皇]]・[[舎人親王]]・[[早良親王]]で、もう1社は[[神功皇后]]・[[井上皇后]]・[[他戸親王]]という。(日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)
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2022年3月12日 (土) 時点における版

塚本社(つかもとしゃ)は京都府京都市東山区本町にあった仲恭天皇霊社。村社。東福寺の西北の伏見街道沿いにある。仲恭天皇の陵墓の候補地とされた東山本町陵墓参考地(廃帝塚)の上にあった。

創建不詳。1705年(宝永2年)『山城名勝志』に「柿本社」「今東福寺中門の北東側に小社有り。土人、塚本社と曰う。柿本社に擬すか」とある。延喜式神名帳に山城国紀伊郡の飛鳥田神社を「一名柿本社」と記すことを意識したとみられるが、飛鳥田神社説は弱いという。 仲恭天皇との関係を記すのは1711年(正徳1年)『山州名跡志』で「塚本社」は「祭る所は廃帝の霊神。塚本と称す。此地は其の陵にて、社を陵前に立てる謂れなり。陵の体、人家の後ろに見ゆる。帝は人皇四十七代の帝なり」とある。1915年(大正4年)『京都坊目誌』でも仲恭天皇、舎人親王、藤原実頼の墓という伝承があるとする。このような伝承に基づき、幕末の平塚飄斎は1854年(安政1年)『陵墓一隅抄』で廃帝塚を仲恭天皇の陵墓に比定した。『京都坊目誌』によると、1877年(明治10年)に廃されたというが、京都・若宮八幡宮に合祀されたという。

『京都府地誌』(1884年(明治17年)頃)は別伝を伝え、2社並ぶうちの1社は淳仁天皇舎人親王早良親王で、もう1社は神功皇后井上皇后他戸親王という。(日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)

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