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大原陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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江戸時代には法華堂は消滅していたが、勝林院境内の十三重塔が両天皇陵に擬せられて、治定された。「大原法華堂」と称し、整備された。文久山陵図229 | 江戸時代には法華堂は消滅していたが、勝林院境内の十三重塔が両天皇陵に擬せられて、治定された。「大原法華堂」と称し、整備された。文久山陵図229 | ||
1906年(明治39年)3月23日、従来、「大原法華堂」と称してきたが、「大原陵」と改称する(明治天皇紀)。 | 1906年(明治39年)3月23日、従来、「大原法華堂」と称してきたが、「大原陵」と改称する(明治天皇紀)。 | ||
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2011年8月22日 (月) 時点における版
後鳥羽天皇は1239年(延応1年)2月22日に隠岐にて崩御したが、藤原能茂が京都に遺骨を持ち帰り、大原勝林院に納めた。その後、梶井門跡尊快親王と修明門院藤原重子が、水無瀬殿から建物を移築して法華堂を建立し、陵墓とした。 のち1242年(仁治3年)9月12日、佐渡の順徳天皇が崩御すると、帰京して「大原御墓所」に納骨された。「大原御墓所」は明らかではないが、一般に後鳥羽法華堂と同一のものとみなされた。 江戸時代には法華堂は消滅していたが、勝林院境内の十三重塔が両天皇陵に擬せられて、治定された。「大原法華堂」と称し、整備された。文久山陵図229 1906年(明治39年)3月23日、従来、「大原法華堂」と称してきたが、「大原陵」と改称する(明治天皇紀)。