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大安国寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年7月16日 (火)

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大安国寺長安長楽坊にあった仏教寺院。跡地から白大理石仏像が出土。千福寺と左右対象に位置し、共に法華道場が置かれた。安国寺とも。

歴史

皇帝睿宗(663-716)の王子時代の邸宅を710年に寺院としたもの。睿宗は高宗と則天武后の皇子で、兄の中宗が廃位となったため684年に即位するが、則天武后により廃位となる。 705年、則天武后から譲位して中宗が復位するが、その皇后の韋后(660頃-710)が中宗を暗殺。政権を握るが、710年、睿宗父子が政変を起こして睿宗が即位した。 大安国寺の成立は睿宗の即位に際してのものと思われる。 安国寺の名称は中宗が復位した時に睿宗が封じられた「安国相王」の号による。 なお、韋后は処刑されたが、その弟の浄覚(683-750?)は僧となり、晩年は大安国寺にいた。浄覚は『楞伽師資記』を著したことで知られる。

アラビアからもたらされた水珠があったという。 開元年間(713-741)、利渉(生没年不詳、明教大師)が華厳経を講じて多くの僧が集まった。 774年頃、飛錫という僧が千福寺と共に大安国寺の法華道場の検校となっている。 法華道場では法華三昧が行われ、持法・慧忍の姉妹尼が普賢菩薩の顕現にあったという。 778年、西明寺円照が新旧の四分律の統合事業を諸学僧と共に大安国寺の律院で行う。 元和年間(806-820)、詩僧として知られた広宣が安国寺紅楼院にいた。 円仁が大安国寺良侃から密教秘法を学び、円珍は大安国寺元簡に悉曇を学ぶ。

唯識の蔵用(?-794)、『瑜伽師地論義演』を記した清素(生没年不詳)、大徹禅師と呼ばれ809年に勅住した惟寛(755-817)、徳宗・憲宗から帰依され、僧統を務め、大達法師と呼ばれた端甫(770-836)らがいた。また禅僧では霊著、契微、好直、崇慧らがいた。


東禅院(木塔院)、律院、紅楼院、楞伽経院、法華道場があった。「大唐大安国寺故大徳浄覚禅師碑」があった。

  • 小林順彦「中国唐代における法華道場について」[1]
  • 吉田道興「『瑜伽師地論義演』について」[2]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA」より作成

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