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大山阿夫利神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年7月1日 (土)

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大山阿夫利神社(おおやま・あふり・じんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の相模大山にある、石尊信仰の総本社。県社別表神社大山阿夫利神社本庁を組織する。


組織

宮司・祠官

典拠[1][2]

代数 生没年 在職年 略歴
1 権田直助 1809-1887 1873-1887 幕末明治の国学者。武蔵国入間郡の医師の家出身。1809年(文化6年)生。安積艮斎、平田篤胤に師事。1862年(文久2年)に上京して国事に奔走。1869年(明治2年)、白川家教授。同年、大学中博士、皇漢医道御用掛。1871年(明治4年)の攘夷派弾圧で免官幽閉。1873年(明治6年)7月30日、大山阿夫利神社祠官兼大講義。1879年(明治12年)権大教正。同年から1881年(明治14年)まで三島大社宮司を兼務。1882年(明治15年)皇典講究所教授。1884年(明治17年)神道事務局顧問、大教正。1887年(明治20年)6月8日死去[3]。墓所は、大山の赤松山墓地。数多くの門人がいた。
2 内海政雄 1843-1895 1887-1895 1843年(天保14年)生。1873年(明治6年)、三島神社主典、権禰宜。1874年(明治7年)教導職権大講義。1875年(明治8年)、神道事務局から青森県などの巡察を命じられる。三島神社少宮司となり、足柄神道分局長、静岡神道分局長を兼ねる。1878年(明治11年)明治天皇行幸で先導する。権少教正[4]。1879年(明治12年)、岩木山神社宮司に任命されるが辞職。1880年(明治13年)4月、大山阿夫利神社副祠官となる。1887年(明治20年)、大山阿夫利神社祠官。神道本局幹事。神道本局参事会長。天理教との交渉にもたびたび当たる。1895年(明治28年)2月23日死去。贈大教正。子に国文学者の内海弘蔵。著書『阿夫利神社古今事記』。記念碑銘[5]
3 内海景弓 1846-1923 1891- 町会議員。神道事務局大山分局長。大教正。1846年(弘化3年)生。1891年(明治24年)大山阿夫利神社祠官。1923年(大正12年)死去。
4 目黒和三郎 1865-1923 1915- 1865年(慶応1年)生。権田直助に師事。専修学校(専修大学)卒。1903年(明治36年)、国学院主事、兼皇典講究所幹事。芝金刀比羅宮社司。1915年(大正4年)大山阿夫利神社祠官。龍田大社宮司、大神神社宮司を歴任。1923年(大正12年)死去。
5 小林順三 1876-1944 1920- 1876年(明治9年)生。大山出身。1900年(明治33年)国学院大学卒。千葉中学校勤務を経て大山阿夫利神社社掌。神奈川県皇典講究分所彰風学館講師、神道事務局大山分局長など歴任。1920年(大正9年)大山阿夫利神社社司。中教正。全国神職会評議員。1944年(昭和19年)死去。
6 目黒潔 1895- 1944- 目黒和三郎の子。1895年(明治28年)生。1916年(大正5年)国学院大学予科修了。1933年(昭和8年)、大山阿夫利神社社掌。1944年(昭和19年)(1945年(昭和20年)とも)社司(のち宮司)。戦後、大山阿夫利神社本庁を設立し管長に就任する。1948年(昭和23年)、神道指令違反を問われる「大山事件」で起訴されたが無罪となる[6]
7 目黒修一 1922- 1980-2002 1922年(大正11年)生。国学院大学卒。1980年(昭和55年)、大山阿夫利神社宮司。
8 目黒仁 2002- 2002年(平成14年)10月6日、大山阿夫利神社宮司。

権宮司

  • 古宮惣左衛門()<>:1947年(昭和22年)8月22日就任。1949年(昭和24年)5月12日退任。著書『神祇官』[7]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%98%BF%E5%A4%AB%E5%88%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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