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大峰七十五靡 - SHINDEN

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大峰七十五靡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月8日 (火)

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2018年5月8日 (火) 時点における最新版

大峯七十五靡 

緑の炎マークが靡

目次

概要

大峰七十五靡(おおみね・ななじゅうご・なびき)とは吉野大峰山にある修験道の霊場である。入峰修行の行場である。

歴史

一覧

よみ エリア 近代 状況 標高 概要
75 柳の宿 やなぎのしゅく 吉野 一の坂行者堂が現存。近くには初花権現社がある。対岸の「柳の渡し」跡に灯籠が残る。
74 丈六山 じょうろくやま 吉野 × 現在の吉野神宮の地。明治維新前には勝福寺があった。この寺には丈六の蔵王権現像を祀る蔵王堂があり、金峰山寺、安禅寺と並ぶ三蔵王堂の一つだった。丈六山の名もこれに由来。幕末の四十二宿の「丈六堂宿」。また一の蔵王、一の行場とも呼ばれた。吉野神宮造営のため、大規模に整地され、跡形もない。近くには四十二宿の一つ「峰之坊宿」だった峰薬師堂跡がある。
73 吉野山 よしのやま 吉野 近代 金峰山寺。金峰山寺が吉野山の中心となるのは平安時代後期からと推測されている。
72 水分明神 みくまりみょうじん 吉野 近代 式内社。靡となったのは近代以降。幕末には勝手神社が靡とされていた。
71 金精明神 こんせいみょうじん 吉野 式内社。鳥居は金峰山二の鳥居で修行門と呼ばれる。幕末には鳥居宿という宿があったらしい。近くに蹴抜塔がある。
70 愛染宿 あいぜんのしゅく 吉野 × 安禅寺があった。安禅寺は吉野山の奥之院と呼ばれた。『金峰山創草記』には報恩が宝塔を建立し、相応が寺を建てて本尊不動明王を祀ったという。平安時代前期に山上蔵王権現が勧請され、本尊となり、吉野修験の中心となったと推測されている。広千軒・石蔵千軒・鎌倉千軒などと呼ばれ、多くの修験者がいたらしい。のち中心地は金峰山寺に移るが幕末まで堂塔が並んでいた。明治の神仏分離で徹底的に破壊され、本尊蔵王権現は金峰山寺に遷された。「愛染の宿」とも。
69 二蔵宿 にぞうのしゅく 山上 近代 由緒不詳。『細見記』には「二蔵カ茶屋」とあり、大峯桜の逸話を記すが幕末までは宿でも靡でもなかった。江戸時代からこのあたりは百丁茶屋と呼ばれ、山麓の村や山内寺院が経営するいくつかの茶屋があったが現在はない。愛染宿からここまで百丁、ここから山上ケ岳まで百丁あるとされる。現在、平成7年に建てられた二蔵宿山小屋があり、広場に役行者の祠と不動堂がある。森沢義信は大峯桜の逸話は『細見記』著者の取材先の作り話ではと推測する。
68 浄心門 じょうしんもん 山上 × 由緒不詳。靡としての初出は『細見記』。金峰山四門にも含まれていない。出迎不動尊の近くに名残の黒門があったという。現在、洞辻(どろつじ)茶屋が旧跡とされているようだ。「洞辻」「洞呂辻」は多くの文献に現れる。洞辻茶屋は洞川村が経営する茶屋で江戸時代から続き、現在も営業中。泥辻茶屋の南には個人経営の陀羅助茶屋も営業している。
67 山上ケ岳 さんじょうがたけ 山上 1719m 修験道の根本道場。大峰山(大峯山)の中心となる峰。「山上」と通称される。標高1719m。南北に700mの細長い山頂を持つ。涌出岩大峰山寺(大峯山寺)を中心に霊地が点在。登拝道沿いにある表行場や大峰山寺の裏にある裏行場などが修行場となっている。現在、他に鐘掛岩、お亀石、西の覗などがある。『本縁起』には「涌宿御所也」とあり、『諸山縁起』には「湧の宿」とある。5月3日午前3時に戸開式、9月23日午前3時に戸閉式が行われる。1534年(天文3年)に浄土真宗本善寺の焼討に逢うまでは36坊があったという。江戸時代末期には吉野山に里坊を持つ11坊があり、そのうち、桜本坊東南院竹林院南之坊小松院角之坊が山上参籠所を設けていた。現在は大峰山寺護持院が宿坊を経営する。「峰中」で往時の諸堂と宿坊が続いているのは山上ケ岳と玉置山のみ。
66 小篠宿 おざさのしゅく 山上 小篠宿は特に当山派の拠点で、新客はここで十界修行を行った。醍醐寺三宝院は毎年6月8日早朝にここに登山。行者堂に蓮華の花を供える。周辺に様々な行場・霊場がある。山上ケ岳に近く豊富な水源があることから往時は多くの宿坊や先達小屋があった。1787年(天明7年)の『大峰々中秘密絵巻』には47軒の小屋が描かれている。1871年(明治4年)の文書にも堂宇坊舎33軒があると記されているが、昭和初期には聖宝と役小角を祀る堂と茶屋があるだけだった。現在、行者堂、不動像、聖宝像、避難小屋のみ残り、往時の痕跡は1696年(元禄9年)の石造護摩炉だけという。大黒窟というカエルの口を開いたような巨石があり、大己貴神が宿るとされる。
65 阿弥陀森 あみだがもり 山上 × 大峰道と柏木道の分岐点が現在の靡。結界門。阿弥陀森の山頂には小祠跡らしきものが残る。柏木に降りて岩窟巡りをする場合もある。柏木には蔵王権現感得に先立ち役小角の前に現れた地蔵菩薩を祀る金剛寺がある。
64 脇の宿 わきのしゅく 山上 × 元小篠と呼ばれる重要な霊地・宿。詳細は秘伝とされたが、ここに長期滞在して修行することもあった。「針葉樹が点在する尾根の広い平坦地」にある。明星嶽と呼ばれた金剛童子が宿る巨岩がある。江戸時代には行者堂や蔵王堂があったが、今は何もないという。
63 普賢岳 ふげんだけ × 「大普賢岳」と「小普賢岳」があるが、「小普賢岳」が靡の「普賢岳」に当たるという。山腹に経筥石がある。鎌倉初期の『大菩提山等縁起』には「経筥石」の記載はあるが、宿の記述はない。「笙の窟」へ下る分岐点がある。
62 笙の窟 しょうのいわや 虚空童子の居所。大峰八大金剛童子の一つ。古くは冬籠りの修行が行われ、近年は百日回峰行の修行場となっている。日本岳(文殊岳)と呼ばれる絶壁にある岩窟で、遠くからみると楽器の笙のように見える。1993年(平成5年)の上北山村教育委員会の調査によると開口部は半円形で幅12m、高さ3.3m、奥行7mで面積は40畳。しかし、過去に崩落する前はもっと広かったという。鉄釘が出土し、籠堂などの存在が想定できるという。現代に制作された石造不動像があるが、1942年(昭和17年)までは鎌倉時代の銅造不動明王立像が祀られていた。その像は奈良博に寄託されている。中世には9月9日から翌年1月3日まで命がけで籠もった。行尊、行慶、日蔵、静仁法親王、円空、林実利らがここに籠もったことが記録にある。伯母谷村の住民が食料や薪などの物資を運んだ。
61 弥勒岳 みろくだけ 近代 × 1655m 標高1655m。記録はとぼしく、ここでの儀礼は特にない。次の稚児泊までの途中に「内侍落とし」「薩摩ころげ」という岩場など多くの難所があり、一体的な行場として靡とされたのかもしれないと森沢義信は推測する。「弥勒ケ岳」とも。
60 稚児泊 ちごとまり × かつては「屏風宿」とも呼ばれた。
59 七曜岳 しちようだけ × 「国見岳」ともいう?頂上は展望に優れるという。「七曜岳」の名の初見は『細見記』で「北斗七星ノ多和」と添え書きがあるので、妙見菩薩や北辰信仰の霊場と推測されている。
58 行者還り ぎょうじゃがえり 1546m 標高1546mの行者還岳のあたり。現在は頂上には行かず、金剛蔵王の石碑がある場所を靡とする。昭和初期には行者堂があった。
57 一の多和 いちのたわ 弥山 荒れた避難小屋がある。『本縁起』『諸山縁起』で「小池宿」とは呼ばれる。七ツ池の一つ「一の多和池」があったが、現在は湿っている程度という。多和とは尾根のたわんだところを指す言葉。
56 石休場 いしやすば 弥山 近代 由緒不詳。江戸時代までの記録にはない。石休宿(いしやすばのしゅく)とも。
55 講婆世宿 こうばせのしゅく 弥山 講婆世という名の僧侶の墓所という。『本縁起』『諸山縁起』では「皮走の宿」と記す。一方で、『細見記』はここを聖宝の没地とし、「聖宝の宿」とも呼ぶ。現在は1692年(元禄5年)に鋳造された銅製の聖宝像がある。近くに池の跡らしきくぼみがあり、七ツ池の一つ「聖宝ノ池」に比定されている。
54 弥山 みやま 弥山 1895m 頂上には弥山神社などがある。弥山神社は天河神社の奥之院で、現在の社殿は1980年(昭和55年)に再建したもの。元は「御山」「深山」と書いて「みやま」と読んだが、江戸時代以降は須弥山の意味を込めて「弥山」と書く。標高1895m。古代には「池宿」、のち「吉野熊野宿」と呼ばれ、近世には「弥山宿」と呼ばれたらしい。1964年(昭和39年)の台風で被害を受けたときの調査で、山頂から五鈷杵・火打鎌・鉄斧などが出土した。近世には天河神社が管理した。小屋は江戸時代から建て替えられ、1994年(平成6年)に建てられた弥山小屋は最大250人を収容でき、年間3000人が利用しているという。小屋の前に御手洗水池(四寸ケ淵)という井戸跡があり、七ツ池の一つとされる。行者堂もある。
53 頂仙ケ岳 ちょうせんがたけ 弥山 近代 ×遥拝所 1717m 由緒不詳。古書の記録にない。「朝鮮ケ岳」とも。遥拝するだけ。標石がある。
52 古今宿 ふるいまのしゅく 弥山 近代 由緒不詳。標石がある。
51 八経ケ岳 はっきょうがたけ 弥山 1915m 役小角が法華経八巻を埋納したとされる大峰山の最高峰。標高1915mで近畿の最高峰でもある。「仏経ケ岳」「八剣山」とも呼ばれる。しかし、幕末までの古書には記録がなく、一帯は次の「明星ケ岳」と合わせて「明星嶽」「奥八軒」などと呼ばれていた。
50 明星ケ岳 みょうじょうがたけ 弥山 近代 × 現在は、八経ケ岳の南肩の峰を「明星ケ岳」と呼ぶ。
49 菊の窟 きくのいわや 弥山 ×所在不明・遥拝所 所在不明。江戸時代の『大峰逆峰修行四十二宿七十五路記』は「菊の岩屋は極秘所」とする。明星ケ岳の近くに遥拝所がある。
48 禅師の森 ぜんじのもり 弥山 ×所在不明 所在は諸説ある。現在は遥拝するのみ。八大金剛童子の一つ檢始童子の居所の禅師宿が起源で元は十津川の禅師平にあったともいう。のち稜線上に移ったがそれも所在ははっきりしない。
47 五鈷嶺 ごこのみね 弥山 × 1694m 由緒不詳。古書には記録にとぼしく、『細見記』には靡の一つに名前があるだけで伝承は記されていない。近代に定められたと思われる。「五鈷の峰」とも。標高1694m。
46 船の多和 ふねのたわ 弥山 近代 「二の多和」とも。靡になったのは近代。『細見記』には金剛童子像があったと記すが現在はない。
45 七面山 しちめんざん 弥山 近代 ▲遥拝所 1624m 七面山(東峰標高1624m)は七面岩と呼ばれる高さ300mの岩壁がある。奥駈道上に遥拝所があるが、「楊子の森」という峰に遮られて七面山は見えない。七面山は古くからの霊場だが靡きになったのは近代。
44 楊枝の宿 ようじのしゅく 弥山 「楊子の宿」とも。水源に恵まれた宿。江戸時代には建物はないが、門跡入峰の時には折りたたみ式の屋を立てたという。門跡の滞在所に一つで、前鬼・五鬼の主人が門跡に挨拶に来た。
43 仏生ケ岳 ぶっしょうがたけ 弥山 ×遥拝所 1805m 標高は1805mで、八経ケ岳に次ぐ。細見記では46番靡とする。奥駈道は頂上を通らず遥拝所がある。「仏性ケ岳」とも。
42 孔雀岳 くじゃくだけ 前鬼 × 1779m 孔雀岳の南に孔雀覗がある。その南には、北の金剛界と南の胎蔵界を分ける「両部分け」(螺摺り)がある(16世紀の『両峰問答秘鈔』では深仙宿を両部分けとする)。「椽の鼻」というテラス状岩盤があり、「峰中第一の絶景」と呼ばれる景勝地である。「椽の鼻」には蔵王権現が祀られている。「孔雀ケ岳」とも。
41 空鉢岳 くうはちだけ 前鬼 × 森沢義信は中世には「空鉢宿」「剣嶽宿」「十徳仙宿」などがあったが、のちに「空鉢宿」に統合されたものと推測する。教団・行者によって伝える場所が異なるともいう。「空鉢ケ岳」とも。
40 釈迦ケ岳 しゃかがたけ 前鬼 × 1800m 深仙宿・前鬼三重滝と三者合一の行所という。近世には釈迦・文殊・普賢を祀る簡素な釈迦堂があった。明治以降、前鬼に遷され、五坊が交代で奉安してきたが現在は小仲坊行者堂にあるという。4月8日に戸開きが行われていた。晴天の日には山頂から海上に富士山が見えるという。
39 都津門 とつもん 前鬼 深仙宿の裏行場の一つ。胎内くぐりの行場。現在は崩壊して危険なため修行は行われていないという。
38 深仙宿 じんぜんのしゅく 前鬼 八大金剛童子の一つ香正童子の居所。『青笹秘要録』では中世、順峰・逆峰とも7日間滞在したという。聖護院門跡良瑜が深仙灌頂を創始して本山派の「峰中最勝・最極秘の霊地」となったという。江戸時代後期には本堂(護摩堂)を中心に宿坊2カ所、役小角を祀る灌頂堂があった。灌頂堂は現在の髭塚あたりにあった。宿坊は住心院若王子。1891年(明治24年)の公文書では護摩堂、灌頂堂、香精堂、詰所があったが宿坊は消滅していた。現在の灌頂堂は1957年(昭和32年)の再建で、役小角・不動明王・八大金剛童子・円珍・聖宝などを祀る。四天石という岩壁があり、四天王かあるいは弁財天・聖天・役小角・香正童子に充てる。広目天(香正童子)の岩壁の中腹から香精水(光照水)という水が滴り落ちている。正灌頂の閼伽水に使われた。髭塚は役小角が髭をそり、前鬼・後鬼に形見として与えた旧跡という。この他、周辺には裏行場として「仙人の一つ柱」、都津門、磊山、三つ蓋嶽、書写水、般若経櫃、石の護摩壇、龍神窟などの行所があったが、都津門以外は所在不明という。16世紀の『両峰問答秘鈔』では深仙宿を両部分けとする。
37 聖天の森 しょうでんのもり 前鬼
36 五角仙 ごかくせん 前鬼 近代
35 大日岳 だいにちだけ 前鬼 1593m 大日ケ岳とも
34 千手岳 せんじゅたけ 前鬼 1357m
33 二ツ石 ふたついし 前鬼 近代 太古の辻にある。1.5mほどの立ち石。あるいは「両童子石」を「二ツ石」に当てる説もある。ここから南を「南奥駈道」という。1984年(昭和59年)に「新宮山彦ぐるーぷ」が熊野への山道整備を始めるまでは明治以来、ここが逆峰の終着点だった。
32 蘇莫岳 そばくたけ 前鬼 1530m
31 小池宿 こいけのしゅく 前鬼 ×
30 千草岳 ちぐさたけ 前鬼 ×所在不明
29 前鬼山 ぜんきやま 前鬼 700-850 釈迦ケ岳東南の標高700~850mの緩斜面の盆地にある集落。行者坊不動坊中之坊森本坊小仲坊の五坊があったが、現在は小仲坊だけという。五坊は役小角の従者である前鬼・後鬼の子孫とされる。前鬼と後鬼は義覚と義賢という名の夫婦だったともいう。前鬼・後鬼が創建し、鬼熊・鬼童・鬼上・鬼継・鬼助に託したともいう。あるいは役小角が701年(大宝1年)に入唐する際に義真・義継・義光・義連・義元の弟子(五鬼)に管理を託したともいう。五坊はそれぞれ、将監・不動・中村・森村・尾中とも呼ばれたという。中之坊は1879年(明治12年)までに常住を辞め、行者坊は1897年(明治30年)に、不動坊は1899年(明治32年)に紀伊に帰ったという。森本坊は1966年(昭和41年)に新宮市に移転した。五鬼衆は釈迦ケ岳の釈迦堂を本堂とし、深仙宿の諸堂や周辺の行所を金輪王寺という一つの寺院と考え、維持してきた。前鬼の金輪王寺の本堂には釈迦如来を祀り、役小角を祀る開山堂があった。氏神上野神社は元は妙見社、大乙神社などと呼ばれ、妙見霊符尊神・雨宝童子を祀っていた。現在は天御中主神。明治の前鬼には林実利が滞在し、五鬼熊義真に学んだとされる。(『大峯奥駈道七十五靡』『大峰修験道の研究』)
28 前鬼三重滝 ぜんきのみがさねのたき 前鬼 前鬼の裏行場。馬頭の滝、千手の滝、不動の滝がある。密行所とも呼ばれる。周辺には両界窟という洞窟や「天の二十八宿」という岩場などがある。
27 奥守岳 おくもりだけ 前鬼 近代 × 1490m
26 子守岳 こもりだけ 笠捨 近代 × 1464m 国土地理院の地図では地蔵岳という
25 般若岳 はんにゃだけ 笠捨 近代 × 1330m
24 涅槃岳 ねはんだけ 笠捨 × 1376m
23 乾光門 けんこうもん 笠捨 × 1301m
22 持経宿 じきょうのしゅく 笠捨 1979年(昭和54年)に再建された不動堂と山小屋がある。ただし、現在地は旧地ではなく本来は別の場所にあったと思われているが、その場所は明確でない。
21 平治宿 笠捨 古くは「平地宿」。へいち、あるいはへいじ
20 怒田宿 ぬたのしゅく 笠捨 ×
19 行仙岳 ぎょうせんだけ 笠捨 1227m 1990年(平成2年)に役小角と林実利を祀る行者堂と山小屋が再建された。行仙岳の東面の岩壁に「継の窟」がある。
18 笠捨山 かさすてやま 笠捨 × 1352m
17 槍ケ岳 やりがたけ 笠捨 近代 醍醐寺三宝院では別の地点に槍宿を定める
16 四阿宿 あずまやのしゅく 笠捨 1230m
15 菊ケ池 きくがいけ 笠捨
14 拝返し おがみがえし 笠捨 近代
13 香精山 こうしょうざん 笠捨 近代 × 1122m
12 古屋宿 ふるやのしゅく 笠捨 ×流失 1889年(明治22年)の大水害で旧地は流失したという。
11 如意珠岳 にょいじゅだけ 笠捨 × 736m 古くは「如意珠ケ岳」
10 玉置山 たまきやま 玉置 1076m 「無漏岳」とも呼ばれる。玉置神社を中心に宝冠森など様々な行所がある。玉置神社の祭神は国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊。鎌倉時代には不動堂や大日堂があった。熊野信仰が興隆すると、熊野三山の奥之院とされた。1691年(元禄4年)から1727年(享保12年)までは蓮華光院門跡の支配下にあり、1727年(享保12年)には聖護院門跡の配下に入り、別当高牟婁院が建立された。十津川郷の総鎮守であったが、近隣村の山林を横領したので住民と疎遠になった。神仏分離で十津川郷の寺院は全て廃絶となり、出雲大社教に改宗した。現在、玉置神社内に出雲大社教の施設がある。「峰中」で往時の諸堂と宿坊が続いているのは山上ケ岳と玉置山のみ。玉置神社から山頂に向かう途中に玉石社があり、名称の由来ともいう。山頂には沖見地蔵を祀る祠がある。八大金剛童子の一つ悪除童子の居所。玉置山の北に花折塚がある。花折塚は南朝の護良親王に従った片岡八郎の墓所とされる。聖護院門跡が玉置山に向かうときは花折塚まで玉置山から御輿が迎えに来たという。
9 水呑宿 みずのみのしゅく 玉置
8 岸の宿 きしのしゅく 玉置 ×
7 五大尊岳 ごだいそんだけ 玉置 825m
6 金剛多和 こんごうたわ 玉置
5 大黒岳 だいこくたけ 玉置 × 574m
4 吹越山 ふきこしやま 玉置 325m 八大金剛童子の一つ除魔童子の居所。中世の順峰百日修行では14日間をここに滞在。順峰ではここで峰入りの作法を行い吉野に向かった。逆峰ではここで最後の護摩を行った。1973年(昭和48年)再建の行者堂が立つ。吹越から下ると、七越峰があり、門跡がいる場合は熊野本宮からここまで長床衆が迎えに来た。さらに下ると備崎経塚遺跡がある。本宮庵主がいた。
3 新宮新誠殿 熊野 熊野速玉大社。式内社。速玉大神は薬師如来を本地とする。千穂ケ峰の神倉神社が発祥地とされる。奈良時代に現在地に社殿が建てられ、新宮と呼ばれたという。新宮は神職だけで、社僧・修験はいなかったとされるが、神倉には修験がいた。神倉四本願新宮庵主という社僧がいた。
2 那智山 なちさん 熊野 熊野那智大社。熊野夫須美神は千手観音を本地とする。高さ133mの那智の滝が発祥地。ほかに那智四十八滝があったという。本宮と新宮が式内社であるのに対し、那智大社は官社となっていない。もともと山岳修行の僧侶によって開かれたとみられ、三山の中で修験の色彩が最も濃かったという。那智滝籠衆と呼ばれた。1660年(万治3年)には尊勝院など34坊があった。青岸渡寺は元は那智大社の如意輪堂で、西国三十三所観音霊場の第1番札所とされる。補陀洛山寺熊野・阿弥陀寺などの社僧那智七本願がいた。
1 本宮証誠殿 ほんぐうしょうじょうでん 熊野 熊野本宮大社。式内社。主祭神の家津美御子神は阿弥陀如来を本地とする。1889年(明治22年)の大水害で熊野川の中洲にあった社殿は大きな被害を受け、現在の高台に遷座。旧地は大斎原と呼ばれている。本宮の拝殿(長床)に詰めた山伏を長床衆と呼んだ。順峰の起点であり、逆峰の終点であるが、逆峰の時は吹越から本宮を経て新宮・那智の順で巡った。
  • 名称と読みは『大峯奥駈道七十五靡』を元に『大峰修験道の研究』などを参照して判断。
  • 概要欄は主に『大峯奥駈道七十五靡』を参照。
  • 状況欄については一考を要する。
  • エリアは仮に独自に判断した。

参考文献

  • 宮家準『大峰修験道の研究』355-358、近世末期のもの
  • 森沢義信、2006『大峯奥駈道七十五靡』ナカニシヤ出版


参考文献

  • 宮家準『大峰修験道の研究』355-358

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B0%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%94%E9%9D%A1」より作成

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