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大連神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年5月17日 (水)

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赤間神宮にある現在の大連神社。社殿は熱田神宮撤下材を用いて昭和初期に造営された明治天皇像奉安殿を移築したもの
1909年(明治42年)10月造営の社殿。出雲大社教関東分祠として建てられたため大社造の社殿だった

大連神社は山口県下関市阿弥陀寺町にある神社。赤間神宮内。元は関東州大連市神明町にあった。教派神道の教会所が起源であること、そのため帝国憲法下において政教分離が問題になったこと、無格社だったが県社級の扱いを受けたこと、敗戦時に処分されずに1年半近く祭祀が続けられた上に本土に奉遷されて復興したことが大きな特色である。神道大社教関東分祠として大社造の社殿が建てられ出雲大社の分霊を迎えた。しかし大社教との分離以降は出雲信仰の色は薄くなり、祭神の順序も天照大神が筆頭となり、昭和造営時には神明造の社殿が建てられた。一帯は当局が社寺建立地として計画した地域で、西隣には西本願寺関東別院があり、その西側には東本願寺大連別院があった。満洲国・関東州の神社も参照。

目次

祭神

1932年(昭和7年)「大連市街図」部分

造化三神天照大神の4柱は大教院にならったもので明治時代の教派神道の神殿の祭神としてはスタンダードである。そこに出雲大社祭神である大国主神も祀っている。産土神と靖国神の奉斎は特徴的で、産土神はその土地固有の神がいるものと考えれたと思われる。靖国神は「日清日露両戦役に於て満洲方面に於て戦没病死者の靖国神社に併祀せられたる祭神を総称して奉祀す」(大連神社創立誌)とされるが、日本本土の神社行政では認められ難いものだったといえる。明治天皇の合祀は外地では昭和期によく行われた。

  • 1910年(明治43年)9月26日:祭神は天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大御神・大国主神・産土神・靖国神。(御神体は2つあり、靖国神のみ別だったという)(大連神社創立誌)
  • 1916年(大正5年)7月19日:祭神は天照大御神・大国主神・靖国神。客殿祭神は天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・産土神。(御神体はそのまま)(大連神社創立誌)
  • 1936年(昭和11年)9月:祭神は天照皇大神・明治天皇・大国主神・靖国神。配祀は天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・産土神。(『関東州及満鉄付属地神社行政概要』[1]56P)
  • 戦後:天照皇大神・大国主大神・明治天皇・靖国神。(境内由緒書)

境内

大社造で建てられた明治造営の社殿(大連神社創立誌)
神明造に建て変えられた昭和造営の社殿(関東局要覧)

大連時代

  • 本社:
  • 仮神殿跡:
  • 御旅所:
  • 神道大社教関東分院:昭和造営に合わせて市街地に移転。
  • 祖霊社:当初は拝殿内に祀られたが、大連神社成立にともない、大社教分院内に遷座。
  • 神威殿:明治天皇像を祀る奉安殿。元は満鉄総裁室にあったもの。

歴史

主に『大連神社創立誌』より

仮神殿の鎮祭まで

荒野の中に大社教関東分院仮神殿が建てられた。鳥居も確認できる。(大連神社創立誌)
大社教関東分院の仮神殿(大連神社創立誌)
  • 1904年(明治37年)7月5日:大社教教師の松山珵三、日露戦争中、神道布教の目的を秘め、軍属として大連上陸。当初は郊外に牧場を経営し、中国人布教に着手したが、都市部の予想外の発展を見て日本人移住者への布教に切り替える。
  • 1905年(明治38年)4月2日:松山珵三、軍政署に出頭し、土地の貸下げを交渉。22日にも。
  • 1905年(明治38年)4月5日:訓導松山珵三、大社教から「清国遼東半島内布教使」の辞令。
  • 1905年(明治38年)9月5日:ポーツマス条約で遼東半島租借地をロシアから引き継ぐ。関東州と呼称。ダルニーを大連と改称。
  • 1906年(明治39年)4月12日:松山珵三、「大社教大連教会所」建設のため600坪の土地貸下願と建設計画書を提出。当局は「南山麓」を社寺の建立地として想定し、それに従った。
  • 1906年(明治39年)8月31日:仮許可。
  • 1906年(明治39年)9月1日:関東都督府設置。民政が始まる。
  • 1906年(明治39年)9月6日:詳細な申請書を提出。既に信徒が900人ほどいるとしている。事業費1万7200円。何度も交渉。当局者が神社と教派神道の違いを理解しておらず、教会所としては神社建築を建てるわけにはいかなかったが、執拗に神社形式の建物を建てるように要求してきたという。相談を受けた大社教本院は本格的な建築設計図を送付し、これを提出したところ認められた。のちの「大連神社沿革の概要」によれば11月出願の時点で神社へ引き直すことが想定されていいたという。
  • 1907年(明治40年)4月1日:松山珵三(前日に軍属解職)が愛宕町に分院創立事務所を設置(3月28日とも)。有力者の都督府通訳官の石本鏆太郎(のち大連市長)の邸宅の一室だった。即日、神璽を奉遷した。市内に戸別訪問し信徒を獲得。2200人で「遼東講社」を設立し、10組に編成した。
  • 1907年(明治40年)4月29日:大連民政署、土地貸下げ許可。
  • 1907年(明治40年)5月25日:土地引き渡し予定日だが、担当者が来ず。当局が播摩町のはずが薩摩町と間違えたという。
  • 1907年(明治40年)6月25日:土地選定をし直し、神明町600坪を土地貸下げを受ける。ついで追加の土地貸下げを請願始める。大谷深造、高柳信昌、川上賢三が土地選定委員となる。西本願寺関東別院の輪番と交渉。
  • 1907年(明治40年)7月5日:建設を岩見組(水間与作)に依頼。
  • 1907年(明治40年)7月8日:地鎮祭。
  • 1907年(明治40年)7月25日:別に神社創建を計画していた元議員の出水弥太郎側と合同の協議を開くが決裂。出水側は断念した。
  • 1907年(明治40年)8月19日:建設委員会を組織。石本鏆太郎、大羽豊治、大谷深造、伊藤栄証などが中心となり、委員長には有馬純雄、副委員長には高柳信昌。22日に建設委員59人。27日委員総会で15人の評議員。29日評議員会を開き、石本と長浜敞介を会計とする。
  • 1907年(明治40年)8月25日:秋田商会大連支店長の秋富久太郎から仮神殿の材木一切の寄進の申し出があり、岩見組も工事費用について寄進の申し出があり委託。
  • 1907年(明治40年)8月26日:起工。28日とも
  • 1907年(明治40年)8月31日:竣工。同日午前には鳥居が建立され「大連神社」の額が掲げられた。
  • 1907年(明治40年)9月1日:午前0時から遷座式。午前10時から祭典。200人以上が参拝。終日、市民で賑わった。(『産霊』では9月1日に起工)
  • 1907年(明治40年)9月13日:建設委員総会、靖国神の奉斎の議が起こり決議。日清戦争と日露戦争の戦没者を総称。工事は静岡県袋井の鈴木孫吉に依頼が決定。
  • 1907年(明治40年)10月25日:事務所落成。
  • 1907年(明治40年)10月31日:神道大社教関東分院の仮神殿竣工。
  • 1907年(明治40年)11月3日:事務所に移転。正式に開院。(産霊)

分祠の鎮祭まで

神社ではなく教派神道の施設でありながら、大連では市民をあげて分霊に迎えた。(大連神社創立誌)
明治造営の社殿(大連神社創立誌)
  • 1907年(明治40年)12月:「皇道会」設立。歌道会が中心。雑誌『皇道』を発刊。 のち会長に陸軍中将税所篤文、副会長に大谷深造。松本三省
  • 1908年(明治41年)6月13日:乃木希典参拝
  • 1908年(明治41年)7月25日:土地貸下げ追願書提出。9300坪。8月7日、南山麓高地8675坪が許可。
  • 1908年(明治41年)9月:起工。
  • 1908年(明治41年)5月:皇道会の事業として児童寄宿舎の奨学園を開いた(産霊)
  • 1908年(明治41年)7月:建設委員長に国沢新兵衛、副委員長に石本。組織改革。町外委員および31町から数人ずつ委員を選んだ。
  • 1908年(明治41年)8月30日:御用材が大連埠頭に到着。
  • 1908年(明治41年)9月2日:地鎮祭。お木曳式。
  • 1908年(明治41年)9月5日:起工
  • 1908年(明治41年)7月6日:起工。
  • 1908年(明治41年)9月:この頃には産土神社として引き渡し方針になっていたらしい
  • 1908年(明治41年)10月6日:竣工。
  • 1908年(明治41年)10月8日:大社教管長代理の権大教正佐々木幸見、大講義川辺昇を随行として分霊を奉じて入港(東京、神戸)。8日上陸。仮奉安所
  • 1909年(明治42年)3月4日:資金調達は難航し、新たに寄付募集許可を受ける。市内だけでなく満鉄沿線付属地も含む
  • 1909年(明治42年)10月9日:午後11時遷座式。仮神殿の御神体と、分霊を共に新築の神殿に奉遷した。
  • 1909年(明治42年)10月10日:午前10時、鎮祭式。民政長官代理、民政署長、皇道会長、在郷軍人団長、新聞社長、大連公会議長など参列。佐々木、松山、川辺、松原、小笠原、瀧山登岐三が奉仕した。以後、秋季例祭日となる。この日時点で松山は少講義となっている。(大連神社創立誌)
  • 1909年(明治42年)10月11日:祝祭。祖霊社(拝殿内)大祭
  • 1909年(明治42年)10月12日:旅順忠霊塔で招魂祭

大社教分院の分離と大連神社への改組

境内分割に関するとみられる図面(大連神社創立誌)
  • 1909年(明治42年)12月6日:分離問題
  • 1910年(明治43年)4月30日:役員総会。分離を決議
  • 1910年(明治43年)5月17日:建設委員会で分離を決議。土地を大連神社と関東分院に分割を決定。
  • 1910年(明治43年)5月19日:関東分院の神殿を大連連合町内会に譲渡。町内会は氏子総代を選定し引き継ぐ。
  • 1910年(明治43年)5月22日:氏子役員総会。「大連神社」と称すことなどを決議
  • 1910年(明治43年)5月24日:連合町会から社務所に引き継ぎ。
  • 1910年(明治43年)5月28日:春季例祭。神社となって初。県社に準じ、民政署長代理が幣帛共進。大連記念日。
  • 1910年(明治43年)5月28日:前神社局長の水野錬太郎が参拝。
  • 1910年(明治43年)6月22日:大連神社講設立を請願するも許可おりず。
  • 1910年(明治43年)9月12日:民政署から問い合わせ。祭神、沿革、神官資格、規程、講社
  • 1910年(明治43年)9月26日:大連神社維持講、設立願を提出
  • 1910年(明治43年)10月11日:建設委員会解散。
  • 1910年(明治43年)10月13日:大連神社維持講設立認可
  • 1910年(明治43年)10月22日:氏子総代から大連神社創立を関東都督府に届け出る。
  • 1910年(明治43年)11月9日:協約事項の大要を決議
  • 1911年(明治44年)3月12日:土地分割の名義書換を申請。23日許可。
  • 1911年(明治44年)5月26日:神輿が寄進される。春季大祭より御旅所に渡御。
  • 1911年(明治44年)7月29日:「大連神社大社教協約書」を大社教管長と大連神社社司の間で締結。
  • 1911年(明治44年)10月5日:祖霊社を拝殿内から分院事務所に遷座
  • 1911年(明治44年):神饌幣帛料、供進始まる
  • 1915年(大正4年)10月1日:大連市政、開始。民政署より県社格として扱われる。
  • 1915年(大正4年)11月4日:即位式奉祝祭
  • 1915年(大正4年)11月14日:大嘗祭。民政署長、供進使
  • 1916年(大正5年)3月30日:大典記念の神苑造営のため西本願寺関東別院と交渉の上、土地貸下げを申請。6月9日許可。

神社としての体裁整備と昭和造営

西本願寺関東別院と大連神社
昭和造営の社殿(関東局要覧)
昭和造営の社殿(関東局要覧)
  • 1916年(大正5年)4月26日:神社規定を改訂
  • 1916年(大正5年)7月19日:祭神を変更。
  • 1916年(大正5年)10月1日:秋季例祭日を9月10日から10月1日に変更。
  • 1917年(大正6年)3月7日:大連市長石本鏆太郎、神社経営費支出を指令する。
  • 1917年(大正6年)3月14日:維持講廃止。
  • 1917年(大正6年)3月16日:大連神社と「満州分院」の間で土地名義変更、許可。神社境内9234坪。
  • 1917年(大正6年)3月:仮神殿建立地の保存を決める
  • 1917年(大正6年)5月8日:松山珵三、大連神社社司を辞任。水野直蔵が就任。
  • 1919年(大正8年)4月:関東庁設置
  • 1919年(大正8年)5月10日:5月28日から春季例祭日を変更。
  • 1926年(昭和1年)9月26日:閑院宮載仁親王参拝。(大連市史)
  • 1927年(昭和2年)5月30日:社殿建設を出願に認可。(大連市史)
  • 1928年(昭和3年)10月23日:高松宮参拝。(大連市史)
  • 1929年(昭和4年)4月8日::高松宮参拝。(大連市史)
  • 1929年(昭和4年)10月5日:起工。(大連市史)
  • 1930年(昭和5年)5月8日:秩父宮参拝。(大連市史)
  • 1930年(昭和5年)11月:伊勢神宮下賜材を拝領(「大連神社と小沢総代」)
  • 1931年(昭和6年)4月26日:地鎮祭。(大連市史)
  • 1932年(昭和7年):満洲国建国。
  • 1933年(昭和8年)4月29日:明治天皇を合祀。
  • 1933年(昭和8年)5月8日:造営(大連市史)
  • 1933年(昭和8年):分院、中央公園に移転。(大連市史)
  • 1933年(昭和8年)10月:満鉄総裁室から明治天皇像を「神威殿」に祀る。
  • 1934年(昭和9年)12月:関東局および関東州庁設置
  • 1934年(昭和9年):水野直蔵が退任して水野久直が就任。
  • 1935年(昭和10年)6月:田中智学参拝。
  • 1935年(昭和10年)9月29日:閑院宮載仁親王、「大連神社」筆を下賜。(「大連神社と小沢総代」)

敗戦と本土遷座

中国風の門
  • 1945年(昭和20年)8月15日:敗戦。ソ連進駐。
  • 1947年(昭和22年)3月3日:ソ連領事館の明け渡し要請を受け、ソ連側と神社側と調印。退去。高砂丸の貴賓室を奉安殿として引揚。バガゼロフ準頭司令官の見送りを受け乗船。(「終戦と大連神社」)
  • 1947年(昭和22年)3月9日:収容所へ(大連神社御鎮座大祭)
  • 1947年(昭和22年)3月11日:乗船(大連神社御鎮座大祭)
  • 1947年(昭和22年)3月14日:本土帰還。筥崎宮に仮奉安。(境内由緒書ほか)
  • 1890年(明治23年)1月31日:水野久直、赤間神宮宮司に就任。
  • 1953年(昭和28年)5月:赤間神宮神苑に小祠を建立し筥崎宮より御神体を奉遷。(境内由緒書)(1955年(昭和30年)10月8日鎮座とも)
  • 1975年(昭和50年)10月1日:伊勢神宮第60回式年遷宮の撤下古殿(佐見長神社)を拝領し、造営(境内由緒書、大連神社御鎮座大祭)
  • 1980年(昭和55年)5月9日:遷座祭。貝島家の寄進により、旧明治天皇像奉安殿を移築して現在の社殿を造営した。奉安殿は昭和のはじめに炭鉱王貝島太市が熱田神宮造営奉賛の功績で撤下御用材を拝受し、明治天皇像を祀る「日の本神社」を建立造営したもの。(境内由緒書、大連神社御鎮座大祭)
  • 2007年(平成19年)10月1月:創立100年式年大祭。大連神社記念資料館設立

資料

  • 松山珵三1917『大連神社誌要』
  • 松山珵三1920『大連神社創立誌』[2](限定送信)
  • 木村鷹太郎1923「大連神社の祭神―大連大伴金村等たれ」『日本民族研究叢書』[3](限定送信)
  • 水野久直1942「大連神社と小澤総代」『小沢太兵衛伝記』[4](限定送信)
  • 水野久直1964「終戦と大連神社」『ああ八月十五日』[5](限定送信)
  • 水野久直・水野詩郎1973『産霊―松山珵三』
  • 水野久直1974『大連神社と満鉄』
  • 水野久直1983『明治天皇御尊像奉遷記』
  • 『大連神社史稿』:未刊。
  • 水野直房2015「大連の記」[6]
  • 大橋冨士子1980「大連神社御鎮座大祭」[7](限定送信)
  • 1987『大連神社八十年史』
  • 新田光子1994「「大連神社」に関するアンケート調査について」『龍谷紀要』13-2
  • 新田光子1997『大連神社史:ある海外神社の社会史』
  • 菅野智博2014「下関大連神社所蔵文献資料概述」『国史研究通訊』6
  • 菅野智博2015「大連神社記念資料館所蔵文献目録」『満洲の記憶』1[8]
  • 大野絢也2015「大連神社調査記」[9]
  • エドワール・レリソン2017「大連の明治天皇御尊像―水野久直の「軌道」から見る大連神社史」『神園』18
  • 『大連名勝写真帖』[10]
  • 『満洲写真帖』[11]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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