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天宥旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
天宥旧跡
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'''天宥'''(1593-1674)は[[羽黒山]]中興。[[真言宗]]僧侶だったが、[[天海]]に接近して[[天台宗]]に改宗。[[出羽・寂光寺]]も真言宗から天台宗に改宗させたが、山内の激しい反発を買い争論となって流罪となった。 == 略歴 == 宥俊の弟子。もと「宥誉」と称した。[[日月寺]]住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。石工が巧みで、手向の六字橋、東照社の手水舎、荒沢の鳥居、須賀の滝を造営。また[[玉川寺]]の庭園を造営したという。1641年(寛永18年)、江戸で天海に謁して、「天宥」と称す。1661年(寛文1年)、宥俊の死去を受けて、執行を兼ねる。[[出羽三山]]全山を羽黒山の支配下に置こうとするが、[[湯殿山]]の抵抗にあって実現しなかった。1668年(寛文8年)4月、[[伊豆大島]]に遠島となるが、実際には[[伊豆新島]]に流された。同地で死去。以後、三山執行別当には、[[寛永寺]]の高僧が兼任するようになり、羽黒山の独立性は弱まった。宝前院と号す。 == 一覧 == *[[天宥墓]] [[category:人物旧跡]]
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