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天理教高安大教会
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[天理教]]教祖[[中山みき]]が直接布教した地。中山みきが明示した「'''打ち分け場所'''」の一つ。明治15年(1882)、河内国教興寺村の松村栄治郎の妻さくを見舞う。松村家は中山みきの親戚。栄治郎邸には大勢の人が集まったため、警察官が来て、閉門させた。中山みきは「ここは詣り場所、打ち分け場所になる」と語り、栄治郎の子の吉太郎が明治22年(1889)、この地に高安分教会(現・高安大教会)を建てた。 | [[天理教]]教祖[[中山みき]]が直接布教した地。中山みきが明示した「'''打ち分け場所'''」の一つ。明治15年(1882)、河内国教興寺村の松村栄治郎の妻さくを見舞う。松村家は中山みきの親戚。栄治郎邸には大勢の人が集まったため、警察官が来て、閉門させた。中山みきは「ここは詣り場所、打ち分け場所になる」と語り、栄治郎の子の吉太郎が明治22年(1889)、この地に高安分教会(現・高安大教会)を建てた。 | ||
+ | 大阪府八尾市教興寺 河内国高安郡教興寺村 |
2014年8月5日 (火) 時点における版
天理教教祖中山みきが直接布教した地。中山みきが明示した「打ち分け場所」の一つ。明治15年(1882)、河内国教興寺村の松村栄治郎の妻さくを見舞う。松村家は中山みきの親戚。栄治郎邸には大勢の人が集まったため、警察官が来て、閉門させた。中山みきは「ここは詣り場所、打ち分け場所になる」と語り、栄治郎の子の吉太郎が明治22年(1889)、この地に高安分教会(現・高安大教会)を建てた。 大阪府八尾市教興寺 河内国高安郡教興寺村