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天童護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
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戊辰戦争で自刃した天童藩家老の吉田守隆(吉田大八、素道軒、1832-1868)の像を1871年(明治4年)3月に祀ったのが起源(『靖国神社誌』、境内由緒書)。
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*1868年(明治1年)閏4月:天童藩は官軍の奥羽鎮撫使先導を命じられ、吉田守隆は藩主代理として軍を率いるが、天童の戦いで敗退。
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天童藩は官軍の奥羽鎮撫使先導を命じられ、守隆は藩主代理として軍を率いるが、閏4月の天童の戦いで敗退。
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*1868年(明治1年)6月18日:追い込まれた天童藩は佐幕派に転じ、この日吉田守隆は自刃した。
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追い込まれた天童藩は佐幕派に転じ、6月18日、守隆は自刃した。
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*1871年(明治4年)3月:高橋伝兵衛、武田留兵衛ら有志が、戊辰戦争で自刃した天童藩家老の吉田守隆(吉田大八、素道軒、1832-1868)の像を祭り、素道軒祠と称す。毎年4月・8月の18日を例祭日とする。(『山形県通覧』、『靖国神社誌』、境内由緒書、『明治七年山形県史』[https://dl.ndl.go.jp/pid/3004933/1/42])
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*1875年(明治8年):官祭となり、4月18日が例祭となる(山形県通覧)。1916『山形県案内』には「明治九年以来官祭」とされる。
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1877年、戊辰戦争戦死者13人を合祀し、招魂社と改称した(『日本歴史地名大系』)。『靖国神社誌』にも祭神14柱とある。「明治九年以来官祭」(1916『山形県案内』)などとされるが、明治8年の招魂社への官費支給開始を受けてその対象に認定されたのが明治9年であり、明治34年の官祭招魂社制度の成立と共に官祭招魂社になったのだと思われる。
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*1876年(明治9年)10月:13人を合祀。(山形県通覧。『日本歴史地名大系』では1877年(明治10年))
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*1882年(明治15年)3月:例祭日を変更(山形県通覧)。
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1918年に日清戦争・日露戦争の戦死者を、1932年満州事変戦死者を合祀した(『日本歴史地名大系』)。
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*1918年(大正7年):日清戦争・日露戦争の戦死者を合祀(『日本歴史地名大系』)。
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*1932年(昭和7年):満洲事変戦死者を合祀(『日本歴史地名大系』)。
==資料==
==資料==

2023年7月9日 (日) 時点における版

天童護国神社は山形県天童市天童の舞鶴山の麓にある招魂社官祭招魂社。指定外護国神社。天童・建勲神社に隣接。素道軒祠素道軒守隆祠天童招魂社舞鶴宮とも。

歴史

  • 1868年(明治1年)閏4月:天童藩は官軍の奥羽鎮撫使先導を命じられ、吉田守隆は藩主代理として軍を率いるが、天童の戦いで敗退。
  • 1868年(明治1年)6月18日:追い込まれた天童藩は佐幕派に転じ、この日吉田守隆は自刃した。
  • 1871年(明治4年)3月:高橋伝兵衛、武田留兵衛ら有志が、戊辰戦争で自刃した天童藩家老の吉田守隆(吉田大八、素道軒、1832-1868)の像を祭り、素道軒祠と称す。毎年4月・8月の18日を例祭日とする。(『山形県通覧』、『靖国神社誌』、境内由緒書、『明治七年山形県史』[1]
  • 1875年(明治8年):官祭となり、4月18日が例祭となる(山形県通覧)。1916『山形県案内』には「明治九年以来官祭」とされる。
  • 1876年(明治9年)10月:13人を合祀。(山形県通覧。『日本歴史地名大系』では1877年(明治10年))
  • 1882年(明治15年)3月:例祭日を変更(山形県通覧)。
  • 1918年(大正7年):日清戦争・日露戦争の戦死者を合祀(『日本歴史地名大系』)。
  • 1932年(昭和7年):満洲事変戦死者を合祀(『日本歴史地名大系』)。

資料

古写真[2]

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A9%E7%AB%A5%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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