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妙源寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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妙源寺(みょうげんじ)は、愛知県岡崎市大和町(三河国碧海郡)にある太子信仰浄土真宗寺院。本尊は阿弥陀如来親鸞が説法し、三河国の真宗の発祥地となった柳堂の伝承地の一つ。親鸞門下の念信房蓮慶が創建したという。高田門徒の三河での拠点で、現在も真宗高田派。柳堂の名を継ぐ境内の太子堂は1314年の棟札が残り、聖徳太子孝養像を祀る。 徳川家との関係が深く譜代の安藤家など重臣らの墓がある。 華基院。山号は桑子山、平田山。桑子妙源寺和田門徒河野門徒も参照。

歴史

寺伝によると蓮慶は俗名を安藤信平といい、桑子城主であった。明法寺を開き和田門徒開祖となった円善(安藤綱房)の子で、勝鬘寺を開いた信願房了海の弟という。周辺には安藤家創始とする真宗寺院が多いが、内容はまちまちである。彼らは松平広忠に仕えて戦死した安藤家重の祖先とみなされている。家重の子孫は徳川家の譜代の重臣として田辺藩主、磐城平藩主などを務めた。


桑子城には安藤家が河内国から三河に下った時に伝来した聖徳太子を祀る太子堂があり、柳堂ともいった。 嘉禎元年(1235)、信平はこの柳堂に帰洛途中の親鸞を招いて説法を聞き帰依。正嘉2年(1258)、城地を割いて境内とし、明眼寺を創建した。 あるいは真仏、顕智、専海らの弟子ともいう。子院12坊と30寺あまりの末寺を擁したが、1336年の北畠軍の兵火で焼失したという。

1512年頃から1582年頃まで専修寺の継承を巡って真智の支持派と応真・堯慧の支持派に分裂した時は満性寺聖眼寺と共に真智に付いた。 真智側は敗れた。

妙源寺文書に残る1336年から1578年までの土地寄進者名には後に松平家・徳川家の有力家臣となる者50人の名前があり、 松平家との密接な関係の中で寺院が支えられてきたことが分かる。 1563年の一向一揆の際は徳川家康軍に付き、三河・上宮寺と対峙した。

当初は黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来像が祀られていたが、この像の加護を得た家康の所望で、増上寺に遷座。代わりに徳川家伝来の別光三尊仏を与えられると共に妙源寺と改称した。 1603年、朱印地30石を寄進された。1615年、徳川家康像が寄進される。1617年、勅願所。本多忠豊、本多忠高、安藤直次、平岩親吉らの墓がある。 (『日本歴史地名大系』ほか)

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