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宇治・万福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月29日 (金)
万福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある臨済宗の本山寺院。本尊は釈迦如来。黄檗宗大本山。隠元隆琦が創建。徳川家綱を開基とする。中国風(明朝風)の伽藍を特色とする。山号は黄檗山。寺名は、開山の隠元隆琦が母国で住職を務めていた中国福建省の黄檗山万福寺にちなむ。専門道場が設置されている(黄檗山禅堂)。(参考:同名寺院万福寺)
目次 |
伽藍
- 大雄宝殿
- 法堂
- 天王殿
- 舎利殿:
- 伽藍堂
- 開山堂
- 威徳殿:
- 松陰堂
- 看門寮
- 亀趺
- 斎堂
- 三門
- 慈光堂
- 寿塔
- 潜修禅
- 禅堂
- 祖師堂
- 東方丈
- 売茶堂
- 八幡宮
- 明恵記念碑
- 有声軒
- 龍目井
- 聯燈堂
- 京都華僑墓地
明恵記念碑 |
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塔頭
- 松隠堂:隠元隆琦の塔所。
- 天真院
- 寿光院
- 万松院
- 東林院
- 宝善院
- 緑樹院
- 聖林院
- 獅子林院
- 華蔵院
- 〓光院
- 龍興院
- 慈福院
- 法林院
- 宝蔵院:鉄眼ゆかりの塔頭。
- 別峰院
- 万寿院
- 紫雲院
- 長松院
組織
住職
堂頭、住持とも称す。
- 1隠元隆琦(1592-1673)<1661->:
- 2木庵性〓(1611-1684)<1664->:来日僧。福建省出身。隠元隆琦の弟子。1655年(明暦1年)来日して長崎福済寺に住す。1664年(寛文4年)万福寺2世となる。将軍徳川家綱の帰依を得る。瑞聖寺を創建。「木菴性〓」。〓は「瑫」。
- 3慧林性機(1609-1681)<1680->:来日僧。福建省出身。1654年(承応3年)46歳で師の隠元に従い来日。摂津仏日寺に住す。1680年(延宝8年)万福寺3世となる。
- 4独湛性瑩(1628-1706)<1682->:来日僧。1654年(承応3年)46歳で師の隠元に従い来日。遠江・宝林寺、上野国瑞寺を創建。1682年(天和2年)万福寺4世となる。浄土教にも傾倒。
- 5高泉性〓(1633-1695)<1692->:来日僧。福建省出身。隠元門下の慧門如沛の弟子。1661年(寛文1年)、隠元に招かれ来日。山城仏国寺を創建。1692年(元禄5年)万福寺5世となる。後水尾上皇に十牛頌を献上、将軍徳川綱吉に説法したという。〓は「潡」。
- 6千呆性侒(1636-1705)<1696->:来日僧。福建省出身。師の即非如一と共に1657年(明暦3年)来日。長崎・崇福寺に住す。1696年(元禄9年)万福寺6世となる。
- 7悦山道宗(1629-1709)<1705->:来日僧。福建省出身。1657年(明暦3年)来日。隠元、木庵に学ぶ。1705年(宝永2年)万福寺7世となる。
- 8悦峰道章(1655-1734)<1707->:来日僧。浙江省出身。1686年(貞享3年)来日。1694年(元禄7年)独湛性瑩の法を継ぐ。1707年(宝永4年)万福寺8世となる。柳沢吉保に招かれ甲斐永慶寺を創建。
- 9霊源海脈(1651-1717)<1716-1717>:自坊は長崎崇福寺。
- 10旭如蓮昉(1664-1719)<1717-1719>:
- 11独文方炳(1656-1725)<1719-1723>:
- 12杲堂元昶(1663-1731?)<1723-1731?>:1733没?
- 13竺庵浄印(1696-1756)<1734-1739>:来日僧。浙江省出身。杲堂元昶の招きで来日。興福寺住職を経て1734年(享保19年)万福寺13世。1739年(元文4年)海宝寺に隠退。
- 14龍統元棟(1663-1746)<1739-1742>:初の日本人住職。大坂出身。慧極道明の弟子。
- 15大鵬正鯤(1691-1774)<1745-1748>:来日僧。福建省出身。1722年(享保7年)来日。全巌広昌の弟子。1745年(延享2年)万福寺15世に就任、1758年(宝暦8年)に再任。
- 16百癡元拙(1683-1753)<1748-1753>:「百痴元拙」。
- 17祖眼元明(1673-1757)<1754-1757>:
- 18大鵬正鯤(1691-1774)<1758-1765>:再任。
- 19仙巌元嵩(1684-1763)<1763-1763>:近江出身。梅嶺道雪の弟子。仙台藩主伊達宗村に招かれ、万年寺を創建。1763年(宝暦13年)3月27日、万福寺19世。晋山式を行う前に8月28日死去。
- 20伯珣照浩(1695-1776)<1765-1775>:「伯珣照皓」。
- 21大成照漢(1709-1784)<1775-1784>:最後の中国人住職。
- 22格宗浄超(1711-1790)<1785-1790>:
- 23蒲庵浄英(1722-1796)<1792-1796>:
- 24石窓衍劫(1724-1799)<1797-1799>:
- 25華頂文秀(1740-1827)<1800-1809>:
- 26妙庵普最(1745-1821)<1809-1821>:「妙菴普最」。
- 27金猊浄踞(1759-1826)<1822-1826>:
- 28梅嶽真白(1766-1829)<1827-1829>:「梅岳真白」。
- 29璞巌衍曜(1767-1836)<1831-1836>:黄河浄清の弟子。河内長楽寺住職、長崎聖福寺監寺を経て1831年(天保2年)、万福寺29世。「璞岩衍曜」。
- 30独旨真明(1776-1840)<1837-1840>:
- 31若存通用(1776-1850)<1841-1846>:
- 32楚洲如宝(1791-1850)<1846-1850>:
- 33良忠如隆(1793-1868)<1851-1858?>:
- 34瑞雲悟芳(1798-1869)<1857-1869>:
- 35独唱真機(1815-1889)<1870-1872>:花岩真機。
- 36金獅広威(1823-1878)<1872-1877>:津呂金獅。江戸出身。松洞仁翠の弟子。興国寺、仏国寺を歴住して1872年(明治5年)万福寺36世となる。
- 37万丈悟光(1815-1902)<1877-1880>:光万丈。豊前出身。荒瀬。鶴洲達峰、良忠如隆に学ぶ。1877年(明治10年)万福寺37世。
- 38道永通昌(1836-1911)<1880-1883>:林道永。伊勢出身。林。良忠如隆、実聞真聴、万丈悟光に学ぶ。天聖院住職を経て1880年(明治13年)万福寺38世となる。
- 39霖龍如沢(1805-1883)<1883-1883>:山野如沢。
- 40観輪行乗(1826-1896)<1884-1896>:多々羅観輪。仙台出身。板垣。良忠如隆の弟子。1884年(明治17年)万福寺40世。
- 41虎林嘩嘯(1835-1902)<1900-1902>:吉井虎林。自坊は万福寺瑞光院。瑞光派。懶翁文常の法嗣。肥前国小城郡出身。1835年生。1902年10月15日死去。
- 42蓬山真仙(1820-1904)<1903-1904>:佐伯蓬山。万寿派宝蔵下。
- 43紫石聯珠(1842-1914)<1906-1911?>:鷲峰紫石。
- 44柏樹嘩森(1837-1925)<1911-1916>:高津柏樹。自坊は大阪瑞龍寺。瑞光派。月桂通中、独唱真機の法嗣。豊前小倉藩士青柳彦十郎の次男。1837年生。1869年、万福寺の紀綱改革に参加。豊前養徳院住職。1872年、黄檗宗宗務代理。1873年、神奈川県小教院長。1879年、訓盲院の創設に尽力。1911年6月11日、管長。1916年12月5日退任。1925年9月1日死去。室号は銘々室。
- 45英巌通璋(1842-1926)<1916-1918>:龍岡英巌。
- 46大雄弘法(1849-1929)<1918-?>:隆琦大雄。
- 47直翁広質(1867-1937)<1925-1932>:星野直翁。
- 48義道弘貫(1875-1948)<1932-1939>:関義道。自坊は奈良発志院。万寿派吸江下。道永通昌の法嗣。奈良県北葛城郡出身。1875年生。1932年11月管長。1948年7月28日死去。室号は臥龍室。
- 49玉田真璞(1871-1961)<1939-1946>:山田玉田。宗務総長。獅子林派真光下。道永通昌の法嗣。愛知県蟹江町出身。1971年生。三重県の観音寺、智福寺に住す。師家として多くの弟子を育てた。1939年12月、万福寺住職就任。1946年10月、退任。1961年4月15日死去。室号は深省室。
- 50徳寧正悌(1878-1948)<1946-1948>:近藤徳寧。自坊は神奈川瑞応寺。万寿派長松下。梅芳香の法嗣。神奈川県湯河原町出身。1878年生。1946年10月、管長。1948年10月13日死去。室号は有隣軒。
- 51不説仁説(1891-1962)<1948-1956>:寺岡不説。自坊は兵庫正法寺。宗務総長。万寿派別峰下。英巌通璋の法嗣。兵庫県飾磨郡出身。1891年生。1948年12月から1956年まで管長。1962年1月3日死去。室号は無字室。
- 52道元仁明(1877-1966)<1956-1963>:渓道元。万松派。密道仁超の法嗣。京都府宮津市出身。1877年生。青年時代に中国やインドの仏跡を巡礼。佐賀普明寺、滋賀正明寺、万福寺朝鮮別院覚心寺、万福寺万松院などに住す。1956年から1963年まで管長。1966年12月30日、死去。
- 53冝豊永昌(1880-1963)<1963-1964>:木村冝豊。三鷹禅林寺中興。瑞光下。俊道雄の法嗣。大阪市出身。1880年生。1935年嗣法。1963年5月、管長。1964年2月28日、在職で死去。
- 54弘道弘久(1887-1967)<1964-1967>:中村弘道。宗務総長。万寿派宝蔵下。三重県亀山市出身。1887年生。大阪東大寺などや万福寺宝蔵院や万福寺万寿院を歴任。1945年、滋賀県大津市に孤児のための湘南学園を開設。1964年10月、管長。1967年2月6日、在職中に死去。
- 55慈光通照(1898-1973)<1967-1973>:加藤慈光。獅子林派。玉田真璞の法嗣。三重県四日市市出身。1898年生。三重県の地蔵寺、観音寺、万福寺真光院の住職を歴任。1921年嗣法。1967年、管長。在職中の1973年1月25日死去。室号は長寧庵。
- 56禅梁智棟(1897-1984)<1973-1980>:安部禅梁。万松派。玉田真璞の法嗣。滋賀県彦根市出身。1897年生。滋賀県の正明寺、禅林寺、慈恩寺の住職を歴任。1973年4月1日から1980年まで管長。1984年1月3日死去。室号は龍王窟。
- 57玄妙広輝(1913-1988)<1980-1987>:村瀬玄妙。自坊は万福寺緑樹院。万寿派緑樹下。玉田真璞の法嗣。長野県北佐久郡出身。1913年1月17日生。普賢寺で得度。1937年、禅門高等学院卒。1971年、青少年文化研修道場を開設。1980年から1987年まで管長。1988年2月13日死去。室号は金剛軒、棲賢室。
- 58行朗仁伝(1911-1999)<1987-1994>:奥田行朗。自坊は東京弘福寺。万寿派長松下。東京出身。1911年生。1987年4月1日から1994年まで管長。1999年2月4日死去。
- 59文照興質(1922-2006)<1994-2001>:林文照。自坊は北九州円通寺。広寿派瑞光下。皓滋智温の法嗣。福岡県企救郡出身。1922年生。1931年得度。1946年駒沢大学卒。1994年4月1日から2001年3月31日まで管長。2006年4月23日死去。室号は大象室。
- 60泰山智深(1929-2021)<2001-2008>:仙石泰山。万寿派。玄妙広輝の法嗣。大分県出身。1929年10月6日生。大分県観音寺で得度。1948年、掛塔。鳥取道寧寺住職。万福寺万寿院住職。1987年、黄檗山禅堂師家。2001年4月1日、管長。全日本煎茶道連盟会長。退任後、福岡県宝福寺住職。2021年2月26日死去。91歳。室号は蒼龍軒。
- 61亘令興宗(1941-2014)<2008-2014>:岡田亘令。瑞光派。玄妙広輝の法嗣。福岡県出身。1941年生。万福寺瑞光院住職。2008年4月管長。2014年12月26日、在職で死去。73歳。室号は九皐庵。
- 62博道正明()<2015->:近藤博道。駒沢大学卒。教学部長、宗会議長、禅堂師家を歴任。万福寺万寿院住職。2015年3月25日管長。10月27日、晋山式。
- 44世までの人名は『日本仏教人名辞書』
- 経歴は永明寺ウェブサイト「黄檗宗僧侶名鑑」[1]など。
執事長
宗務総長が兼任。監寺とも呼ばれる。
師家
黄檗山禅堂師家。1663年(寛文3年)開単。
- 玉田真璞(1871-1961)<>:山田玉田。万福寺49世。
- 鈴木晧慈(1896-1972)<1946->:自坊は伏見仏国寺。玉田真璞の法嗣。朝鮮慶尚南道昌原郡の出身。1896年生。俗名は金鼎堂。聖住寺で得度。
- 鈴木晧慈(1896-1972)<1962->:
- 和田文承()<>:室号は玄芳室。
- 東策明全(1914-)<1976-1980>:戸並東策。自坊は滋賀松尾寺。安部禅梁の法嗣。愛知県出身。1914年生。飛騨禅昌寺で得度。円福僧堂、平林僧堂、黄檗山禅堂に掛塔。1976年、黄檗山禅堂師家。1980年、引退して滋賀松尾寺住職。室号は獅子窟。
- 泰山智深(1929-)<1987->:仙石泰山。万福寺60世。
- 松本普成(1938-)<1999-2001>:梶浦逸外の法嗣。長崎霊源院住職。1999年、黄檗山禅堂師家。2001年、霊源僧堂を開単し、師家となる。室号は玄関窟。
- 亘令興宗(1941-2014)<>:岡田亘令。万福寺61世。
- 博道正明()<2010->:近藤博道。万福寺62世。2010年4月師家。室号は蘭若室。