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安土城

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''安土城'''は滋賀県近江八幡市安土町(近江国蒲生郡)にあった[[織田信長]]の城。
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'''安土城'''は滋賀県近江八幡市安土町(近江国蒲生郡)にあった[[織田信長]]の城。標高199mの安土山にある。
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標高199mの安土山にある。1576年(天正4年)1月17日造営。丹羽長秀を奉行として建設させた。
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==歴史==
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総見寺も同時に建てられたとされる。
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*1576年(天正4年)1月17日:造営。丹羽長秀を奉行として建設させた。総見寺も同時に建てられたとされる。琵琶湖の内湖で北東西の三方を囲まれていた。
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戦後直後までは琵琶湖の内湖で北東西の三方を囲まれていた。
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*1579年(天正7年)5月:天主閣が竣工。
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1579年(天正7年)5月、天主閣が竣工。
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*1582年(天正10年)6月2日:本能寺の変で織田信長自刃。
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1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で織田信長自刃。
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*同年6月15日:安土城焼失。火災の原因は明らかでない。総見寺は焼け残る。
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同年6月15日、安土城焼失。火災の原因は明らかでない。総見寺は焼け残る。
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*1583年(天正11年)1月:伝承によれば豊臣秀吉が織田秀信に年賀のため訪れ、2月に二の丸跡に信長の太刀・烏帽子・直垂などを埋葬。6月1日に盛大に一周忌を行ったという。
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1583年(天正11年)1月、伝承によれば豊臣秀吉が織田秀信に年賀のため訪れ、2月に二の丸跡に信長の太刀・烏帽子・直垂などを埋葬。6月1日に盛大に一周忌を行ったという。
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*1585年(天正13年):廃城。
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1585年(天正13年)廃城
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*1842年(天保13年)4月8日:「護国駄都塔」建立。
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1854年(安政1年)11月16日、総見寺火災で三重塔と仁王門を残して焼失。
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*1854年(安政1年)11月16日:総見寺火災で三重塔と仁王門を残して焼失。
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1932年(昭和7年)、総見寺仮本堂を徳川家康邸跡に建立。
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*1926年(昭和1年):史跡。
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1926年(昭和1年)史跡。
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*1932年(昭和7年):総見寺仮本堂を徳川家康邸跡に建立。
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1941年(昭和16年)天主と本丸の発掘調査・整備。
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*1940年(昭和15年):天主の発掘調査
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1952年(昭和27年)特別史跡。
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*1941年(昭和16年):本丸の発掘調査。
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1960年(昭和35年)から1975年(昭和50年)まで石垣整備。
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*1952年(昭和27年):特別史跡。
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1983年(昭和58年)400回忌で南面の整備。
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*1960年(昭和35年)から1975年(昭和50年)まで石垣整備。
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*1983年(昭和58年):400回忌で南面の整備。
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*1999年(平成11年):本丸発掘調査
== 城内 ==
== 城内 ==
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狩野永徳による障壁画で飾られていた。
狩野永徳による障壁画で飾られていた。
28m四方の平地が残る。礎石が整然と並ぶ。
28m四方の平地が残る。礎石が整然と並ぶ。
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1940年(昭和15年)に発掘調査。
===本丸御殿===
===本丸御殿===
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天皇を迎え入れるために建てられたと記録される。
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千畳敷と呼ばれる東西50m・南北34mの区画がある。1941年(昭和16年)と1999年(平成11年)の発掘調査により東西34m、南北24mに119個の礎石が並び、中庭を挟んで3棟の建物からなることが判明。[[清涼殿]]に酷似した構造になっていたことが判明した。織田信長は天皇の安土城行幸を計画していた。『信長公記』によれば安土城天主の近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、その中に「皇居の間」があったという。本丸御殿がこれに該当すると考えられている。
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調査では清涼殿に酷似した構造になっていたことが判明した。
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===織田信長墓===
===織田信長墓===

2021年5月22日 (土) 時点における版

安土城は滋賀県近江八幡市安土町(近江国蒲生郡)にあった織田信長の城。標高199mの安土山にある。

目次

歴史

  • 1576年(天正4年)1月17日:造営。丹羽長秀を奉行として建設させた。総見寺も同時に建てられたとされる。琵琶湖の内湖で北東西の三方を囲まれていた。
  • 1579年(天正7年)5月:天主閣が竣工。
  • 1582年(天正10年)6月2日:本能寺の変で織田信長自刃。
  • 同年6月15日:安土城焼失。火災の原因は明らかでない。総見寺は焼け残る。
  • 1583年(天正11年)1月:伝承によれば豊臣秀吉が織田秀信に年賀のため訪れ、2月に二の丸跡に信長の太刀・烏帽子・直垂などを埋葬。6月1日に盛大に一周忌を行ったという。
  • 1585年(天正13年):廃城。
  • 1842年(天保13年)4月8日:「護国駄都塔」建立。
  • 1854年(安政1年)11月16日:総見寺火災で三重塔と仁王門を残して焼失。
  • 1926年(昭和1年):史跡。
  • 1932年(昭和7年):総見寺仮本堂を徳川家康邸跡に建立。
  • 1940年(昭和15年):天主の発掘調査
  • 1941年(昭和16年):本丸の発掘調査。
  • 1952年(昭和27年):特別史跡。
  • 1960年(昭和35年)から1975年(昭和50年)まで石垣整備。
  • 1983年(昭和58年):400回忌で南面の整備。
  • 1999年(平成11年):本丸発掘調査

城内

天主閣

地上6階、地下1階の高さ33mの天主閣があったとされる。中には宝塔があった。 狩野永徳による障壁画で飾られていた。 28m四方の平地が残る。礎石が整然と並ぶ。

1940年(昭和15年)に発掘調査。

本丸御殿

千畳敷と呼ばれる東西50m・南北34mの区画がある。1941年(昭和16年)と1999年(平成11年)の発掘調査により東西34m、南北24mに119個の礎石が並び、中庭を挟んで3棟の建物からなることが判明。清涼殿に酷似した構造になっていたことが判明した。織田信長は天皇の安土城行幸を計画していた。『信長公記』によれば安土城天主の近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、その中に「皇居の間」があったという。本丸御殿がこれに該当すると考えられている。


織田信長墓

二の丸跡 織田信長墓_安土城伝承地

織田信雄家墓地

長谷川秀一邸跡

  • 織田信雄:宇陀松山藩1代
  • 織田高長:宇陀松山藩2代
  • 織田長頼:宇陀松山藩3代
  • 織田信武:宇陀松山藩4代

旧総見寺

近江・総見寺

現総見寺

徳川家康邸跡

城下町など

周辺

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E」より作成

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