ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

宝国寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年1月25日 (土)

移動: 案内, 検索

宝国寺(ほうこくじ)は京都下京にあった日蓮宗寺院。洛中法華二十一寺の一つ。廃絶。跡地不詳。現在の西本願寺境内北部あたりか。六条門流本圀寺持珠院が寺名を継いだともいう。

歴史

かつての本圀寺南門のあたりにあった(『日蓮宗事典』)とも本圀寺の北にあったともいう。山城国内の本圀寺の末寺頭だったという(『日蓮宗事典』)。 「日善」という僧侶が創建したとされるが諸説ある。『日蓮宗事典』によれば、日善は本圀寺5世日伝(1342-1409)の弟子で、1400年(応永7年)~1401年(応永8年)頃に創建という。しかし、日善を日朗門下の日善(1263-1332、常陸大法寺開山、碑文谷2世)とする資料のほうが多く、1322年(元亨2年)に京都に来て、兄弟弟子の妙顕寺日像(1269-1342)を助けて京都弘通に尽力し、信者から寄進されて宝国寺を創建したという。(『日本仏家人名辞書』など)。

1536年(天文5年)の天文法難の後には本圀寺に併合されたか。本圀寺子院の持珠院が宝国寺の名を継いでいるようだ(政教中正論)。 持珠院は愛媛県西宇和郡伊方町三机乙に移転。

組織

歴代

  • 日善(1263-1332)<>:大法阿闍梨。平氏。北条義澄の孫。1263年(弘長3年)生。日朗に学び、若くして常陸大法寺を創建。のち碑文谷・法華寺2世となる。日朗の死を機に碑文谷の実成寺を建てた。1322年(元亨2年)、京都妙顕寺に赴く。関西の日蓮の旧跡を巡るが、信者が宝国寺を建てたため止むを得ず滞在。のち碑文谷に帰り1332年(元弘2年/正慶1年)死去。本圀寺勧持院の開山とも。(身延4世の大宝阿闍梨日善とは別人)。(日本仏家人名辞書)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AE%9D%E5%9B%BD%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール