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宮中三殿

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年6月9日 (水)

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宮中三殿
きゅうちゅう さんでん

明治天皇大喪E0604.jpg

概要 近代天皇祭祀の中枢となる神殿。賢所、皇霊殿、神殿から構成されている。
所在地 東京都千代田区千代田
社格など 神殿:式内社
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宮中三殿(きゅうちゅう・さんでん)は、東京都千代田区の皇居にある、宮中祭祀の中心となっている神殿である。天皇のレガリアでもある八咫の鏡を神体として天照大神を祀る賢所(かしこ・どころ)、神祇官神殿を継承する神殿(しんでん)、歴代天皇皇族の霊を祀る皇霊殿(こうれいでん)から構成される。

吹上御苑の東南部にある。敷地は約2200坪。土塀で囲まれている。

中国では、『周礼』に「左祖右社」とあり、左(向かって右)に皇帝の祖先を祀る宗廟、右に土地神と穀物神を祀る社稷壇を設けてきたが、宮中三殿では、左に神殿、右に皇霊殿があり、左右が逆に配置されているとも言える。

社は3殿であるが、神体は、賢所に2座、皇霊殿に2座あるため、御羽車は5基が用意されている。

目次

年譜

  • 1869年(明治2年):東京遷都に伴い、皇居の山里の地に賢所を遷座。
  • 1869年(明治2年)6月:神祇官に神座を設ける。
  • 1869年(明治2年)12月17日:神祇官神殿を建て、八神・天神地祇・歴代天皇を奉斎。
  • 1870年(明治3年)1月3日:鎮祭の詔、大教宣布の詔。
  • 1871年(明治4年)9月:神祇官神殿から歴代天皇を賢所に遷座。
  • 1872年(明治5年)4月2日:神祇省廃止にともない、八神と天神地祇を賢所に遷座。
  • 1872年(明治5年)11月:八神と天神地祇を合わせて祀ることになる。
  • 1873年(明治6年)5月:皇居火災。赤坂仮皇居内に遷座。
  • 1877年(明治10年)1月:歴代天皇だけでなく、歴代皇后や皇族も合祀することになる。
  • 1889年(明治22年)1月9日:現在地に遷座。現在の社殿を造営。
  • 1905年(明治38年):檜皮葺から銅板葺に改める。
  • 1909年(明治42年):皇室祭祀令制定。
  • 大正大礼大嘗祭のため、京都御所春興殿に渡御。
  • 昭和大礼大嘗祭のため、京都御所春興殿に渡御。
  • 1947年(昭和22年)5月2日:日本国憲法施行にともない、皇室祭祀令廃止。ただし新しい規程が制定されるまでは旧法令に準拠して処理すべきとの宮内府長官の「依命通牒」が出される。
  • 1975年(昭和50年)9月4日:『宮内庁法令集』から「依命通牒」を削除。
  • 2006年(平成18年):耐震工事のため、仮殿に遷座。
  • 2008年(平成20年):正遷座。

『宮中五十年』に明治天皇の時代に御常御殿の「上段の間」に「古くよりの皇親の御霊位」を収めた「唐櫃」があり、年に2-3回、「御拝」があったが大正時代に取り止めになり、「御霊位は賢所にお納めになったと伺っている」とある。賢所はおそらく宮中三殿の総称で、皇霊殿に納められたか。

殿舎

宮中三殿(国土地理院空中写真より)
宮中三殿(国土地理院空中写真より)
  • 宮中三殿の位置は、宮殿から宮中三殿と伊勢神宮が一直線となり、かつ天皇が宮中三殿と伊勢神宮に足を向けないように設定されたという。御用邸内の座所の配置も天皇が両方に足を向けないように配慮が行われるという。(中澤伸弘『宮中祭祀』)


  • 賢所:近代には京都御所の春興殿に対して温明殿と呼ばれている(登極令)。御神座のある内内陣、天皇が拝礼する内陣、掌典が拝礼する外陣の3区画に分かれ、奥に行くほど床が高くなっている。内内陣、内陣に入れるのは天皇のほか、内掌典のみで、掌典は入れない。内内陣と内陣の間は御簾と御帳があるのみ。内内陣の御神座近くの天井から御鈴を付けた赤い御紐が垂れている。天皇が拝礼した時、内掌典が御鈴を鳴らす。御鈴の音が響くのは天皇の祈りに神が応じたことを示すという。これは平安時代から続く作法という。「天照大御神の神御」は唐櫃に納められている。唐櫃は現在は2合ある。唐櫃は錦の布で覆われている。天皇の即位と共に錦の布を取り替え、これを「御搦めの儀」という。
  • 神殿:祭神は天神地祇八百万神。社殿は賢所と同じ構造だが、床が賢所より1尺(30.3cm)低く作られている。
  • 皇霊殿:祭神は歴代天皇・后妃・皇族を祀る。1869年(明治2年)6月、神祇官の祭典で皇霊が祀られ、同年12月17日の神祇官神殿の創建と共に皇霊も祀られた。1871年(明治4年)9月、皇霊を神祇官神殿から賢所に遷座。1877年(明治10年)、歴代天皇だけでなく皇后や皇族も合祀。1885年(明治18年)追尊天皇を合祀。「神殿と皇霊殿とは、神殿の方が上位でありますが、御拝礼には御祖先への御敬慕の念から皇霊殿を先になさいます」(『宮中祭祀』)という。
  • 神楽舎:賢所の正面にある。
  • 賢所前庭:
  • 左幄舎:神楽舎の東にある。
  • 右幄舎:神楽舎の西にある。
  • 奏楽舎:左幄舎の北にある。神楽歌を奏する。
  • 御羽車舎:奏楽舎の北に接続。
  • 綾綺殿:賢所・神殿の真裏にある。天皇皇后が着装や手水をするための御殿。また毎年新嘗祭の前日に鎮魂祭を行う。平成大嘗祭の時は「大嘗祭前一日鎮魂の儀」を行った。
  • 御饌殿:皇霊殿の真裏にある。
  • 便殿:
  • 賢所詰所:
  • 内掌典宿所:私的な守護神として「お大黒様」が祀られている。「恵比寿様」も。
  • 左廻廊:
  • 右廻廊:
  • 東宮便殿:皇太子の着装・潔斎のための御殿。


  • 神嘉殿:天皇が新嘗祭を行う御殿。1791年(寛政3年)に復興。1854年(安政1年)焼失で翌年再建。東京遷都後は1872年(明治5年)に皇居の山里に造営したが火災で焼失。しばらく御殿がなかったが、1889年(明治22年)に宮中三殿と共に現在地に設けられた。本殿(母屋)の他、左右に東隔殿・西隔殿があり、南側には南庇がある。南と東は簀子が巡り、東の簀子から廊下を通じて膳舎と接続する。また神嘉殿の廊下は西から北をまわって「御拝廊下」につながる。
  • 神嘉殿前庭:元旦早朝に仮舎を建て天皇が四方拝を行う。大祓もここで行う。
  • 膳舎:神嘉殿に接続。新嘗祭の神饌を調する。
  • 御遥拝所:神嘉殿に接続。
  • 正門:賢所・神楽舎の正面にある。
  • 神嘉門:神嘉殿の正面にある。
  • 北門:
  • 東門:
  • 通用門:
  • 御仮殿:土塀の外、西南にあるらしい。1905年(明治38年)の屋根葺き替えの時に建てられ、以後、使われている。
  • 地下壕御仮殿:御仮殿の近くの地下に設けられた。1944年(昭和19年)11月から1945年(昭和20年)8月まで遷座した。
  • 賢所参集所:正門の外にある。

組織

掌典職を参照。

祭典

  • 毎朝御代拝:毎朝午前8時半に天皇の代わりに侍従が賢所を拝礼する。遅くとも平安時代から天皇が毎朝行っていた石灰壇拝礼を引き継ぐ儀礼。1871年(明治4年)10月29日制定の「四時祭典定則」に小祭として「賢所皇霊日々御代拝、同日供」を定める。のちに小祭からは外れる。侍従はモーニング姿で御所から宮中三殿に向かい、賢所正門から入って庭で拝礼する。1975年(昭和50年)8月31日までは侍従は白の浄衣と烏帽子を着用して馬車に乗って賢所候所に入り行っていた。天皇は侍従の復命があるまで慎んで待つ。
  • 日供:午前6時に開扉。清掃の後、午前8時に内掌典が賢所と皇霊殿に、掌典が神殿に神饌を供える。1871年(明治4年)10月29日制定の「四時祭典定則」に小祭として「賢所皇霊日々御代拝、同日供」を定める。
  • 旬祭:毎月1日、11日、21日に行う。天皇が自ら拝礼する。1872年(明治5年)、毎月1日に旬祭を行うことを制定。それ以前から順徳天皇『禁秘御抄』には賢所の項目に毎月1日には丁重に祀っていたことが記されている。昭和天皇が11日、21日も旬祭とすることを新たに定めた。のち11日、21日は代拝が例となり、高齢になると1日の祭典も代拝が多くなった。平成には再び親拝が基本となったが、高齢になると親拝は1月5月9月に限っていた。春季皇霊祭が3月21日となる場合は先に旬祭を行い、続いて皇霊祭を行った。
  • 賢所御神楽、神武天皇祭、昭和天皇祭には宮内庁楽部の楽人(定員26人)が御神楽を奉納するが、楽人は公務員であるため、休暇を取って奉仕しているという(中澤伸弘『宮中祭祀』)。
  • 大祭には天皇、皇后、皇太子、皇太子妃が出席する。天皇が自ら御告文を読み上げる。御鈴の儀がある。御剣、神璽を伴う。ただし新嘗祭には皇后、皇太子妃は出席しない。
  • 小祭には天皇、皇太子が出席する。御剣が伴う。ただし皇霊殿の祭祀に関しては女性皇族も拝礼する。
  • 12月始めに御所の大掃除に先立ち、宮中三殿の煤払えが行われる。
  • 歴代天皇の式年祭がある時には祭典に先立ち、対象となる天皇の事績に関する進講があるのが慣例という(『平成の終焉』)。
  • 『平成の終焉』で原武史は、宮中祭祀は、平成の天皇の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(2016年7月13日)の中の「国民の安寧と幸せを祈ること」に該当すると分析し、同一視しているが、天皇の宗教的行為全般を視野に入れると、「祈ること」は宮中祭祀だけでなく他の様々な儀礼も入れる必要があると思われる。また宮中祭祀の目的を「国民の安寧と幸せ」だけに限定することは世俗主義的・合理主義的過ぎる解釈にも思える。
現行の名称 戦前の名称 種別 日付 場所 概要
四方拝 四方拝 1月1日 神嘉殿南庭 かつては寅刻(午前4時頃)に行う。現在は午前5時半。神嘉殿南庭に仮設の御拝所を設ける。御拝所は屋根を掛け、屏風2双で囲む。地面には下から薦、白布、真薦、藺薦を敷き、その上に厚畳を置く。燭台2台を立てる。綾綺殿で着装した天皇が御剣を伴って庭に降り、両段再拝する。天皇本人だけが行うことが可能で、代拝はできないという。平安時代の儀式書『西宮記』『北山抄』に記述があり、宇多天皇の頃には行っていたという。陰陽道の色彩が強い儀式。応仁の乱で中絶し、後土御門天皇の1475年(文明7年)には再興した。京都御所の時代には清涼殿東庭で行っていた。東京遷都以降、賢所前庭で行った時もある。(『宮中祭祀』)
歳旦祭 歳旦祭 小祭 1月1日 三殿 四方拝に続いて行われる。明治初年には3日間に続いて行った時期もあり、正月一日御祭典、正月三箇日祭、年頭祭、「一月一日の賢所皇霊殿神殿御祭典」とも呼ばれた。1908年(明治41年)の皇室祭祀令で歳旦祭と名付けられた。(『宮中祭祀』『国史大辞典』)
二日祭 1月2日 三殿
三日祭 1月3日 三殿
元始祭 元始祭 大祭 1月3日 三殿 1872年(明治5年)に始まる。「元始」は『古事記』序文に由来するという。(『宮中祭祀』)
奏事始 奏事始 1月4日 宮殿・鳳凰の間 「鳳凰の間」は宮殿の表御座所にある。モーニング姿の天皇が掌典長から神宮と宮中祭祀の報告を受ける。かつては神宮奏事始として1月11日に行われていた。江戸時代には前日に天皇は潔斎し、当日は石灰壇で神宮を遥拝してから行った。明治初年には賀茂奏事始、氷川奏事始なども行われていた時期がある。1869年(明治2年)、政始が再興され、政治の状況について政府が報告する中で宮内大臣が神宮のことを述べた。1926年(昭和1年)、皇室儀制令で最初に内閣総理大臣が神宮のことについて奏上するように改められ、戦後の政教分離で現在の形となった。(『宮中祭祀』)
先帝祭(昭和天皇祭) 先帝祭 大祭 1月7日 皇霊殿・山陵 先帝の崩御日に行われる。山陵(昭和天皇陵)に勅使が派遣され、御祭文を奏上する。1870年(明治3年)に京都紫宸殿で孝明天皇祭を行ったのが始まり。皇霊殿御神楽が合わせて行われる。(『宮中祭祀』)
皇霊殿御神楽 1月7日 皇霊殿 先帝祭に合わせて、同日夜に行われる。皇族は御神楽が終わるまで慎む。皇霊殿御神楽が崩御日にあるのは先帝祭のみ。(『宮中祭祀』)
先帝前三代例祭(孝明天皇例祭) 先帝以前三代の例祭 小祭 1月30日 皇霊殿・山陵
臨時御拝 紀元節祭 2月11日 三殿 紀元節祭は元は皇霊殿のみの祭祀。1927年(昭和2年)の皇室祭祀令の改正で三殿で行うようになった。ただし、親拝は賢所と皇霊殿のみで、また玉串を供えるのは皇霊殿のみだった。皇霊殿御神楽が行われていた。戦後は廃止されたが、「臨時御拝」として定例の旬祭の後に改めて祭典が行われている(いつ始まったのか要確認)。ただ紀元節祭に伴う皇霊殿御神楽は神武天皇祭の日に移された。(『宮中祭祀』)
祈年祭 祈年祭 小祭 2月17日 三殿 1869年(明治2年)2月、伊勢神宮への勅使派遣を再興し、明治天皇が紫宸殿から遥拝。宮中でも行うこととなり、1872年(明治5年)2月4日に創始。皇霊殿では2月4日、賢所・神殿では2月17日に行われていたが、1914年(大正3年)に2月17日に統一された。(『宮中祭祀』)
春季皇霊祭 春季皇霊祭 大祭 春分 皇霊殿 1870年(明治3年)に歴代天皇の崩御日に正辰祭を行うように定めたが数が多いため、1878年(明治11年)に近四代天皇のみ崩御日に祭典を行うこととし、他の歴代天皇については春秋の皇霊祭にまとめることとなった。同年秋の皇霊祭から始まる。東遊が奉納される。(『宮中祭祀』)
春季神殿祭 春季神殿祭 大祭 春分 神殿 春秋の皇霊祭に合わせて行われる。1878年(明治11年)に創始。(『宮中祭祀』)
神武天皇祭 神武天皇祭 大祭 4月3日 皇霊殿・山陵 太陰暦3月11日を太陽暦に換算。東遊が奉納される。山陵に勅使派遣。1863年(文久3年)に神武天皇陵が現在地に治定され、その翌年の1864年(元治1年)3月11日、徳大寺実則を勅使に派遣すると共に、天皇は清涼殿東庭で遥拝した。1869年(明治2年)3月11日、勅使参向。1870年(明治3年)から神祇官で親祭。(『宮中祭祀』)
皇霊殿御神楽 皇霊殿御神楽 4月3日 皇霊殿 元は2月11日の紀元節祭の夜に行われていたのを1949年(昭和24年)から神武天皇祭の日に移した。(『宮中祭祀』)
香淳皇后例祭 先后ならびに皇妣たる皇后の例祭 小祭 6月16日 皇霊殿・山陵 先后祭は1897年(明治30年)に崩御した英照皇太后の祭祀から始まる(『宮中祭祀』)。「先后」とは先帝の皇后であるが、「皇妣たる皇后」とはおそらく当代の父帝の皇后のことと思われ、父子間以外で皇位継承が行われた場合を想定したものと思われる。例えば父、兄、弟の順で継承した場合、「先后」は兄帝の皇后、「皇妣たる皇后」は父帝の皇后を指すものと思われる。前例はないが、「●●皇后例祭」が二つ設けられることになるのだろう。
節折 節折 6月30日 宮殿・竹の間 午後2時、宮殿竹の間に出御。荒世の祓具を供する。侍従が「御服」と呼ばれる御袍・御袴の長さの絹を柳筥に入れて供する。天皇は息を吹きかけて返す。次に御麻で修祓。次に篠竹9本で身長と手の長さを5回測る。侍従が墨で竹に印を付け、掌典補が竹の印を付けた部分を音を立てて折る。荒世の御壺を供して3度息を吐く。和世の祓具を供して同様の儀礼を行う。(『宮中祭祀』)
大祓 大祓 6月30日 神嘉殿前庭 午後3時、宮内庁職員、皇宮警察が揃ったところに皇族が列席。掌典が大祓詞を奏上し、稲穂を挟んだ御麻で参列者を修祓する。斎場は当初は賢所前庭だったが、1889年(明治22年)から神楽舎となり、1938年(昭和13年)6月から神嘉殿前庭の幄舎となった。節折と大祓の御贖物は掌典補が処分する。1871年(明治4年)から1975年(昭和50年)頃までは浜離宮から海に流していたが、現在は皇居内の濠に沈めている。(『宮中祭祀』)
先帝前三代例祭(明治天皇例祭) 先帝以前三代の例祭 小祭 7月30日 皇霊殿・山陵
秋季皇霊祭 秋季皇霊祭 大祭 秋分 皇霊殿
秋季神殿祭 秋季神殿祭 大祭 秋分 神殿
神嘗祭賢所の儀 神嘗祭賢所の儀 大祭 10月17日 賢所 神嘗祭は伊勢神宮の祭典で元は9月17日。勅使参向。天皇が自ら育成した稲を根付きのまま懸税として伊勢神宮に供える。2株を内玉垣御門寄りの東の玉垣に紙垂を付けて引っ掛けて供える。1647年(正保4年)に日光例幣使の創始と共に再興した。当日に先立ち、勅使発遣の儀が宮殿松の間で行われる。諸社に派遣される勅使があるが、伊勢神宮への勅使にのみ「よく申して奉れ」との天皇の声掛けがある。神嘉殿南庇に四方拝と同様の仮設の御拝所を設置し、天皇が遥拝。続いて賢所に拝礼。賢所の祭儀は1871年(明治4年)に創始。1873年(明治6年)の改暦で1カ月後ろ倒しとなった。(『宮中祭祀』)
(臨時御拝) 明治節祭 11月3日 三殿 1927年(昭和2年)3月に明治節が制定され、同年10月、皇室祭祀令が改正されて明治節祭が定められた。戦後、廃止されたが、1987年(昭和62年)まで「臨時御拝」が行われた(廃止の理由不明)。(『宮中祭祀』)
鎮魂祭 鎮魂祭 11月22日 綾綺殿 新嘗祭の前夜に行われる。『先代旧事本紀』によると神武天皇に服属した宇摩志麻遅命が十種の神宝を献上し、天皇の鎮魂を行ったのが始まりという。中世に途絶。光格天皇の1797年(寛政9年)に復興し、白川家で行う。1869年(明治2年)には神祇官で行い、1872年(明治5年)からは宮内省で行われた。八神と大直日神の祭壇を綾綺殿に設ける。掌典が神饌を供し、楽部が鎮魂歌を奏し、祝詞奏上。警蹕と共に御衣箱と御玉緒の箱が渡御。御衣箱には白衣1疋が入っている。白衣には皇后の御養蚕所で作られた絹が使われる。掌典長が八平手。神楽歌の中、掌典が御玉緒を取り出し、糸結びを10回行う。次に御衣箱を開いて10回、振動させる。また内掌典が鉾で逆さに置いた宇気槽を10回突く作法を行う。終わると御衣箱と御玉緒の箱は入御。続いて、同様に皇后、皇太子、皇太子妃の儀礼が行われる。そして大直日歌、倭舞があり終了する。鎮魂祭で使われた御衣箱の白衣から天皇の祭儀用の御小袖が仕立てられる。(『宮中祭祀』)
新嘗祭 新嘗祭 大祭 11月23日 神嘉殿 11月の下卯または中卯に行う。1873年(明治6年)の改暦で11月23日となる。神嘉殿での儀式の他、三殿でも侍従が代拝する。1463年(寛正4年)以降に廃絶。東山天皇の1688年(元禄1年)に「新嘗御祈」として略式で復興。紫宸殿を斎場とした。桜町天皇の1740年(元文5年)に本格的に再興。1791年(寛政3年)、光格天皇の強い願いで神嘉殿が再興。夕の儀が午後6時から、暁の儀が午後11時から行われる。皇太子は神嘉殿の隔殿に控える。伊勢神宮の方角を向いた天照大神の御神座、八重薦の寝座、天皇の御座が設けられる。御神座を設けた時点で神が降りたとみなす。天皇が出御すると同時に、警蹕・神楽歌と共に采女と内掌典が神饌を膳舎から運ぶ「神饌行立」がある。天皇は多数の供え物を一つ一つ自ら箸で供える。このとき、天皇は神饌の説明をしながら供えていくという。御告文を奏上した後、御直会があり、供えた神饌を天皇が食すという。大嘗祭を行う年には新嘗祭を行わない。(『宮中祭祀』『国史大辞典』)
賢所御神楽 賢所御神楽 小祭 12月中旬 賢所 江戸時代までは臨時の御神楽と呼ばれた。古くから行われ、一条天皇の1002年(長保4年)からは内侍所前庭で行われた。このときは隔年の12月に行われたが、白河天皇の承保年間から毎年12月となった。応仁の乱でも廃絶せず、現在まで行われている。天皇は午後5時に賢所に拝礼。午後6時から楽師が神楽舎に出て翌日午前1時ごろまで神楽を行う。現在は省略されており、かつては夜明けまで続いたという。12月15日が多い。(『宮中祭祀』『象徴天皇「高齢譲位」の真相』)
天長祭 天長節祭 小祭 12月23日 三殿 西欧の君主の誕生日を祝う習慣に模倣して1868年(明治1年)8月に天長節を設定。祭典は1870年(明治3年)から始まった。他の祭典より時刻が早く午前8時過ぎに行われる。関連行事があるため。(『宮中祭祀』)
先帝前三代例祭(大正天皇例祭) 先帝以前三代の例祭 小祭 12月25日 皇霊殿・山陵
節折 節折 12月31日 宮殿・竹の間
大祓 大祓 12月31日 神嘉殿前庭
除夜祭 除夜祭 12月31日 三殿 掌典職だけで行う。(『宮中祭祀』)

装束

  • 黄櫨染御袍:束帯の一種。縫腋袍。紋は桐竹鳳凰麒麟洲浜。冠は明治以降は纓が立ち、立纓冠と呼ぶ。宮中祭祀の他、即位礼正殿の儀、神宮親謁の儀などで用いられる。即位ごとに新天皇と同じ御料の黄櫨染御袍が広隆寺に寄進され、聖徳太子像に着用させる。
  • 御祭服:束帯の一種。黄櫨染御袍より格が上という説もある。新嘗祭に用いる。純白の生絹で織る。通常の束帯と同じ仕立てだが、「足元の蟻先の部分の欄が外に出ずに内部で折りたたむ形の入欄の装束で、束帯の古い形」を残すという。冠は御〓冠(〓は「巾責」)。
  • 帛御装束:御祭服とほぼ同じだが、練絹で織る。大嘗祭や、即位礼正殿の儀当日宮中三殿の奉告に用いる。
  • 引直衣:旬祭や節折や勅使発遣の儀に用いる。白地に小葵の紋。緋色の袴。冠は立纓冠。江戸時代の天皇の日常の服装だった。
  • 小直衣:腋があいた直衣。御金巾子の冠江戸時代の天皇の私的な服装だった。


資料

  • 『宮中儀式略』[1]
  • 『宮中祭祀』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E4%B8%89%E6%AE%BF」より作成

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