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専修寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月4日 (日)

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阿弥陀堂と御影堂
本山専修寺(国土地理院空中写真より)

専修寺(せんじゅじ)は、三重県津市にある浄土真宗本山寺院真宗高田派本山高田門徒の根拠地。専修阿弥陀寺無量寿寺高田本山一身田専修寺。各地に別院がある。(参考:同名寺院専修寺 (同名)阿弥陀寺無量寿寺

目次

歴史

10代真慧(1459-1512)は、北陸や東海に布教。伊勢に拠点として無量寿寺を創建。後土御門天皇から綸旨、上人号公認。12代堯慧のころに本山の地位が確立したらしい。


伽藍

名称 概要
御影堂
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本尊は親鸞。「みえいどう」。親鸞像は木造で高さ30.5cm。「大谷最初の御影」と伝える。親鸞木像で現存最古という。画像「安城の御影」を基に製作された。14世紀頃の作とみられている。ただし現在は別の像が祀られている。堂宇は1645年(正保2年)の焼失後、1666年(寛文6年)に上棟し、1679年(延宝7年)に落慶。入母屋造本瓦葺の純和様の仏堂。間口42.6m。奥行33.4m。正面三間に向拝が付く。畳780枚。中央の大間(だいま)の宮殿に親鸞像を収める。両脇壇と両余間に歴代の御影を奉安する。内陣と外陣を隔てる欄間中央に1909年(明治42年)頃製作の勅額「見真」を掲げる。参道の石畳は18列で無量寿経の18願を示すという。如来堂と接続する通天橋は1800年(寛政12年)上棟・1802年(享和2年)落慶で、全長31.9mで両端は唐破風となっている。
如来堂
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専修寺の本堂。阿弥陀堂。「証拠の如来」と呼ばれる本尊の阿弥陀如来は真慧が延暦寺から受領したものという。快慶作。像高81.5cm。台座高33.0cm。堂宇は入母屋造本瓦葺の唐様の仏堂。間口25.7m。奥行26.6m。裳階が付く。正面三間に向拝が付き、さらに唐破風が付く。五七桐がつく。内陣には渋く黄金に輝く宮殿がある。1741年(寛保1年)の銘がある。扉には菊紋がある。右脇壇に七高僧御影、左脇壇に聖徳太子を掲げる。
御廟
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親鸞の墓。歴代住職の墓もある。拝堂がある。
太子堂
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位牌堂。
仏足石
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食堂
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大講堂
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茶所
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仏間がある。間口18.5m。奥行13.3m。入母屋造本瓦葺。唐破風付き。1760年(宝暦10年)頃の造立とみられている。
山門
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御影堂の正面にある。五間三戸の二重門。間口17.7m。奥行10.1m。背面三間に向拝が付いている。入母屋造本瓦葺。2階に釈迦三尊を祀る。青蓮院門跡尊真法親王筆の「高田山」額が掲げる。
唐門
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如来堂の正面にある。檜皮葺の四脚門。35年かけて1841年(天保12年)に竣工。扉には菊紋がある。正面柱間7.4m。奥行6.5m。
対面所
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1790年(寛政2年)再建。召見殿。1912年(大正1年)檀信徒が法主に謁見する場所だった。15室ある。中央の上々段の間は板張。壁面に大きな松と丹頂鶴を描く。左の上々段の間は仏間で、中央に阿弥陀如来に、向かって右に真慧坐像、左に堯秀坐像を祀る。入母屋造。妻入。唐破風が付く。阿弥陀如来は快慶門下の慶俊が1240年(仁治1年)に造立したもの。像高97.5cm。
納骨堂
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1963年(昭和38年)建立。
第二納骨堂
大玄関
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1790年(寛政2年)再建。1878年(明治11年)移築して東向きから南向きに変更。
書院 賜春館。銅板葺。1878年(明治11年)建築。近代和風建築。6室。60畳。西に浴室と雪隠がある。1880年(明治13年)7月、明治天皇行幸の際の行在所となり、表上の間が玉座に、その北側の間が寝所にあてられた。上座に有栖川宮熾仁親王の書を掲げる。
鐘楼 1652年(承応1年)、堯朝7回忌にあたり正室高松院が鋳造した梵鐘がある。
太鼓門
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長屋門の上に三層の櫓がある。最上階に大太鼓を置く。1712年(正徳2年)から1872年(明治5年)まで町の時報として鳴らされていた。
安楽庵
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道安と織田有楽斎の合作と伝える。江戸時代初期に設けられた茶室。1658年(万治1年)に窪田山に建てられ、のちに専修寺に移築されたとも。
雲幽園
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南北朝時代に作られたとみられる池泉回遊式庭園。如来堂の背後にある。
宗務院
教学院
高田学苑
総合案内所
高田会館
高田会館ホール
宝物館
婦人会館
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高田幼稚園
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明日香坊官屋敷
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御飯講
七里講
開明社
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用度講
有慶堂
翔南館
忠魂碑
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画像

子院

名称 概要
智恵光院
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三ケ院の一つ。西院。宝寿院、智光院とも。8世真淳が学僧として活躍し学頭とされ連枝格となる。龍珠軒真祐が創建。
玉保院
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三ケ院の一つ。親鸞門下の覚信房但念が創建した尊乗坊が起源。7世慧珍が伊勢移転。元亀元年、その長男の慧勝が客殿を建て玉保院と改称、院家、連枝格となる。
慈智院
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三ケ院の一つ。空〓が創建。1639年(寛永16年)本堂再建。
厚源寺
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現存。専修寺の伊勢移転以前からこの地に存在した古刹。もとは真言院寺院で慈覚寺と称した。鎌倉時代の聖徳太子二歳像が伝わることから太子堂が起源という説もある。寛正年間、浄祐が専修寺真慧に帰依して改宗。教光坊と改称した。真慧が1465年(寛正6年)に一身田に御堂を建てるまで滞在したという(津市史[1])。1740年(元文5年)、本山より寺号を授与された[2]。近年まで大念仏(踊り念仏)が伝わっていたという(「伊勢三日市の「おんない」と真宗高田派の大念仏」[3])。2超祐、3玄祐、8慧輪などの歴代の名が知られる。(「厚源寺の人たち」[4]、「厚源寺玄祐申状」[5]
転入寺 現存。慶長年間、性善が創建。1702年(元禄15年)寺号許可(津市史)。専修寺に茶道を伝えた至道の子、施徳庵祖周が住した[6]。寺院としての活動を行っていないという(1989年(平成1年)『一身田寺内町:町並み調査報告書』 )。
隆崇寺
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現存。1613年(慶長18年)、稲垣某、本山役人となり、その子孫の稲垣栄雅が1714年(正徳4年)に得度して栄空と称した[7]。のち隆崇院智通堯山(鷹司房輔の子、堯円の養子)の位牌所と定められ改称した。寺院としての活動を行っていないという(1989年(平成1年)『一身田寺内町:町並み調査報告書』 )。
高松寺
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堯朝の室の高松院梅月秀鏡(藤堂高虎の長女。1660年(万治3年)1月21日死去。52歳)の位牌所。1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。1989年(平成1年)の時点で寺院としての活動を行っていないという(1989年(平成1年)『一身田寺内町:町並み調査報告書』 )が、その後廃絶して「一身田寺内町の館」となった。
献忠寺 1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。
清涼寺 1881年(明治14年)、栄村五祀に移転。錦織寺派から転じた俊識が住した。
光寿寺 1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。
大空寺 愛知県岡崎市鍛埜町下切。1911年(明治44年)3月20日、愛知県に移転。大空院(堯円室、藤堂高次五女)の位牌所とみられる[8]
三宝寺 1574年(天正2年)8月11日、真教が創建。1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。
清光寺 赤門そばにあった。1881年(明治14年)、栄村五祀に移転か。1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。
光信寺 1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。本山、1921年(大正10年)光信寺を改造して三重養老院を設立[9]
妙雲寺 道悦が創建。はじめは慈恩房と称したが4世宗賢の代、1740年(元文5年)11月29日、妙雲寺と改称。1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。
梅渓寺
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1645年(正保2年)3月、斎藤忠知の次男の春智が出家して玄忠と名乗り恵光院を創建。2世法輪坊春山の時、専修寺堯円の長男梅渓院堯光の位牌所と定められ、改称した。1904年(明治37年)10月、福井県福井市宝永上町に移転。専修寺福井別院となる。
常照院 学僧の本定院智幢が住した。典拠はないが、名称から推定するに堯慧室の常照院慈芳(乙部藤政次女、1562年(永禄5年)6月11日死去。31歳)[10]の位牌所か。1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。
成就院 1918年(大正7年)『河芸郡史』に記載あり。
蓮蔵院 1536年(天文5年)頃、慧海が住した。『代々上人聞書』を記した恵教(1597年(慶長2年)死去か[11])が住した。恵翁の名も伝わる。学頭を務めた恵海(慧海、1707-1771)もいた。早くに廃絶したか。
光照坊 早くに廃絶か。

一光三尊仏開扉一覧

親鸞が感得した信濃善光寺本尊と同体の一光三尊仏を、下野専修寺(栃木県真岡市)から伊勢専修寺に迎えて17年目(満16年)ごとに開帳する。『高田開山親鸞聖人正統伝』(1715年(正徳5年))によると、1225年(嘉禄1年)、三谷の草庵を建てた直後の親鸞は4月14日、夢告を得て4月19日に善光寺に参詣。親鸞参詣の前夜、善光寺の僧侶にも「親鸞という僧が来るので一光三尊仏を献上せよ」という夢告があった。親鸞は一光三尊仏を拝受して4月26日、親鸞は三谷の草庵に戻った。翌年4月、如来堂を建立して一光三尊仏を奉安した。専修寺が伊勢に移された後も一光三尊仏は下野で引き続き祀られた。1729年(享保14年)、伊勢専修寺で初めて開帳。以後17年目ごとに開帳することとなった。同年、江戸でも初めて開帳された。1745年(延享2年)、2回目の伊勢開帳と同じ年、京都で初めて開帳され、宮中に迎えられ桜町天皇が拝礼。以後、33年ごとの天皇拝礼が恒例となり、「天拝一光三尊仏」と呼ばれるようになった。桜町天皇は深く帰依し、模刻を造立し、念持仏とした。1750年(寛延3年)に天皇は崩御し、1751年(宝暦1年)3月15日、この模刻は供具と共に専修寺に下賜され、本誓寺(専修寺京都別院)の三尊堂に祀られた。

一光三尊仏開扉一覧
開扉年 周期 事項
1 1729年(享保14年) 1729年(享保14年)閏9月~10月3日、伊勢専修寺で開帳。以後17年目ごとに開帳することとなる。この直前の7月10日には江戸唯念寺でも初開帳。(専修寺史要)
2 1745年(延享2年) 17年目 1745年(延享2年)伊勢専修寺で開帳。京都御所に迎えられ、4月15日~5月15日、京都で初の出開帳。河原町の掛所で。5月17日、桜町天皇が拝礼。勅命で模刻を作成し天皇は念持仏とする。以後33年ごとに「天拝」が恒例となる。模刻仏は天皇の崩御後、専修寺に下賜され、京都掛所に祀られた。(専修寺史要)
3 1761年(宝暦11年) 17年目 同年、周辺寺院で出開帳(日本歴史地名大系)。同年の親鸞聖人五百年大法会に合わせてか。
4 1777年(安永6年)? 1777年(安永6年)京都に迎えられ、3月1日に京都御所で後桃園天皇が、4月15日に仙洞御所で後桜町上皇が拝礼(専修寺史要)。また1777年(安永6年)3月、江戸の唯念寺、称念寺、溜池澄泉寺で7日間ずつ開帳(増訂武江年表)。(短期間に京都と江戸を往復したのか?)
5 1793年(寛政5年)?
6 1809年(文化6年)? 1809年(文化6年)京都に迎えられ、2月29日に御所で光格天皇が拝礼し、翌日、仙洞御所で後桜町上皇が拝礼(専修寺史要)。この時、後桜町上皇、唐金花瓶1基を下賜(同)。1810年(文化7年)3月~4月、江戸で開帳(増訂武江年表)。3月13日~19日に唯念寺で、3月21日~27日に澄泉寺で、4月1日~7日に称念寺で開帳(同)。
7 1826年(文政9年) 実際に開催状況は不明だが事前に幕府が許可した記録によると、1826年(文政9年)2月20日から30日間、越前本流院で、5月1日から30日間、伊勢専修寺で、8月1日から50日間、唯念寺で開帳(『栃木県史』に引く「開帳差免状」による。『増訂武江年表』にも日付不詳だが1826年(文政9年)に唯念寺で開帳したとある)。
8 1842年(天保13年) 1842年(天保13年)3月から1843年(天保14年)まで伊勢専修寺に滞在。1842年(天保13年)3月7日、京都御所に迎えられ、仁孝天皇が拝礼(専修寺史要)。実際に開催状況は不明だが事前に幕府が許可した記録によると、同年4月3日から30日間、越前本流院で開帳。6月5日から50日間、本山専修寺で開帳。1843年(天保14年)3月21日から50日間、江戸唯念寺で開帳。(真宗名所図会に引く開帳免許状による。ただ開帳免許状には京都の開帳の記述はない)
9 1857年(安政4年)? 1859年(安政6年)3月21日から50日間、江戸唯念寺で開帳(増訂武江年表)。
10 1873年(明治6年) 1873年(明治6年)伊勢専修寺で開帳(『しおり』)。<1880年(明治13年)7月10日、明治天皇が伊勢専修寺で拝礼(『一光三尊仏略縁起』、『専修寺史要』では模刻をあげるが、一光三尊仏はあげない)>
11 1886年(明治19年) 14年目 1886年(明治19年)伊勢専修寺で開帳(『しおり』)。1888年(明治21年)7月21日から3週間、下谷の本山出張所で開帳。有栖川宮妃(?)、西本願寺法主、寛永寺僧正、島地黙雷、大州秩念らが参拝したという。(真宗名所図会)
12 1902年(明治35年) 17年目 1902年(明治35年)伊勢専修寺で開帳(『しおり』)。
13 1918年(大正7年) 17年目 1918年(大正7年)伊勢専修寺で開帳(『しおり』)。
14 1934年(昭和9年) 17年目 1934年(昭和9年)伊勢専修寺で開帳(『しおり』)。
15 1950年(昭和25年) 17年目 1950年(昭和25年)伊勢専修寺で開帳(『しおり』)。
16 1966年(昭和41年) 17年目 1966年(昭和41年)伊勢専修寺で開帳(『しおり』)。
17 1982年(昭和57年) 17年目 1982年(昭和57年)伊勢専修寺で開帳(『しおり』)。
18 1998年(平成10年) 17年目 1998年(平成10年)から2000年(平成12年)3月まで伊勢専修寺で滞在。1998年(平成10年)4月1日~5日に開帳。(専修寺ウェブサイト)
19 2014年(平成26年) 17年目 2014年(平成26年)4月2日に輿に奉安され伊勢専修寺にお迎え。4月3日~5日に慶讃法会を行い、11日まで最初の開帳。中開帳は2015年(平成27年)4月3日~5月28日。2016年(平成28年)3月28日~30日に御帰山法会を行い、31日に本山を離れた。直前の3月25日~27日に伝灯奉告法会が営まれた。(専修寺ウェブサイト)
20 2030年(令和12年)? 17年目
21 2046年(令和28年)? 17年目

組織

歴代住職

  • 有栖川宮家近衛家と血縁関係が深い。常磐井男爵家。
  • 4世専空から真岡城主大内家の世襲が始まる。12世堯慧は飛鳥井家、16世堯円は花山院家の出身。17世から20世は皇族。21世常磐井堯熙は近衛家の出身で常磐井男爵家を興す。
世数 院号 生没年 在職年 略歴
1 親鸞 1173-1262 浄土真宗の開祖。
2 真仏 1209-1258 親鸞より早く死去。
3 顕智 1226-1310 出自不詳。伝説的な経歴を伝える。1226年(嘉禄2年)生。最初は比叡山の天台僧で賢順と称した。のち真仏に師事。親鸞にも面授を受ける。霊光院門跡。1310年(延慶3年)、伊勢・如来寺で姿を消した。顕智墓
4 専空 1292-1343 1310-1343 真岡城主大内国行の三男。大内行弘。1292年(正応5年)生。1310年(延慶3年)、住職就任。1343年(興国4年)12月18日死去。
5 定専 1317-1369 1343-1369 専空の次男。1317年(文保1年)生。1343年(興国4年)6月、住職就任。1358年(正平13年)、『自要集』。1369年(正平24年)7月11日死去。53歳。
6 空仏 1314-1380 1369-1380 専空の長男。定専の兄。1314年(正和3年)生。1369年(正平24年)1月、住職就任。1380年(天授6年)4月14日死去。67歳。
7 順証 1331-1390 1380-1390 専空の親族。大内証西の子。1331年(元弘1年)生。1380年(天授6年)4月住職就任。1390年(元中7年)6月16日死去。60歳。
8 定順 1389-1457 1390-1443 順証の子。1389年(元中6年)生。翌年6月、2歳で住職就任。1443年(嘉吉3年)退任。1457年(長禄1年)1月28日死去。69歳。
9 定顕 1416-1465 1443-1465 定順の子。1416年(応永23年)生。1443年(嘉吉3年)4月、住職就任。1793年(寛政5年)5月24日死去。49歳。
10 真慧 1434-1512 1465-1502? 専修寺中興。定顕の子。1434年(永享6年)生。1459年(長禄3年)、高田を離れ、諸国を巡る。1789年(寛政1年)、伊勢に入る。1793年(寛政5年)、一身田に滞在。同年5月に住職就任。翌年、寺地を伊勢に移したとされる。同年6月、延暦寺に赴く。1477年(文明9年)6月、後土御門天皇から住職綸旨。翌年3月、天皇の祈願所とする綸旨。1487年(長享1年)10月12日法印大僧都。1502年(文亀2年)8月、退任。1504年(永正1年)10月8日、規則を定める。1512年(永正9年)10月22日死去。79歳。天台宗西教寺中興の真盛と親しく真慧墓は西教寺に設けられた。
真智喜雲院宮 1504-1585 1512-? 後柏原天皇皇子。1504年(永正1年)生。常盤井宮。1511年(永正8年)6月14日入室。翌年11月、後柏原天皇から綸旨。1513年(永正10年)、紫衣参内勅許。応真、堯慧と後継争いで敗れる。越前国に逃れ熊坂専修寺を創建。1585年(天正13年)7月4日死去。82歳。喜雲院宮。真智墓
11 応真 1490-1537 1502?-1537 真慧の子。1490年(延徳2年)生。1502年(文亀2年)、住職就任。8月27日、後柏原天皇から住職綸旨。1513年(永正10年)2月、再び同天皇から綸旨。翌年3月5日法眼。1516年(永正13年)11月3日、権少僧都。1521年(大永1年) 6月、天皇から3回目の綸旨。1522年(大永2年)12月6日大僧都。1529年(享禄2年)9月8日後奈良天皇から綸旨。1537年(天文6年)5月25日死去。48歳。京都別院を創建。1560年(永禄3年)、贈権僧正。
12 堯慧 光徳院 1527-1609 1537-1580 飛鳥井雅綱の三男。1527年(大永7年)生。1535年(天文4年)、将軍足利義晴の猶子として入室。1537年(天文6年) 5月23日、住職就任。1560年(永禄3年)権僧正。1574年(天正2年) 11月28日、門跡となる。1582年(天正10年)大僧正。1609年(慶長14年) 1月21日死去。83歳。光徳院。
13 堯真 超光院 1549-1619 1580-1619 堯慧の長男。1549年(天文18年)生。幼名は堯応。近衛前久の猶子。1562年(永禄5年)得度。1580年(天正8年)5月、正親町天皇の綸旨で住職就任。権僧正となる。1585年(天正13年)、正親町天皇から綸旨。1587年(天正15年)、後陽成天皇から綸旨。1589年(天正17年)8月、越前国を巡教。1611年(慶長16年)、後水尾天皇から綸旨。1619年(元和5年)9月20日死去。71歳。超光院。
14 堯秀 祥雲院 1582-1666 1619-1641 堯真の長男。近衛信尹の猶子。1582年(天正10年)生。1598年(慶長3年)得度。1619年(元和5年)、権僧正。同年住職就任。1638年(寛永15年)明正天皇から綸旨。1641年(寛永18年)大僧正。同年、堯朝に譲り退任。祥雲院と称す。しかし、堯朝の自害で、1646年(正保3年)、再び寺務を司る。1666年(寛文6年)12月19日死去。85歳。「報恩講御書」。
15 堯朝 光曜院 1615-1646 1641-1646 堯秀の長男。近衛信尋の猶子。1615年(元和1年)生。1629年(寛永6年)得度。1638年(寛永15年)、権僧正。1641年(寛永18年)、住職就任。親鸞真蹟を献上せよとの幕府の命令に抗議して、1646年(正保3年)8月22日、江戸唯念寺で自決。32歳。同寺に墓がある。光曜院浄慧。
堯秀 祥雲院 1582-1666 1646-1654 再住。
16 堯円 香光荘厳院 1641-1716 1654-1710 花山院定好の四子。1641年(寛永18年)生。1648年(慶安1年)2月25日、近衛尚嗣の猶子として入室。1654年(承応3年)2月28日得度。同年住職就任。1656年(明暦2年)10月24日、後西天皇から住職綸旨。1676年(延宝4年)11月3日、大僧正。1710年(宝永7年)11月、退任して香光荘厳院と称す。1716年(享保1年)7月27日死去。76歳。
17 円猷 歓喜心院宮 1694-1753 1710-1753 伏見宮貞致親王の王子。1694年(元禄7年)1月22日生。幼名は勝宮。1697年(元禄10年)10月15日入室。1708年(宝永5年)10月15日得度。1710年(宝永7年)11月23日住職就任。1728年(享保13年)8月一光三尊仏を初めて開扉し、翌年、本山で初めて開帳。1753年(宝暦3年)1月2日死去。60歳。歓喜心院宮。死去後しばらく内室の紫雲光院が寺務を司った。
18 円遵 無上上院宮 1746-1819 1758-1811 有栖川宮家の音仁親王の第一王子。1746年(延享3年)11月23日生。職仁親王の孫で、同親王の養子となり第五王子とされた。霊元天皇皇曾孫。初名は徳猷円智。1753年(宝暦3年)9月7日入室。1758年(宝暦8年)3月20日、得度。同年、住職就任。1778年(安永7年)後桃園天皇綸旨。勧学堂を興す。1811年(文化8年)3月、退任。無上上院宮。1819年(文政2年)10月22日死去。74歳。
19 円祥 真無量院宮 1788-1837 1811-1837 有栖川宮織仁親王の第三王子。1788年(天明8年)7月10日生。1785年(天明5年)2月23日(ママ)入室。1803年(享和3年)10月25日得度。1811年(文化8年)3月10日住職就任。同年10月光格天皇から綸旨。親鸞550年遠忌を勤める。1822年(文政5年)2月20日、法眼大僧都。翌年1月28日法印。10月4日僧正。1824年(文政7年)8月16日、大僧正。1837年(天保8年)11月21日死去。50歳。真無量院宮。漢詩を好んだ。
20 円禧 清浄楽院宮 1817-1861 1838-1861 円祥の子。有栖川宮韶仁親王の猶子。1817年(文化14年)1月17日生。1832年(天保3年)6月入室。1836年(天保7年)10月25日得度。1838年(天保9年)3月21日、仁孝天皇から住職綸旨。1844年(弘化1年)5月6日、法眼大僧都。1845年(弘化2年)2月16日法印。6月12日僧正。1861年(文久1年)3月、親鸞600年遠忌を勤める。同年5月8日死去。45歳。清浄楽院宮。
21 常磐井堯熙 1844-1919 1861-1913 近衛忠煕の子。有栖川宮幟仁親王の養子となり、第二王子とされる。幼名は規宮。1844年(弘化1年)12月27日生。1854年(安政1年)2月5日入室。1860年(万延1年)4月10日得度し円禔と称す。1861年(文久1年)9月22日、孝明天皇から住職綸旨。惑乱が起こり、決判して鎮める。1868年(明治1年)6月、法眼大僧都。1871年(明治4年)7月、寺領を返し、政府から家禄を与えられる。1872年(明治5年)3月7日、華族となる。1872年(明治5年)6月、教導職大教正。同年10月、家名を常磐井とし、名を堯熙と改めた。1873年(明治6年)2月、従五位。1875年(明治8年)、家禄を返還。1876年(明治9年)、東西本願寺と錦織寺と連合して一人の管長を置くが、5月22日、四派各派に管長を置くこととなり、真宗専修寺派管長となる。1881年(明治14年)、高田派と改称。1885年(明治18年)3月、門跡号復帰。1919年(大正8年)5月23日死去。76歳。
22 常磐井堯猷 1872-1951 1913-1951 近衛忠房の三男。1872年(明治5年)3月15日生。幼名は鶴松。1885年(明治18年)2月25日入室。1886年(明治19年)11月、英独に留学。シュトラスブルク大学でマックス・ミュラーに師事し、サンスクリット文学を学ぶ。1899年(明治32年)7月帰国。京都帝国大学教授。同年9月27日、伊勢神宮参拝。10月25日得度。堯猷と改名。1913年(大正2年)、住職就任。1919年(大正8年)男爵襲爵。1951年(昭和26年)1月27日死去。78歳。
23 常磐井堯祺 1905-1992 1951-1992 堯猷の第二子。京都帝国大学文学部卒。専精学舎を創設。
24 常磐井鸞猷 1932- 1995-2013 1932年(昭和7年)9月25日生。
25 常磐井慈祥 1959- 2013- 1959年(昭和34年)11月18日生。
  • 『専修寺史要』「専修寺ウェブサイト」などによる
  • 真智に関して『望月仏教大辞典』では歴代に数えているが、現在の専修寺では歴代と認めていないようだ

資料

古典籍・史料など

  • 「専修寺文書」:鎌倉時代~江戸時代。306点。日野系図の最古写本も。
  • 「専修寺聖教」:平安時代~室町時代。82点。真仏、顕智の撰述書など。
  • 「代々上人聞書」:1548年(天文17年)成立。『高田学報』61~62に翻刻。
  • 「高田ノ上人ノ聞書」:1553年(天文22年)成立。『高田学報』61~62に翻刻。
  • 「高田山峰枝折」:
  • 五天良空『高田親鸞聖人正統伝』:1715年(正徳5年)成立。1717年(享保2年)刊。『高田正統伝』『高田開山親鸞聖人正統伝』。『真宗全書』に収録[13]
  • 五天良空『親鸞聖人正統伝後集』:1722年(享保7年)刊。『高田正統伝後集』とも。『真宗全書』に収録[14]
    • 『高田山専修寺伝灯実録』:
    • 『鉄関踏破』:『正統伝』を批判した慧空『正統伝鉄関』への反論書
    • 『御伝絵一代記踏破』:
    • 『親鸞聖人行状記踏破』:
  • 『親鸞聖人正明伝』:親鸞の伝記。江戸時代の成立か。『真宗全書』に収録[15]
  • 「専修寺系譜并歴代事蹟」
  • 「常磐井家譜」
  • 『専修寺文書目録』:明治写本
  • 「専修寺絵図」『真宗温古図録』[16]:明和頃か。
  • 「高田山一身田御略絵図」:宝暦
  • 「勢州奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡絵図」:
  • 『伊勢参宮名所図会』
  • 松山忍明編『高田史料』:1596年(慶長1年)から1905年(明治38年)までの専修寺教団のことを編年体で記す。未刊行。
  • 栗原泰弁1895『一光三尊仏略縁起』[17]
  • 『一光三尊仏略縁起』[18]
  • 『天拝一光三尊仏略縁起』[19]
  • 小野茂吉編1907『三重県史料:中古第3巻』「高田本山専修寺」「延暦寺本願寺専修寺との交渉」「専修寺派と本願寺派との北越の戦」[20]
  • 1965「資料復刻 如来堂御建立録(上)」『高田学報』55
  • 1966「資料復刻 如来堂御建立録(下)」『高田学報』57
  • 1967『三重県郷土資料叢書8』
  • 平松令三編1991『真宗史料集成第4巻』「専修寺・諸派」
  • 真宗高田派教学院編1996『影印高田古典1:真仏上人集』
  • 真宗高田派教学院編1999『影印高田古典2:顕智上人集:上』
  • 真宗高田派教学院編2001『影印高田古典3:顕智上人集:中』
  • 真宗高田派教学院編2002『影印高田古典4:顕智上人集:下』
  • 真宗高田派教学院編2008『影印高田古典5:直弟本:上』
  • 真宗高田派教学院編2008『影印高田古典6:直弟本:下』
  • 真宗高田派教学院編2003『円猷上人・円超上人遺芳』:平松令三責任編集。円猷250年忌。
  • 真宗高田派教学院編2006『御堂日録第1冊』:1743年(寛保3年)~1750年(寛延3年)。平松令三責任編集。
  • 真宗高田派聖典編纂委員会2012『真宗高田派聖典』春秋社
  • 真宗高田派聖典編纂委員会2018『真宗高田派聖典索引』春秋社
  • 『大谷本願寺通紀』「旁門略伝」[21]

図録

  • 三重県立美術館1991『高田本山専修寺展:歴史と美術』
  • 岡崎市美術博物館2008『三河念仏の源流:高田専修寺と初期真宗』
  • 岡田文化財団パラミタミュージアム2012『高田本山の宝物と文化財展:信仰とその証:真宗高田派本山専修寺開山聖人七五〇回遠忌報恩大法会記念』
  • 三重県総合博物館2015『親鸞高田本山専修寺の至宝』

調査報告

  • 三重県教育委員会1985『三重の近世社寺建築:近世社寺建築緊急調査の報告』
  • 津市教育委員会1989『一身田寺内町:町並み調査報告書』
  • 文化財建造物保存技術協会1989『重要文化財専修寺御影堂修理工事報告書』
  • 文化財建造物保存技術協会1990『重要文化財専修寺如来堂修理工事報告書』
  • 文化財建造物保存技術協会1997『三重県指定有形文化財専修寺山門・津市指定有形文化財専修寺鐘楼保存修理工事報告書』
  • 文化財建造物保存技術協会1999『重要文化財専修寺如来堂・総門修理工事報告書』
  • 文化財建造物保存技術協会2008『重要文化財専修寺御影堂修理工事報告書:本文編・図版編』
  • 文化財建造物保存技術協会2010『津市指定有形文化財専修寺太鼓門保存修理工事報告書』
  • 林廣伸建築事務所編2011『真宗高田派本山専修寺建造物調査報告書』
  • 文化財建造物保存技術協会2012『三重県指定有形文化財専修寺唐門・御廟拝堂及唐門保存修理工事報告書』
  • 専修寺御影堂・如来堂調査委員会2017『専修寺御影堂・如来堂調査報告書』

文献

  • 1900『真宗名所図会』「高田派本山名所図会」[22]
  • 1912『専修寺史要』[23]
  • 明日香宗暁1912『高田山専修寺記念帖』
  • 1913『高田山略縁起』
  • 柳宝浄1913『親鸞聖人正統伝絵記』[24]
  • 専修寺1926『真宗高田派達令類集』[25]
  • 松山親彦編1936『墨山遺韻:常磐井堯煕』
  • 小妻隆文1937「皇室宮家と専修寺」『高田学報』16
  • 柳浄蓮1959『高田山専修寺』
  • 常磐井政恵1962『木蓮:常磐井政恵歌集』
  • 1967『高田中興真慧上人遺芳』
  • 小妻隆文1969『堯熈上人年譜』
  • 平松令三1960「真宗高田派本山専修寺の建築について:真宗寺院建築の一典型」『建築史研究』28
  • 平松令三1969「一身田専修寺の成立について」『日本浄土教史の研究』
  • 平松令三1985「高田専修寺の草創と念仏聖」『日本仏教史論集6 親鸞聖人と真宗』
  • 平松令三1985「高田専修寺真慧と本願寺蓮如」『中世仏教と真宗』
  • 平松令三編1991『高田本山の法義と歴史:如来堂昭和大修理落慶記念』同朋舎出版
  • 平松令三・大城哲也・園田誠嗣2004『高田本山の御影堂』
  • 真岡慶心1970「如来堂をめぐる諸問題」『高田学報』62
  • 古徳調査委員会編1973『高田の古徳』
  • 桜井敏雄1975「浄土真宗寺院本堂の成立過程」『仏教芸術』102・104
  • 浅野清1981「高田山専修寺」『宗教工芸』
  • 浅野清1987「近世社寺建築」『仏教芸術』170
  • 日下幸夫1982「専修寺如来堂修理調査工事覚書」『高田学報』71
  • 領家堯之1988「専修寺如来堂修理により発見された墨書、ヘラ書、刻銘等」『高田学報』77
  • 首藤善樹1990「一身田専修寺における如来堂建立の意義」『高田短期大学紀要』8
  • 三重県高等学校社会科研究会1992『一身田の町と専修寺』
  • 1996『顕彰堯朝上人』
  • 真宗高田派教学院編1997『論集高田教学』
  • 真宗高田派進納所編2008『専修寺:本山再発見』
  • 2013?『真宗高田派本山専修寺写真集』
  • 常磐井慈裕2019『善光寺と親鸞:日本仏教史の諸相』春秋社
  • 常磐井慈裕2012『祖師親鸞讃嘆 報恩講式と嘆徳文』

定期刊行物

  • 『高田本山だより』
  • 『高田学報』:高田学会。
  • 『教学院紀要』:真宗高田派教学院。1996年(平成8年)創刊。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B0%82%E4%BF%AE%E5%AF%BA」より作成

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