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山城・光明寺 - SHINDEN

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山城・光明寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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==概要==
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熊谷直実が1198年(建久9年)に法然の勧めによって粟生(あお)広谷に'''念仏三昧院'''を創建。
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[[熊谷直実]]が1198年(建久9年)に[[法然]]の勧めによって粟生(あお)広谷に'''念仏三昧院'''を創建。
熊谷直実は法然を一世として自らは二世とした。
熊谷直実は法然を一世として自らは二世とした。
嘉禄の法難の際に、法然の遺骸が当地に遷された。このとき、法然の石棺から光明が放たれて、粟生の地を指したという。これに由来して、1242年(仁治3年)四条天皇から「光明寺」の勅額をもらったという。
嘉禄の法難の際に、法然の遺骸が当地に遷された。このとき、法然の石棺から光明が放たれて、粟生の地を指したという。これに由来して、1242年(仁治3年)四条天皇から「光明寺」の勅額をもらったという。
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1563年(永禄6年)、正親町天皇から「'''浄土門根元之地'''」の綸旨をもらった。
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1563年(永禄6年)、[[正親町天皇]]から「'''浄土門根元之地'''」の綸旨をもらった。
御影堂本尊の「'''張子の御影'''」は建永の法難のときに、弟子に与えた自画像で、母親からの手紙に描いたものという。
御影堂本尊の「'''張子の御影'''」は建永の法難のときに、弟子に与えた自画像で、母親からの手紙に描いたものという。
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3世幸阿弥陀仏のあとに、証空がはいり4世となる。
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3世'''幸阿弥陀仏'''のあとに、[[証空]]がはいり4世となる。

2015年2月16日 (月) 時点における版

光明寺
こうみょうじ
概要 浄土宗西山派西谷流の拠点。法然墓所。
奉斎
所在地 京都府長岡京市粟生西条内26-1
所在地(旧国郡) 山城国
所属(現在) 西山浄土宗
格式など 西山浄土宗 総本山
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目次

概要

熊谷直実が1198年(建久9年)に法然の勧めによって粟生(あお)広谷に念仏三昧院を創建。 熊谷直実は法然を一世として自らは二世とした。 嘉禄の法難の際に、法然の遺骸が当地に遷された。このとき、法然の石棺から光明が放たれて、粟生の地を指したという。これに由来して、1242年(仁治3年)四条天皇から「光明寺」の勅額をもらったという。

1563年(永禄6年)、正親町天皇から「浄土門根元之地」の綸旨をもらった。

御影堂本尊の「張子の御影」は建永の法難のときに、弟子に与えた自画像で、母親からの手紙に描いたものという。

3世幸阿弥陀仏のあとに、証空がはいり4世となる。


粟生光明寺」(あお・こうみょうじ)「粟生野光明寺」(あおの・こうみょうじ)ともいう。

画像


参考文献

  • 中西随功監修、2011『証空事典』東京堂出版


脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%83%BB%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA」より作成

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