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山城・光明寺 - SHINDEN

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山城・光明寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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|九条道家の子。源空の弟子。1205年(元久2年)、蓮生が故郷に帰ったの機に源空から寄託されて就任。[[四条天皇]]から光明寺の勅額を賜る。1238年(暦仁1年)12月2日死去。66歳。
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|西山派[[西谷流]]開祖。1264年(文永1年)7月25日、[[亀山天皇]]から法然御影と綸旨下賜。1261年(弘長1年)仁和寺西谷の[[新光明寺]]に隠棲。1271年(文永8年)5月22日死去。
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|融舜の弟子。吾妻善導寺から晋山。1534年(天文3年)5月8日、後奈良天皇から勅願寺の綸旨。翌年6月22日、紫衣許可。同年8月、宮中で当麻曼陀羅の講讃を行った。1537年(天文6年)か翌年頃に隠居。1551年(天文20年)12月5日死去。
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|融舜の弟子。[[吾妻・善導寺]]から晋山。1534年(天文3年)5月8日、[[後奈良天皇]]から勅願寺の綸旨。翌年6月22日、紫衣許可。同年8月、宮中で当麻曼陀羅の講讃を行った。1537年(天文6年)か翌年頃に隠居。1551年(天文20年)12月5日死去。
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|加歴。禅林寺34世。禅林寺退任後の1546年(天文15年)頃、光明寺に移住して看坊を務めたという。1548年(天文17年)10月25日、香衣執奏の綸旨を賜ったという。
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|加歴。[[禅林寺]]34世。禅林寺退任後の1546年(天文15年)頃、光明寺に移住して看坊を務めたという。1548年(天文17年)10月25日、香衣執奏の綸旨を賜ったという。
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|1573年(天正1年)1月27日、光明寺住職に就任。1581年(天正9年)9月10日、紫衣の綸旨。[[堺・正法寺]]に隠棲。
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|近江出身。1593年(文禄2年)光明寺住職。1602年(慶長7年)12月、退任。後に京都光明院を創建。1621年(元和7年)7月2日死去。
|近江出身。1593年(文禄2年)光明寺住職。1602年(慶長7年)12月、退任。後に京都光明院を創建。1621年(元和7年)7月2日死去。
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===歴代住職(近世)===
===歴代住職(近世)===
*29万空李栖()<>:1602年(慶長7年)12月光明寺住職。1611年(慶長16年)夏、香衣執奏について禅林寺を争論。増上寺観智、金地院崇伝、北山円光寺元佶の仲介で和解して両山輪番で香衣綸旨を賜うこととなった。1615年(元和1年)7月、京都矢田寺に隠棲。1632年(寛永9年)7月28日死去。
*29万空李栖()<>:1602年(慶長7年)12月光明寺住職。1611年(慶長16年)夏、香衣執奏について禅林寺を争論。増上寺観智、金地院崇伝、北山円光寺元佶の仲介で和解して両山輪番で香衣綸旨を賜うこととなった。1615年(元和1年)7月、京都矢田寺に隠棲。1632年(寛永9年)7月28日死去。

2018年8月19日 (日) 時点における版

光明寺
こうみょうじ
概要 浄土宗西山派西谷流の拠点。法然墓所。
奉斎
所在地 京都府長岡京市粟生西条内26-1
所在地(旧国郡) 山城国乙訓郡
所属(現在) 西山浄土宗
格式など 西山浄土宗 総本山
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目次

概要

光明寺(こうみょうじ)は、京都府長岡京市(山城国乙訓郡)の、法然の火葬地・墓所にある、浄土宗本山寺院西山浄土宗総本山。浄土宗西山派西谷流の拠点。粟生光明寺(あお・こうみょうじ)、粟生野光明寺(あおの・こうみょうじ)ともいう。(参考 同名寺院光明寺

歴史

建久9年(1198)、熊谷直実法然の勧めで山城国乙訓郡の粟生(あお)広谷に念仏三昧院を創建。直実は法然を1世として自らは2世とした。嘉禄の法難の際、比叡山の僧兵の襲撃を避けるため、法然の遺骸を東山の地から遷すとき、棺から光明が放たれて、粟生の地を指したという。これに由来して、仁治3年(1242)、四条天皇から「光明寺」の勅額を賜ったという。さらに永禄6年(1563)、正親町天皇から「浄土門根元之地」の綸旨をもらった。

現在の御影堂(本堂)の背後に法然墓と廟があり、現在、各地にある墓はここから分骨されたものである。また火葬塚がある。御影堂本尊の「張子の御影」は建永の法難のときに、法然が弟子に与えた自画像で、母親からの手紙に描いたものという。

3世幸阿弥陀仏のあとに、西山派の開祖証空がはいり4世となる。

組織

歴代住職(中世)

世数 生没年 在職年 略歴
1 源空 1133-1212 法然。浄土宗開祖。
2 蓮生 1141-1207 熊谷直実。
3 幸阿 1173-1238 1205-1238 九条道家の子。源空の弟子。1205年(元久2年)、蓮生が故郷に帰ったの機に源空から寄託されて就任。四条天皇から光明寺の勅額を賜る。1238年(暦仁1年)12月2日死去。66歳。
4 証空 1177-1247 1238-1247 浄土宗西山派開祖。三鈷寺にいた証空が管轄。
5 源光尊西 生没年不詳 5年在職。
6 法興浄音 1201-1271 ?-1261 西山派西谷流開祖。1264年(文永1年)7月25日、亀山天皇から法然御影と綸旨下賜。1261年(弘長1年)仁和寺西谷の新光明寺に隠棲。1271年(文永8年)5月22日死去。
7 善空観性 ?-1286 浄音の弟子。新光明寺に隠棲。1286年(弘安9年)3月8日死去。70歳。
8 広空立信 生没年不詳 不詳。
9 正空玄観 生没年不詳 不詳。
10 長空祖閑 ?-1343 1332-1343 広空立信の弟子。1332年(元弘2年)10月5日、光明寺住職。武蔵池上の安養院から。戦乱のため大沢山に御影を仮遷座した。1334年(建武1年)9月に帰還。1343年(康永2年)5月10日死去。
11 月空乗円 生没年不詳 不詳。
12 弘空聖法 生没年不詳 不詳。
13 伝空教神 生没年不詳 不詳。『光明寺沿革誌』には「神教」。
14 一空教順 生没年不詳 不詳。
15 乗運空撮 ?-1508 ?-1508 1507年(永正4年)7月20日、「西山一宗の第一寺たるに依りて」後柏原天皇から香衣許可。1508年(永正5年)2月13日死去。
16 舜空秀旭 ?-1551 ?-1537? 融舜の弟子。吾妻・善導寺から晋山。1534年(天文3年)5月8日、後奈良天皇から勅願寺の綸旨。翌年6月22日、紫衣許可。同年8月、宮中で当麻曼陀羅の講讃を行った。1537年(天文6年)か翌年頃に隠居。1551年(天文20年)12月5日死去。
17 融国正孝 生没年不詳 1537?-1546? 立政寺仏陀寺を歴任。1537年(天文6年)か翌年頃に光明寺住職に就任。越前法興寺を創建。
18 舜叔宏善 生没年不詳 加歴。禅林寺34世。禅林寺退任後の1546年(天文15年)頃、光明寺に移住して看坊を務めたという。1548年(天文17年)10月25日、香衣執奏の綸旨を賜ったという。
19 底空乗善 生没年不詳 加歴。看坊を務めたという。
20 実道正見 生没年不詳 加歴。看坊を務めたという。
21 実空顕貞 生没年不詳 加歴。禅林寺35世。1553年(天文22年)頃から1557年(弘治3年)頃まで兼務したらしい。
22 空運圭遵 生没年不詳 加歴。看坊を務めたという。
23 頓空春易 生没年不詳 加歴。看坊を務めたという。
24 桓空顕雄 生没年不詳 加歴。看坊を務めたという。
25 顕空等順 ?-1573 1562-1573 融舜の弟子。1562年(永禄5年)11月25日就任。翌年3月9日、本堂御影像を奉じて参内。翌日「浄土門根元地」という綸旨を賜った。5月22日には香衣執奏の永宣旨を賜ったという。高槻光松寺、堺善長寺を創建。1573年(天正1年)1月6日死去。『光明寺沿革誌』には登順。
26 頓空教運 生没年不詳 1573-1581 1573年(天正1年)1月27日、光明寺住職に就任。1581年(天正9年)9月10日、紫衣の綸旨。堺・正法寺に隠棲。
27 智空甫叔 ?-1586 1583-1586 禅林寺36世。1583年(天正11年)光明寺住職。1586年(天正14年)6月2日死去。
28 尊空黙然 ?-1621 1593-1602 近江出身。1593年(文禄2年)光明寺住職。1602年(慶長7年)12月、退任。後に京都光明院を創建。1621年(元和7年)7月2日死去。

歴代住職(近世)

  • 29万空李栖()<>:1602年(慶長7年)12月光明寺住職。1611年(慶長16年)夏、香衣執奏について禅林寺を争論。増上寺観智、金地院崇伝、北山円光寺元佶の仲介で和解して両山輪番で香衣綸旨を賜うこととなった。1615年(元和1年)7月、京都矢田寺に隠棲。1632年(寛永9年)7月28日死去。
  • 30道空純長()<>:京都出身。1615年(元和1年)総持寺から晋山。同年6月、徳川家康に謁見。1624年(寛永1年)6月19日、紫衣綸旨。1638年(寛永15年)1月14日死去。『光明寺沿革誌』には頓長。
  • 31本空弘元()<>:豊前出身。1639年(寛永16年)9月、禅林寺衆頭職から晋山。御影堂を造営。1649年(慶安2年)、江戸に赴くが、同年11月19日客死。
  • 32倍山俊意()<>:光明寺中興。京都出身。総持寺南楚の弟子。1651年(慶安4年)11月29日、法蔵寺から晋山。本山の惨状に師の南楚が非常に悲嘆したことをきっかけに祖廟を整備。深心院の客殿庫裏を修復。1654年(承応3年)墓所で不断念仏。同年4月22日、常紫衣の綸旨。1660年(万治3年)11月3日、御影像を奉じて参内。天皇内拝。諸堂整備。また1662年(寛文2年)6月、御影像を奉じて江戸に参向。回向院で出開帳。江戸城にも奉遷した。1674年(延宝2年)8月1日死去。71歳。
  • 33円空休団()<>:
  • 34快空太悦()<>:
  • (除歴)大空恵雲()<>:『円頓戒補助儀』論争で追放される。
  • 35達空絶道()<>:
  • 36霊空作遵()<>:
  • 37明空沢了()<>:
  • 38三空賢秀()<>:
  • 39龍空臥雲()<>:
  • 40日空看省()<>:
  • 41然空旭粲()<>:
  • 42泰空旭瑛()<>:
  • 43峻空元克()<>:『光明寺沿革誌』には竣空
  • 44尽空俊察()<>:
  • 45真空恵玉()<>:
  • 46真空実堂()<>:『光明寺沿革誌』には実道
  • 47見空律賢()<>:
  • 48真空寿山()<>:
  • 49大空豊道()<>:
  • 50瑞空法麟()<>:
  • 51礼空玄敬()<>:
  • 52量空呑海()<>:
  • 53〓空大臻()<>:(瑞のつくり)+しんにょう
  • 54仙空俊英()<>:
  • 55叡空秀山()<>:
  • 56闡空亮範()<>:
  • 57真空感瑞()<>:
  • 58鸞空俊鳳()<>:
  • 59誠空仙意()<>:
  • 60成空寛績()<>:
  • 61広谷隆賢(哲空)(1802-)<>:誓願寺から晋山。浄土宗(合同)管長。大教正。
  • 62日下俊洲(滄空)()<>:楊谷寺から晋山。
  • 63輪空円瑞()<>:紀伊・総持寺から晋山。
  • 64精空賢玉(菅原精空)()<>:
  • 65日下俊洲(滄空)()<>:再任
  • 66勝川相善(観空)()<>:名古屋善光寺に隠棲。
  • 67柴田証全(是空)()<>:大正4年5月22日管長就任認可
  • 68瀧善教(海空)()<>:1918年03月22日、管長就任認可(官報)
  • 69関本諦承(真空)(1860-1938)<1918-1933>:自坊は和歌山超世寺。1908年、総持寺貫主。1918年、光明寺法主。1933年辞任。願成寺を創建して隠居。
  • 70日下俊隆(興空)()<1933->:自坊は柳谷楊谷寺。1933年7月17日管長就任認可(官報)。
  • 71小早川随康(好空)(1874-1948)<>:
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  • 74霊空賢龍()<>:
  • 75
  • 76然空精一()<>:
  • 77長空晋龍()<>:
  • 78
  • 79守中隆璋(光空)()<>:自坊は東岸寺。
  • 80寺坂義照()<>:
  • 81上田良凖(1917-1996)<>:自坊は浄福寺。西山短期大学学長。
  • 82高野純雄(信空)()<>:
  • 83松尾全弘(完空)()<>:
  • 84岩田文有(憲空)()<-2011>:自坊は心光寺。
  • 85寺坂義継()<2011-2016>:
  • 86堀本賢順()<2016->:

(望月『仏教大辞典 付録』、『光明寺沿革誌』ほか)


参考文献

  • 明治44『光明寺沿革誌』
  • 望月信亨『仏教大辞典』
  • 中西随功監修、2011『証空事典』東京堂出版

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%83%BB%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA」より作成

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