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山城・西明寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[file:Kokudo0241.jpg|thumb|300px|西明寺(国土地理院空中写真より)]] '''西明寺'''(さいみょうじ)は、京都府京都市右京区梅ケ畑槇尾町にある[[真言宗]]寺院。本尊は[[清凉寺式釈迦如来]]。[[真言律宗西明寺流]]の発祥の地で、宗派を超えた戒律復興運動の発信源となった。[[神鳳寺]]・[[野中寺]]と共に西明寺流の三僧坊の一つ。槙尾と[[神護寺]]の高雄(高尾)、[[高山寺]]の栂尾と合わせて三尾(さんび)と呼ぶ。現在は[[真言宗大覚寺派]]。'''平等心王院'''と号す。通称は'''槙尾西明寺'''。山号は槙尾山。[[神護寺関連旧跡]]。(参考:同名[[西明寺]]・[[槙尾山]]) == 歴史 == [[file:Kokudo0242.jpg|thumb|300px|高尾周辺(神護寺・西明寺・高山寺)(国土地理院空中写真より)]] ===明忍以前=== 天長年間、[[空海]]の甥の智泉が神護寺別院として創建したと伝えるが不詳。 元久元年(1204)、[[明恵]]が訪れ、居所とした。 その後、建治年間、槙尾山[[施福寺]]の自証(我宝自性)([[土佐・金剛頂寺]]、[[最御崎寺]])が入り、律院として復興。 正応元年(1288)、[[後宇多上皇]]から「槙尾山平等心王院」の名を与えられた。後宇多院は土佐国安芸庄(金剛頂寺の所在地)を寄進した。浄宝も金剛頂寺を兼務した。 永禄年間、兵火で焼失。神護寺に合併された。 ===明忍の復興=== 慶長7年(1602)、明忍が入り復興。江戸時代、宗派を超えて広がる戒律復興運動の震源地となった。1700年、[[桂昌院]]の寄進で現在の本堂を造営。寺領35石が与えられた。明治維新で律院は廃された。 1623年、「平等心王院僧制」制定。 1627年以降、戒律復興運動が盛んとなる。 慶長年間から安政年間にいたる「僧名帳」には492人の名前がある。 1745年の『真言律宗西明寺派下寺院牒』には「真言律宗西明寺派本山槙尾山西明寺」とある。 (日本歴史地名大系、国史大辞典) ==伽藍== *本堂 *客殿:元は食堂 *聖天堂 *方丈:廃絶 *上座寮:廃絶 *東学寮:廃絶 *西学寮:廃絶 *月直寮:廃絶 *鎮守社:廃絶 *阿育王石柱 ==組織== ===歴代=== 長老、衆首とも呼ばれた。 *1俊正明忍(1576-1610):真言律宗西明寺流の祖。各宗派にまたがる近世戒律復興運動の開祖。京都出身。中原氏。7歳で神護寺中興晋海の弟子となる。[[西大寺]]で学ぶ。中山寺の慧雲蓼海や西大寺の友尊僧全と意気投合して1602年(慶長7年)西明寺で自誓受戒。西明寺を復興。鑑真への思いが強く、1606年、明に渡ろうと計画。対馬滞在中に1610年6月7日客死。対馬海岸寺に墓と位牌・彫像がある。墓の五輪塔は天龍寺道澄月潭が1703年に建てたもの。元政や慈雲が伝記を記している。 *2慧雲蓼海:元は[[日蓮宗]]の僧侶。俊正明忍と共に自誓受戒。 *3玉円空渓 *4長円良祐 *5空爾友戒 *6良存堯円 *7空印忍盛 *8全理恵燈 *9慈雲智城 *10了運不生 *11尊光空如 *12存正卓然 *13本寂恵澄 *14智本理澄 *15慈猛恵眼 *16会暁実通 *17普聞寂然 *18春鏡快弁 *19無寂晃偏 *20智厳明通 *21祖厳快龍 *22泰洲如実 *23忍戒照山 *24千叉亮昌 *25懐宝道光 *26照山良景 *27智玄暁了 *28傳光智空 *29智観恵察 *30恵了道全 *竹中承全()<>: *稲村英隆(1838-1910)<1894->:[[歓喜院]]住職。1893年インド渡航。1894年西明寺住職。 *釈大真()<>:秀海大真。秀戒大真。 *高岡義寛()<>:京都大学教授。 ==資料== *『槙尾山略縁起并流記』元禄13年 [[category:京都府]]
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