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平田家

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年2月28日 (月)

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*[[平田篤胤]]
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*[[平田篤胤]](1776-1843):
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*平田鉄胤
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*平田鉄胤(1799-1880):篤胤の養子。伊予出身。初名は碧川篤実。神祇事務局判事。明治天皇侍講。教導職大教正。『祝詞正訓』『毀誉相半書』。平田銕胤。
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*平田延胤
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*平田延胤(1828-1872):鉄胤の実子。1828年(文政11年)生。神祇権大祐。宣教判官。明治天皇侍講。父より早く死去。『馭戎論』。
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*平田盛胤
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*平田盛胤(1863-1946):延胤の養子。美濃出身。1863年(文久3年)生。初名は戸沢盛定。1878年(明治11年)岐阜県師範学校卒。小学校校長、訓導を経て、1886年(明治19年)東京帝国大学文学部古典講習科卒。東京高等女学校教諭、東京府尋常師範学校教授などを歴任。1894年(明治27年)[[神田神社]]社司。1898年(明治31年)東京府神職管理所所長。1899年(明治32年)東京府皇典講究分所所長。1903年(明治36年)全国神職会顧問。1920年(大正9年)奏任官待遇。1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで東京府神職会会長。1942年(昭和17年)には真珠湾戦没者の国葬の斎主を務めた。1946年(昭和21年)死去。1945年(昭和20年)2月28日死去とも。

2022年2月28日 (月) 時点における最新版

平田家は、平田篤胤を祖とする国学者の家。

歴代

  • 平田篤胤(1776-1843):
  • 平田鉄胤(1799-1880):篤胤の養子。伊予出身。初名は碧川篤実。神祇事務局判事。明治天皇侍講。教導職大教正。『祝詞正訓』『毀誉相半書』。平田銕胤。
  • 平田延胤(1828-1872):鉄胤の実子。1828年(文政11年)生。神祇権大祐。宣教判官。明治天皇侍講。父より早く死去。『馭戎論』。
  • 平田盛胤(1863-1946):延胤の養子。美濃出身。1863年(文久3年)生。初名は戸沢盛定。1878年(明治11年)岐阜県師範学校卒。小学校校長、訓導を経て、1886年(明治19年)東京帝国大学文学部古典講習科卒。東京高等女学校教諭、東京府尋常師範学校教授などを歴任。1894年(明治27年)神田神社社司。1898年(明治31年)東京府神職管理所所長。1899年(明治32年)東京府皇典講究分所所長。1903年(明治36年)全国神職会顧問。1920年(大正9年)奏任官待遇。1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで東京府神職会会長。1942年(昭和17年)には真珠湾戦没者の国葬の斎主を務めた。1946年(昭和21年)死去。1945年(昭和20年)2月28日死去とも。
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