ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

平隆寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年10月1日 (日)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(ページの作成:「'''平隆寺'''(へいりゅうじ)は、奈良県生駒郡三郷町にある聖徳太子ゆかりの融通念仏宗寺院。[[聖徳太子建立四十六寺...」)
 
(間の6版分が非表示)
1行: 1行:
-
'''平隆寺'''(へいりゅうじ)は、奈良県生駒郡三郷町にある[[聖徳太子]]ゆかりの[[融通念仏宗]]寺院。[[聖徳太子建立四十六寺院]]の一つ施鹿園寺の後身という。
+
'''平隆寺'''(へいりゅうじ)は、奈良県生駒郡三郷町(大和国平群郡)にある[[聖徳太子]]ゆかりの[[融通念仏宗]]寺院。本尊は石造[[阿弥陀如来]]。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つの'''施鹿園寺'''の後身という。平群氏の氏寺ともいう。'''平群寺'''、'''施鹿薗寺'''、'''施鹿恩寺'''、'''施鹿園院'''、'''施鹿薗院'''ともいった。現在は'''阿弥陀院'''と号す。山号は無量山。
 +
 
 +
==歴史==
 +
「興福寺官務牒疏」には推古9年(601)、平群神手が創建し、本尊は[[弥勒菩薩]]という。聖徳太子が休息した場所とも伝える(「聖徳太子伝私記」紙背)。承平7年(937)の「信貴山寺資財宝物帳写」(信貴山文書)が史料上の初出。発掘調査によると、当初は四天王寺式伽藍だったとみられている。奈良時代〜平安時代には現在の本堂の場所に金堂が建てられていた痕跡があり、金堂の南東に塔がある特殊な伽藍配置になったとも考えられている。江戸時代の元禄年間には古代伽藍は金堂跡・講堂跡・塔跡のみとなっており、融通念仏宗の寺院が建てられていた(大和上代寺院志)。文化11年(1814)、現在の本堂を再建。昭和44年、県道建設に伴う緊急発掘と昭和49年の発掘調査で塔跡を確認。
 +
(日本歴史地名大系)
[[category:奈良県]]
[[category:奈良県]]

2017年10月1日 (日) 時点における最新版

平隆寺(へいりゅうじ)は、奈良県生駒郡三郷町(大和国平群郡)にある聖徳太子ゆかりの融通念仏宗寺院。本尊は石造阿弥陀如来聖徳太子建立四十六寺の一つの施鹿園寺の後身という。平群氏の氏寺ともいう。平群寺施鹿薗寺施鹿恩寺施鹿園院施鹿薗院ともいった。現在は阿弥陀院と号す。山号は無量山。

歴史

「興福寺官務牒疏」には推古9年(601)、平群神手が創建し、本尊は弥勒菩薩という。聖徳太子が休息した場所とも伝える(「聖徳太子伝私記」紙背)。承平7年(937)の「信貴山寺資財宝物帳写」(信貴山文書)が史料上の初出。発掘調査によると、当初は四天王寺式伽藍だったとみられている。奈良時代〜平安時代には現在の本堂の場所に金堂が建てられていた痕跡があり、金堂の南東に塔がある特殊な伽藍配置になったとも考えられている。江戸時代の元禄年間には古代伽藍は金堂跡・講堂跡・塔跡のみとなっており、融通念仏宗の寺院が建てられていた(大和上代寺院志)。文化11年(1814)、現在の本堂を再建。昭和44年、県道建設に伴う緊急発掘と昭和49年の発掘調査で塔跡を確認。 (日本歴史地名大系)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B9%B3%E9%9A%86%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール