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広島東照宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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広島東照宮(ひろしま・とうしょうぐう)は、広島県広島市東区にある、広島藩建立の東照宮。祭神は徳川家康。村社。

目次

歴史

鎮座

広島城の東北の二葉山の麓にある。 浅野家4代の藩主浅野光晟が創建。光晟は、家康の外孫に当たる。母が家康の三女振姫である。 創建は岡山東照宮鎮座に刺激されたものという。 郡奉行の今中兵庫に造営総奉行を命じ、計画を立案させた。 1646年に土地を定め、京都から職人を招き着工。 また江戸で、毘沙門堂門跡公海を導師に、寛永寺青龍院亮盛を造営師として東照宮御神体の調進を依頼し、 1647年11月17日、青龍院で開眼式を行った。まもなく広島の社殿も竣工した。

家康三十三回忌に当たる1648年に遷宮式を迎えた。まず藩主光晟は組頭浅野和泉と大番者頭谷五郎兵衛を江戸に派遣し、御神体を迎えさせた。 使者は5月29日に江戸に到着。6月10日、青龍院亮盛と使者2人は陸路江戸を立ち途中岡崎に滞在。瀧山寺の僧5人を迎えて出発。 20日京都の広島藩屋敷に入り、26日伏見から船で大阪の藩屋敷に滞在。 船奉行植木小右衛門が迎え、28日、藩の船に奉遷。7月2日大阪を出航し、寄港地で藩幹部の出迎えを受け、光晟みずから似島で出て東西町奉行を従えて御神体を奉迎した。 7月5日の亥の刻、神船は京橋川を登り広島に入り、別当松栄寺(この時まだ寺号はなし)に奉安された。光晟も松栄寺に宿泊した。 御神体到着に先立ち延暦寺の僧15人を招聘し、明星院を宿所とする。 7月16日酉の刻、束帯姿の光晟列席のもとで遷宮式が行われた。まず仏式で営んだ後、神式で行った。 広島藩主浅野光晟の拝礼奉幣に続き、三次藩主浅野長治、赤穂藩主浅野長直代理が拝礼。国家老3人も拝礼した。 18日、また光晟参拝。19日、青龍院・禅光坊と延暦寺僧を広島城に招いて饗応して、鎮座祭を無事に終えた。 同年社領300石を寄進した。 以後、9月16日と17日を祭礼とした。藩主在国の時は毎月17日に参拝した。 天台宗松栄寺(本尊は阿弥陀如来。寛永寺末)が別当となった。

1666年の家康50年祭から50年毎に大祭が行われている。「通り御祭礼」という盛大な神輿行列が行われた。 この祭礼では広島市中区の広瀬神社を御旅所としていた。

(主に『広島市史』)

東京遷座と復興

神仏分離で松栄寺および隣の教禅寺は廃絶した。 1870年2月25日、社領没収。同年11月、維新政府は藩主の東京移住を命令。 1871年の廃藩置県後に浅野家は移住したが、この時、神霊も浅野家の東京邸に遷座した。 空殿になった社殿には代わりに地主神の尾長大神が祀られた(『広島県史』)。

1874年11月、塩屋町の織田庫助が鎮座時の神像を御神体として「復社」を請願。 翌年2月、教部省が許可し、4月16日に「再び勧請」(『広島市史』)。村社に列した。(浅野家が東京に奉遷したのは神像ではなかったのか。東京に奉遷した神霊の消息は不詳) 1914年4月7日、神饌幣帛料供進神社となった。

広島原爆

1945年8月6日、広島原爆で本殿・中門・瑞垣・拝殿が焼失。本地堂・唐門・翼廊・手水舎・御供所・脇門、神輿(鳳輦)は現存。 1965年4月、350年祭記念に現在の社殿を再建した。

(由緒書、『日本歴史地名大系』、『広島県史』[1]、『広島市史』[2]

境内など

  • 本社:
  • 本地堂:
  • 祖霊社:
  • 金光稲荷神社
  • 御産稲荷社:金光稲荷神社内の御産稲荷神社の分社もしくは遥拝所か。
  • 原爆慰霊碑:
  • 広島県神社庁:別組織。広島東照宮のすぐそばにある。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE」より作成

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