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広隆寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
広隆寺(こうりゅうじ)は、京都府京都市右京区太秦(山城国葛野郡)にある、聖徳太子ゆかりの真言宗寺院。本尊は聖徳太子。秦氏の氏寺。定額寺。秦河勝が太子から仏像を賜って祀ったのが始まりという。聖徳太子建立四十六寺の一つ。現在は真言宗単立か。天皇即位ごとに聖徳太子像に天皇の御衣である「御束帯黄櫨染御袍」が寄進されている。鎮守は大酒神社。山号は蜂岡山。別称は蜂岡寺、太秦寺、秦寺、秦公寺、葛野寺。
目次 |
歴史
『日本書紀』推古天皇11年(603)11月条に秦河勝が太子から授けられた仏像をまつるために創建したとある。あるいは太子の御所だったともいう。 北野廃寺が旧地という説がある。 古くは弥勒菩薩が本尊だった。
中世は大覚寺兼務だったが、のち仁和寺末となり近年まで真言宗御室派だった。
組織
別当
- 1道昭(629-700)<>:法相宗の学僧。玄奘に学ぶ。元興寺東南院を創建。門下に行基。
- 2道慈(?-744)<>:三論宗の学僧。大安寺に住す。
- 3道騰()<>:
- 4道聴()<>:
- 5道慈()<>:
- 6玄耀()<>:東大寺の僧。
- 7明澄()<>:
- 8宣融()<>:
- 9道昌(798-875)<>:秦氏。隆城寺別当。元興寺別当。法輪寺再興。行基の再来と称された。
- 10玄虚(生没年不詳)<>:『広隆寺縁起資財帳』に名がある。
- 11良照()<>:
- 12増命()<>:
- 13延鑑()<>:
- 14安快()<>:
- 15照定()<>:
- 16松護()<>:
- 17松与()<>:松興。『日本紀略』1005年(寛弘2年)条に「広隆寺別当松興」とある。
- 18長玄()<>:
- 19安祐()<>:
- 20観恩()<>:
- 21時昌()<>:
- 22光円()<>:
- 23時円()<>:
- 24増誉(1032-1116)<>:天台宗の僧侶。聖護院開山。熊野三山検校初代。園城寺長吏、天台座主。
- 25寛助(1057-1125)<>:1116年(永久4年)広隆寺別当。東寺長者、法務、東大寺別当、法勝寺別当、遍照寺別当、仁和寺別当、円教寺別当、円宗寺別当を歴任。
- 26勝覚(1058-1129)<>:源俊房の子。東寺長者。醍醐寺座主。東大寺別当。法務。醍醐寺三宝院を創建。
- 27良実()<>:
- 28信證(1098-1142)<>:後三条天皇の皇孫。輔仁親王王子。1133年(長承2年)12月広隆寺別当。西院流の祖。東寺長者。鳥羽上皇出家の戒師。
- 29寛遍(1100-1166)<>:忍辱山流の祖。円成寺を再興。東寺長者。東大寺別当。仁和寺別当。円教寺別当。
- 30寛敏(?-1182)<>:仁和寺で出家。寛遍の弟子。1158年(保元3年)広隆寺別当。
- 31禎喜(1099-1183)<>:東寺長者。六勝寺別当。東大寺別当。
- 32真禎(1169-?)<>:後白河天皇第十一皇子。承久の乱に連座して1228年(安貞2年)、配流。通称は太秦宮、持明院宮。
- 33道深法親王(1206-1249)<>:後高倉院守貞親王()第二皇子。六勝寺検校。仁和寺門跡。金剛定院御室。
- 34良恵()<>:
- 35道乗(1215-1273)<>:頼仁親王の王子。仁和寺上乗院初代か。蓮華光院門跡住職。東寺長者。小島宮と呼ばれた。五流尊瀧院を継いだともいう。
- 36法助()<>:
- 37益助法親王()<>:岩蔵宮出身。下河原宮。仁和寺上乗院。蓮華光院門跡。
- 38有助()<>:
- 39益性法親王()<>:亀山天皇皇子。仁和寺上乗院。蓮華光院門跡。
- 40賢俊()<>:
- 41寛守法親王()<>:仁和寺上乗院。蓮華光院門跡住職
- 42寛性法親王(1289-1346)<>:伏見天皇第三皇子。仁和寺門跡。常瑜伽院御室。
- 43乗朝法親王(生没年不詳)<>:恒明親王王子。仁和寺上乗院。蓮華光院門跡。
- 44道朝法親王(1378-1446)<>:後円融天皇第二皇子。仁和寺上乗院。
- 45覚朝()<>:
- 46覚如()<>:法蓮院宮
- 47(後土御門天皇皇子)()<>:
- 48光台院宮()<>:
- 49道永()<>:
- 50伏見宮王子()<>:
- 51一条家童子()<>:
- 以後、大覚寺兼務
(『広隆寺別当補任次第』)
住職
伽藍
太子像の御袍着装儀礼
本尊の聖徳太子像は像は下着だけを着けた姿で作られており、もともと着装を前提に作られたと考えられている。聖徳太子自作ともされるが平成の調査で、像内の銘から1120年(保安1年)の造立と判明(山崎隆之「広隆寺〓箱の製作法について」[1]:〓は「土寒」)。秘仏だが毎年11月22日に開帳。
「歴代の天皇の御即位礼に際して、その都度天皇の御束帯と同様の御装束が新しく調進され、下賜されて御像に着装されてきた」という。山科流が製作に関わっている。(高田装束研究所「京都・太秦 廣隆寺上宮王院聖徳太子像 御束帯御装束調査について」[2])
天皇寄進による御袍着装儀礼の起源は不詳。後奈良天皇の時に復興。即位や御忌に合わせて実施されたが、寺院主導で行われた。「近世初期から中期にかけては即位式に合わせて実施された天皇主導のものとというよりも、むしろ太子御忌法要や御衣の破損などを理由に寺院が働きかけを行って実施されたものであった」とし、古儀復興の流れとともに光格天皇の頃に即位式に際して行う儀礼形式が一旦確立。「即位式と近接した時期に御袍着装を実施され、天皇一代を通じて着装される形式が本格的に成立しているのは、明治天皇以降となっていることが判明した」としている。(近藤絢音2014「近世の朝廷における聖徳太子信仰」[3]、「近世における聖徳太子信仰とその展開」[4])
真偽不明だが明治憲法制定の時、「宮中に参進遊ばされ、明治天皇に御対面の事は寺伝に審かにされている」という(『聖徳皇太子憲法釈義』[5])
- 出雲路通次郎「聖徳太子尊像に御贈進の御衣に就いて」(『大礼と朝儀』所収)
- 伊東史朗編1997『調査報告 広隆寺上宮王院聖徳太子像』
世数 | 天皇 | 実施 | 備考 |
---|---|---|---|
105 | 後奈良天皇 | 実施 | 再興 |
106 | 正親町天皇 | 不詳 | |
107 | 後陽成天皇 | 不詳 | |
108 | 後水尾天皇 | 実施 | 青色袍残欠が現存(国史大辞典)。 |
109 | 明正天皇 | なし | |
110 | 後光明天皇 | なし | |
111 | 後西天皇 | 即位6年後 | 黒みのある黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
112 | 霊元天皇 | なし | |
113 | 東山天皇 | 即位14年後 | 黒みのある黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
114 | 中御門天皇 | 実施 | 濃厚はあるが赤黄みのある黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
115 | 桜町天皇 | 即位11年後 | |
116 | 桃園天皇 | なし | |
117 | 後桜町天皇 | 即位6年後 | 淡色の黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
118 | 後桃園天皇 | なし | |
119 | 光格天皇 | 1780年(安永9年)5月18日 | 即位同年(即位式以前)。淡色の黄櫨染御袍、桐竹鳳凰麒麟文様の青色袍が現存(国史大辞典)。 |
120 | 仁孝天皇 | 実施 | 淡色の黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
121 | 孝明天皇 | なし | |
122 | 明治天皇 | 実施 | 濃い目の黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
123 | 大正天皇 | 実施 | |
124 | 昭和天皇 | 実施 | |
125 | 今上天皇 | 1994年(平成6年)11月20日 | |
126 |
(近藤絢音論文、高田装束研究所ウェブサイト、国史大辞典などよる)
資料
古典籍
- 『広隆寺縁起資財帳』:873年(貞観15年)。
- 『広隆寺資財校替実録帳』:890年(寛平2年)。全1巻。『大日本仏教全書』所収[6]。
- 『広隆寺縁起』:全1巻。『大日本仏教全書』所収[7]。
- 『太秦広隆寺租税録』:全1巻。『秦公寺資材帳租税録』『大日本仏教全書』所収[8]。
- 『山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由起』:全1巻。『広隆寺来由記』とも。『大日本仏教全書』所収[9]。『群書類従』24輯所収。
- 『広隆寺并同桂宮院領当知行文書』:全1巻。『大日本仏教全書』所収[10]。
- 『京太秦広隆寺大略縁起』:全1巻。『大日本仏教全書』所収[11]。
- 『広隆寺別当補任次第』:大谷大学所蔵
- 『広隆寺供養日記』:1165年(永万1年)再建時の経緯。『続群書類従』27輯上所収。
- 『広隆寺資財交替実録帳』:『続群書類従』27輯上所収。
- 「山城国太秦広隆寺鐘銘」:『集古十種』所収[12]。『扶桑鐘銘集』所収[13]
- 『太秦広隆寺牛祭祭文』:『大日本仏教全書』所収[14]
- 『広隆寺文書』:中世文書。京都府立京都学・歴彩館所蔵。中集古S123。
文献
- 橋川正1923『太秦広隆寺史』京都太秦聖徳太子報徳会本部
- 望月信成1963『広隆寺』山本湖舟写真工芸部
- 水沢澄夫1965『広隆寺』中央公論美術出版
- 1977『古寺巡礼京都13広隆寺』
- 1988『太秦広隆寺』広隆寺
- 2002『国宝広隆寺の仏像』全9冊
- 林南壽2003『廣隆寺史の研究』