ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

弥生神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年3月17日 (金)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?資料)
 
(間の26版分が非表示)
1行: 1行:
[[ファイル:弥生慰霊堂-09.jpeg|thumb|500px|現在の弥生慰霊堂]]
[[ファイル:弥生慰霊堂-09.jpeg|thumb|500px|現在の弥生慰霊堂]]
'''弥生神社'''(やよい・じんじゃ)は、東京都千代田区北の丸公園にあった川路利良など殉職警察官を祀る[[招魂社]]・[[霊社]]。現在は'''弥生慰霊堂'''となっている。[[事故災害殉難者奉斎招魂社]]。
'''弥生神社'''(やよい・じんじゃ)は、東京都千代田区北の丸公園にあった川路利良など殉職警察官を祀る[[招魂社]]・[[霊社]]。現在は'''弥生慰霊堂'''となっている。[[事故災害殉難者奉斎招魂社]]。
-
「神社」と名乗るものの、内務省管轄下にはなく、神社行政上の神社ではなかったようだ。
+
「神社」と名乗るものの、内務省管轄下にはなく、神社行政上の神社ではなかったようだ。公認神社とする運動もあったが実らなかった。
 +
「弥生」の名は最初の鎮座地である東京府本郷区向ケ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)に由来する(同所は「弥生時代」の語源となる発見があった場所としても知られる)。
==祭神==
==祭神==
 +
[[ファイル:1932警視庁行幸記録・弥生神社-03.jpeg|thumb|300px| ]]
*川路利良
*川路利良
*ガンベッタ・グロース
*ガンベッタ・グロース
8行: 10行:
警察消防殉職者の祭神数の推移については資料により異なる。
警察消防殉職者の祭神数の推移については資料により異なる。
-
創建時は94柱とも88柱ともいう。また1886年(明治19年)の時点で43柱ともいう。
+
*創建時は94柱とも88柱ともいう。また1886年(明治19年)の時点で43柱ともいう。
-
1931年(昭和6年)の例祭で7柱を合祀し、祭神399柱となった(警察年鑑 昭和6年版)。
+
*1924年25柱合祀。合計352柱。1924『警察協会雑誌』290[https://dl.ndl.go.jp/pid/764228/1/16]
 +
*1931年(昭和6年)の例祭で7柱を合祀し、祭神399柱となった(警察年鑑 昭和6年版)。
弥生慰霊堂になってからだが、2004年(平成16年)の時点の合祀者は2512柱である。
弥生慰霊堂になってからだが、2004年(平成16年)の時点の合祀者は2512柱である。
==歴史==
==歴史==
 +
[[ファイル:1959警視庁史第1明治編・弥生神社.jpg|thumb|500px|1885年(明治18年)10月の向ケ岡での弥生神社鎮座祭を描いたとみられる絵画(1959警視庁史第1明治編より) ]]
 +
[[ファイル:1885警視庁令鑑・弥生神社・配置図.jpg|thumb|500px|向ケ岡時代の弥生神社周辺の配置図。弥生神社は現在の東京大学工学部9号館の西側部分あたりとみられる]]
 +
[[ファイル:1893東京景色写真版・弥生神社・弥生館.jpg|thumb|500px|芝公園にあった弥生館]]
 +
[[ファイル:1925大正大震火災誌・弥生神社-01.jpeg|thumb|500px|青山墓地時代の弥生神社]]
 +
[[ファイル:1932警視庁行幸記録・弥生神社-02.jpeg|thumb|500px|隼町時代の弥生神社]]
 +
[[ファイル:1953東京大空襲秘録写真集・弥生神社.jpg|thumb|500px|戦災で被災した隼町時代の弥生神社]]
 +
[[ファイル:1959自警・弥生廟・弥生神社.jpg|thumb|500px|「弥生廟」として現在地に遷座した時の社殿]]
 +
*1876年1月24日:射的場を上野から向ケ岡弥生町に移転[https://dl.ndl.go.jp/pid/785266/1/57]。5月受領[https://dl.ndl.go.jp/pid/785266/1/80]。
 +
*1877年1月10日:射的場竣工[https://dl.ndl.go.jp/pid/785266/1/80]。
 +
*1883年11月15日:弥生社講談会規則、制定[https://dl.ndl.go.jp/pid/785266/1/195]。
*1884年(明治17年)6月:方面監督津川顕蔵ら、「招魂碑」の創建を警視総監大迫貞清に上申する。
*1884年(明治17年)6月:方面監督津川顕蔵ら、「招魂碑」の創建を警視総監大迫貞清に上申する。
*1885年9月:招魂碑ではなく神社の創建が決定
*1885年9月:招魂碑ではなく神社の創建が決定
-
*1885年10月7日:向ケ丘弥生社内に竣工。
+
*1885年10月7日:向ケ丘弥生社内に鎮座[https://dl.ndl.go.jp/pid/791196/1/111][https://dl.ndl.go.jp/pid/785267/1/367]。
*1885年10月13日:祭神となる川路利良の命日が10月13日で、10月13~14日に合祀祭を斎行。以後、この2日間を例祭日とした。西南戦争で出征して戦死した警察職員は現[[靖国神社]]に祀られたが、その対象にはならない警察消防活動で殉じた職員の霊魂を弔慰することが目的だったという。
*1885年10月13日:祭神となる川路利良の命日が10月13日で、10月13~14日に合祀祭を斎行。以後、この2日間を例祭日とした。西南戦争で出征して戦死した警察職員は現[[靖国神社]]に祀られたが、その対象にはならない警察消防活動で殉じた職員の霊魂を弔慰することが目的だったという。
*1886年(明治19年):例祭は疫病が流行したため1カ月遅れで実施。本居豊穎([[本居家]]当主。[[神道大社教]]副管長)が斎主を務めている。
*1886年(明治19年):例祭は疫病が流行したため1カ月遅れで実施。本居豊穎([[本居家]]当主。[[神道大社教]]副管長)が斎主を務めている。
-
*1887年(明治20年)11月26日:芝に遷座。付属会館として三階建の洋館と演武場を建設したという。(『警察年鑑 昭和3年版』に1883年(明治16年)に弥生町に創建し、1885年(明治18年)に芝に遷座したとあるのは誤りか)
+
*1887年(明治20年)5月:弥生社が芝に移転。宝松院、最勝院、清光寺の用地があったが立ち退きさせた[https://dl.ndl.go.jp/pid/9641003/1/28]。向ケ岡の旧地は侯爵[[浅野家]]邸となった。
 +
*1887年(明治20年)11月26日:芝に遷座。[[芝東照宮]]の東に位置したという。付属会館として三階建の洋館(弥生館?)と演武場を建設したという。(『警察年鑑 昭和3年版』に1883年(明治16年)に弥生町に創建し、1885年(明治18年)に芝に遷座したとあるのは誤りか)
*1887年(明治20年)11月28日:皇太子([[大正天皇]])が行啓。
*1887年(明治20年)11月28日:皇太子([[大正天皇]])が行啓。
*1888年(明治21年)1月14日:[[明治天皇]]が行幸。
*1888年(明治21年)1月14日:[[明治天皇]]が行幸。
*1888年(明治21年)1月16日:昭憲皇太后が行啓。
*1888年(明治21年)1月16日:昭憲皇太后が行啓。
-
*1890年(明治23年)4月28日:警視庁鍛冶橋庁舎構内に遷座。
+
*1890年(明治23年)4月28日:警視庁鍛冶橋庁舎構内に遷座。弥生社は弥生館となり、[[浄土宗]]の宗務所、のち[[忠魂祠堂]]となった。[https://dl.ndl.go.jp/pid/9641003/1/28]
*1911年(明治44年)4月:警視庁の日比谷移転に際して弥生神社は[[青山墓地]]内の警視庁用地に遷座した。この警視庁用地は1879年(明治12年)9月2日に開設されたものであった。また消防庁では1912年(大正1年)11月1日に[[浅草寺]]に消防殉職者表彰碑を建立した。
*1911年(明治44年)4月:警視庁の日比谷移転に際して弥生神社は[[青山墓地]]内の警視庁用地に遷座した。この警視庁用地は1879年(明治12年)9月2日に開設されたものであった。また消防庁では1912年(大正1年)11月1日に[[浅草寺]]に消防殉職者表彰碑を建立した。
*1931年(昭和6年)2月、麹町区隼町(現千代田区隼町)の警視庁新官舎の敷地中央に神明造の社殿(現在の社殿)を造営。10月13日に遷座した。
*1931年(昭和6年)2月、麹町区隼町(現千代田区隼町)の警視庁新官舎の敷地中央に神明造の社殿(現在の社殿)を造営。10月13日に遷座した。
31行: 45行:
(主に『警視庁史 明治編』、「弥生慰霊祭」による)
(主に『警視庁史 明治編』、「弥生慰霊祭」による)
 +
==所在地変遷==
==所在地変遷==
-
*1向ケ丘:1885年(明治18年)10月13日〜
+
*1向ケ岡弥生町:1885年(明治18年)10月13日〜:現在の東京大学工学部9号館の西側部分あたりか[https://dl.ndl.go.jp/pid/11199815/1/106]
-
*2芝:1887年(明治20年)11月26日〜
+
*2芝:1887年(明治20年)11月26日〜:現在の港区立芝公園多目的運動場あたりか
-
*3鍛冶橋:1890年(明治23年)4月28日〜
+
*3鍛冶橋:1890年(明治23年)4月28日〜:警視庁
-
*4青山墓地:1911年(明治44年)4月〜
+
*4青山墓地:1911年(明治44年)4月〜:[[青山墓地]]
-
*5隼町:1931年(昭和6年)10月13日〜
+
*5隼町:1931年(昭和6年)10月13日〜:警視庁
-
*6北の丸公園:1947年(昭和22年)10月13日〜
+
*6北の丸公園:1947年(昭和22年)10月13日〜:警察学校九段分校跡
==画像==
==画像==
57行: 72行:
ファイル:B10EAEC9-7F5E-4ACF-8932-6A8C3DF69641.jpeg|(国土地理院空中写真より)
ファイル:B10EAEC9-7F5E-4ACF-8932-6A8C3DF69641.jpeg|(国土地理院空中写真より)
</Gallery>
</Gallery>
 +
<gallery widths="300" heights="300" perrow="3">
 +
file:1959警視庁史第1明治編・弥生神社.jpg|向ケ丘での鎮座祭を描いたとみられる絵画(著作権未確認)(1959警視庁史第1明治編より)
 +
file:1934新聞写真年鑑・弥生神社祭典.jpg| ‎弥生神社祭典
 +
file:1925大正大震火災誌・弥生神社-06.jpeg|弥生神社祭典
 +
file:1925大正大震火災誌・弥生神社-05.jpeg|弥生神社祭典
 +
file:1925大正大震火災誌・弥生神社-04.jpeg|弥生神社祭典
 +
file:1925大正大震火災誌・弥生神社-03.jpeg|弥生神社祭典
 +
file:1925大正大震火災誌・弥生神社-02.jpeg|弥生神社祭典
 +
file:1925大正大震火災誌・弥生神社-01.jpeg|青山墓地時代の弥生神社
 +
file:1932警視庁行幸記録・弥生神社-03.jpeg|弥生神社合祀者名簿
 +
file:1932警視庁行幸記録・弥生神社-01.jpeg|青山墓地時代の弥生神社
 +
file:1932警視庁行幸記録・弥生神社-02.jpeg|隼町時代の弥生神社
 +
</gallery>
==資料==
==資料==
-
*1895本居豊頴「弥生神社例祭詞」『諄辞集』
+
*1895本居豊頴「弥生神社例祭詞」『諄辞集』[https://dl.ndl.go.jp/pid/815970/1/67]
-
*1953「警視庁青山霊園記」『自警』35-6
+
*1953「警視庁青山霊園記」『自警』35-6[https://dl.ndl.go.jp/pid/2706586/1/50]
-
*1958『警視庁史 明治編』
+
*1958『警視庁史 明治編』「弥生神社の鎮座」[https://dl.ndl.go.jp/pid/3035536/1/145]
-
*1974『警視庁百年の歩み』
+
*1974『警視庁百年の歩み』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9634387/1/223][https://dl.ndl.go.jp/pid/9634387/1/227]
*1998『東京消防庁五十年のあゆみ』
*1998『東京消防庁五十年のあゆみ』
*2004「弥生慰霊祭」
*2004「弥生慰霊祭」
*1892『東京名所鑑』「弥生神社」[https://dl.ndl.go.jp/pid/764228/1/16]
*1892『東京名所鑑』「弥生神社」[https://dl.ndl.go.jp/pid/764228/1/16]
-
 
+
*1969「弥生廟に思う」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2706780/1/32]
[[Category:東京都]]
[[Category:東京都]]

2023年3月17日 (金) 時点における最新版

現在の弥生慰霊堂

弥生神社(やよい・じんじゃ)は、東京都千代田区北の丸公園にあった川路利良など殉職警察官を祀る招魂社霊社。現在は弥生慰霊堂となっている。事故災害殉難者奉斎招魂社。 「神社」と名乗るものの、内務省管轄下にはなく、神社行政上の神社ではなかったようだ。公認神社とする運動もあったが実らなかった。 「弥生」の名は最初の鎮座地である東京府本郷区向ケ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)に由来する(同所は「弥生時代」の語源となる発見があった場所としても知られる)。

目次

祭神

1932警視庁行幸記録・弥生神社-03.jpeg
  • 川路利良
  • ガンベッタ・グロース
  • 警察消防殉職者

警察消防殉職者の祭神数の推移については資料により異なる。

  • 創建時は94柱とも88柱ともいう。また1886年(明治19年)の時点で43柱ともいう。
  • 1924年25柱合祀。合計352柱。1924『警察協会雑誌』290[1]
  • 1931年(昭和6年)の例祭で7柱を合祀し、祭神399柱となった(警察年鑑 昭和6年版)。

弥生慰霊堂になってからだが、2004年(平成16年)の時点の合祀者は2512柱である。

歴史

1885年(明治18年)10月の向ケ岡での弥生神社鎮座祭を描いたとみられる絵画(1959警視庁史第1明治編より)
向ケ岡時代の弥生神社周辺の配置図。弥生神社は現在の東京大学工学部9号館の西側部分あたりとみられる
芝公園にあった弥生館
青山墓地時代の弥生神社
隼町時代の弥生神社
戦災で被災した隼町時代の弥生神社
「弥生廟」として現在地に遷座した時の社殿
  • 1876年1月24日:射的場を上野から向ケ岡弥生町に移転[2]。5月受領[3]
  • 1877年1月10日:射的場竣工[4]
  • 1883年11月15日:弥生社講談会規則、制定[5]
  • 1884年(明治17年)6月:方面監督津川顕蔵ら、「招魂碑」の創建を警視総監大迫貞清に上申する。
  • 1885年9月:招魂碑ではなく神社の創建が決定
  • 1885年10月7日:向ケ丘弥生社内に鎮座[6][7]
  • 1885年10月13日:祭神となる川路利良の命日が10月13日で、10月13~14日に合祀祭を斎行。以後、この2日間を例祭日とした。西南戦争で出征して戦死した警察職員は現靖国神社に祀られたが、その対象にはならない警察消防活動で殉じた職員の霊魂を弔慰することが目的だったという。
  • 1886年(明治19年):例祭は疫病が流行したため1カ月遅れで実施。本居豊穎(本居家当主。神道大社教副管長)が斎主を務めている。
  • 1887年(明治20年)5月:弥生社が芝に移転。宝松院、最勝院、清光寺の用地があったが立ち退きさせた[8]。向ケ岡の旧地は侯爵浅野家邸となった。
  • 1887年(明治20年)11月26日:芝に遷座。芝東照宮の東に位置したという。付属会館として三階建の洋館(弥生館?)と演武場を建設したという。(『警察年鑑 昭和3年版』に1883年(明治16年)に弥生町に創建し、1885年(明治18年)に芝に遷座したとあるのは誤りか)
  • 1887年(明治20年)11月28日:皇太子(大正天皇)が行啓。
  • 1888年(明治21年)1月14日:明治天皇が行幸。
  • 1888年(明治21年)1月16日:昭憲皇太后が行啓。
  • 1890年(明治23年)4月28日:警視庁鍛冶橋庁舎構内に遷座。弥生社は弥生館となり、浄土宗の宗務所、のち忠魂祠堂となった。[9]
  • 1911年(明治44年)4月:警視庁の日比谷移転に際して弥生神社は青山墓地内の警視庁用地に遷座した。この警視庁用地は1879年(明治12年)9月2日に開設されたものであった。また消防庁では1912年(大正1年)11月1日に浅草寺に消防殉職者表彰碑を建立した。
  • 1931年(昭和6年)2月、麹町区隼町(現千代田区隼町)の警視庁新官舎の敷地中央に神明造の社殿(現在の社殿)を造営。10月13日に遷座した。
  • 1946年(昭和21年)10月、有志が「弥生廟奉賛会」を設立。
  • 1947年(昭和22年)10月13日、警視庁警察学校があった北の丸公園の現在地に遷座。「弥生廟」と改称。
  • 1983年(昭和58年)9月、弥生廟、「弥生慰霊堂」に改称。奉賛会も「弥生奉賛会」と改称した。以後、「無宗教形式」で行事を行う。

現在の社殿は、吹抜け土間の拝殿と、神明造りの本殿である。慰霊祭当日には、日本武道館にて記念行事として剣道試合などが行われている。

(主に『警視庁史 明治編』、「弥生慰霊祭」による)

所在地変遷

  • 1向ケ岡弥生町:1885年(明治18年)10月13日〜:現在の東京大学工学部9号館の西側部分あたりか[10]
  • 2芝:1887年(明治20年)11月26日〜:現在の港区立芝公園多目的運動場あたりか
  • 3鍛冶橋:1890年(明治23年)4月28日〜:警視庁
  • 4青山墓地:1911年(明治44年)4月〜:青山墓地
  • 5隼町:1931年(昭和6年)10月13日〜:警視庁
  • 6北の丸公園:1947年(昭和22年)10月13日〜:警察学校九段分校跡

画像

資料

  • 1895本居豊頴「弥生神社例祭詞」『諄辞集』[11]
  • 1953「警視庁青山霊園記」『自警』35-6[12]
  • 1958『警視庁史 明治編』「弥生神社の鎮座」[13]
  • 1974『警視庁百年の歩み』[14][15]
  • 1998『東京消防庁五十年のあゆみ』
  • 2004「弥生慰霊祭」
  • 1892『東京名所鑑』「弥生神社」[16]
  • 1969「弥生廟に思う」[17]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール