ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
当麻寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
当麻寺
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
'''当麻寺'''(たいまでら)は、奈良県葛城市にある[[浄土教]]・[[南都仏教]]の寺院。[[葛城山]]の二上山の東麓に位置する。大和国葛下郡。現在は[[当麻曼荼羅]]が本尊だが、元は[[弥勒如来]]を本尊としていたという。[[中将姫]]の伝説で知られる。元は当麻氏の氏寺だったとみられている。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。[[当麻寺中之坊|中之坊]]などの[[高野山真言宗]]の寺院と[[当麻寺奥院|奥院]]などの[[浄土宗知恩院派]]の寺院により、護持されている。'''禅林寺'''、'''万法蔵院'''ともいう。山号は二上山。 == 歴史 == ===創建=== 創建ははっきりしないが、推古20年(612)、[[用明天皇]]皇子の麻呂子皇子(生没年不詳、当麻皇子)が兄の[[聖徳太子]]の教えを受けて二上山の西麓の河内国山田に創建したという。現在、[[科長神社]]のそばに当麻寺旧地と伝える寺院跡がある。 当麻国見が現在地に移転。土地は[[役小角]]が寄進したと伝える。天武9年に着工し、天武13年に竣工したという(天武10年ともいう)。当初の伽藍は通常の古代寺院と同じく南面し、竹内街道に面していた。日本[[三論宗]]初伝の恵灌(生没年不詳)を導師として落慶法要を行ったという。以後、三論宗寺院となる。当初の本尊は[[弥勒如来]]。この弥勒像は現存し、菩薩形ではなく如来形を取る。弥勒像の中には役小角が祀った[[孔雀明王]]を納めたと伝える。麻呂子皇子の子孫の当麻氏が氏寺とした。 ===古代=== 天平宝字7年(763)、[[中将姫]]が蓮の糸で観無量寿経変相図、いわゆる[[当麻曼荼羅]]を織り上げたという。 中院(現在の[[当麻寺中之坊]])を創建した実雅は中将姫の師僧とされる。 弘仁14年(824)、[[空海]]が参籠したとの伝承もある。中院の実弁が空海に帰依して当麻寺は[[真言宗]]になったという。 東塔は奈良時代に建立。西塔は奈良時代末から平安時代初頭に建立され、曼荼羅堂の前身堂も西塔と同じ頃の建立とみられている。 ===中世=== 平安時代後期には大和国の他の寺院と同様に[[興福寺]]末となり、[[一乗院門跡]]の支配下に置かれた。 全国的な[[浄土教]]の興隆と共に中将姫と当麻曼荼羅の伝承が広まる。現在も行われている聖衆来迎練供養会式は寛弘2年(1005)に当麻郷出身の天台宗僧[[源信]]が始めたという。既に比叡山で始めていた行事を故郷に導入した。 応保元年(1161)頃、曼荼羅堂が大改造され現在の形となり、寺院の中心となった。南北を中心軸とする古代伽藍を残しつつ、西方浄土を拝む形となる曼荼羅堂が中心に境内が再編成。他に類を見ない伽藍配置を形成した。治承4年(1180)の[[平氏]]の南都焼討と同時に当麻寺も襲撃され、一部の伽藍を失った。金堂は元暦元年(1184)に再建。講堂は遅れて嘉元元年(1303)に再建されて現存する。鎌倉時代初期の建保5年(1227)、当麻曼荼羅の写本(建保本、現存せず)が製作されている。仁治3年(1242)、曼荼羅堂の厨子が改造され、懸垂方式から板貼り方式に改められた。 多くの[[浄土教]]の祖師が参詣したが、もっとも重要なのは浄土宗[[西山派]]派祖の[[証空]]の活動である。寛喜元年(1229)に参詣し、曼荼羅に感激した証空は門下で曼陀羅相承の伝授を始めた。証空は当麻曼荼羅の縮小写本を[[善光寺]]など各地に納め、当麻曼荼羅を称揚して全国的な普及に一役買った。[[時宗]]開祖[[一遍]]は弘安9年(1286)に参詣。[[融通念仏宗]]中興の[[法明良尊]](1279-1349)も参詣して名帳を納めたという。 応安3年(1370)、[[知恩院]]12世誓阿が塔頭往生院を創建。誓阿は知恩院の本尊御影像と『法然上人絵伝』を移したと伝えるが不詳。のち「知恩院の奥之院」を名乗って[[当麻寺奥院]]と称した。以後、当麻寺は真言宗と浄土宗の両属となった。文亀2年(1502)、建保本曼荼羅から新たに文亀本が書写された。享禄4年(1531)、寺僧の願で『当麻寺縁起絵巻』を製作。また当麻国行を祖とする当麻派(たえまは)という刀工の一派が当麻寺に属した。 ===近世=== 300石を領した。 延宝5年(1677)、厨子から根本曼荼羅が剥がされ、断片化したものが別の絹地に貼られ、掛幅装とされた。 貞享2年(1685)、本尊写本が製作された(貞享本)。 江戸時代中期に興福寺末を離れた(国史大辞典)。 (『日本歴史地名大系』、『国史大辞典』、中之坊ウェブサイト、奥院ウェブサイトほか) ==伽藍== *本堂:曼荼羅堂。当麻曼荼羅を祀る。原図を根本曼荼羅と呼び現存するが、現在本堂にあるのは文亀本曼荼羅。裏側には根本曼荼羅を剥がした痕跡が残る「秘仏裏板曼荼羅」がある。当麻曼荼羅を納める厨子は天平時代の製作とみられている。堂内には織姫観音、中将姫、阿弥陀如来、空海、役小角などを祀る。本堂の下には5世紀頃の古墳が発見されている。 *金堂:弥勒如来を祀る。当初の本堂。 *講堂:阿弥陀如来を祀る。 *東塔:三重塔。大日如来を祀る。 *西塔:三重塔。大日如来を祀る。 *薬師堂: *大師堂:空海を祀る御影堂。 *糸繰堂: *仁王門:東大門 *娑婆堂:来迎会の時は本堂から娑婆堂まで仮設の橋が架けられる。 *[[当麻山口神社]]:元は境内にあったか(当麻寺古図)。 *菅原神社:仁王門の門前にある。 *影向石:役小角が修法した石。[[四天王]]が飛来し、[[一言主神]]や龍神が現れたという。 ==塔頭== *[[当麻寺中之坊|中之坊]]:真言宗。剃髪堂。稲荷社。龍王社(二上山雌岳から遷座という)。足跡石。 *松室院: *不動院: *西南院: *竹之坊: *[[当麻寺奥院|奥院]]:浄土宗。本堂御影堂の本尊は[[法然]]。阿弥陀堂と並ぶ。[[法然上人二十五霊場]]第9番札所。[[西山国師遺跡霊場]]第14番札所。 *護念院: *念仏院: *来迎院: *紫雲院: *極楽院: *千仏院: *宗胤院: ==資料== ===古典籍=== *『古今著聞集』:当麻曼荼羅の由来を載せる *『元亨釈書』 *『当麻寺縁起』(『上宮太子拾遺記』引用) *『当麻寺流記』 *証空『当麻曼荼羅註記』 *証空『当麻曼荼羅供式』 *証空『曼荼羅八講論義抄』 *昌道『当麻曼荼羅科節』 *証恵『当麻曼荼羅縁起』 *顕意『当麻曼荼羅聞書』 *『当麻曼荼羅縁起絵巻』 *酉誉聖聡『当麻曼荼羅疏』 *回隆『当麻曼陀羅注記略鈔』 *義山『当麻曼陀羅述奨記』 *大順『当麻曼荼羅捜玄疏』 *当麻寺文書 ===芸能=== *能『当麻』(たえま):世阿弥作。 ===文献=== *東京美術学校編『当麻寺大鏡』 *『大和古寺大観』2 *『国宝当麻寺本堂修理工事報告書』 *『国宝綴織当麻曼荼羅』 *『大和当麻寺銘文集』 [[Category:奈良県]]
当麻寺
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ