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後嵯峨天皇陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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後嵯峨天皇は、亀山殿の別院薬草院で火葬され、亀山殿に隣接していた浄金剛院に法華堂が建立されて納骨された。亀山天皇も亀山殿の裏山で火葬され、同法華堂に納骨された。浄金剛院の古図には法華堂が記されている(天龍寺蔵『山城国嵯峨亀山殿近辺屋敷地指図』)。しかし、足利尊氏による天龍寺創建により、亀山殿跡地周辺は大幅に区画整理をされ、浄金剛院も廃絶し、陵墓は所在不明となった。 文久の修陵に際して、谷森は地名から考証して、陵墓旧地を確定した。同地にあった舎利殿と経蔵を撤去し、新たに法華堂2堂を建立し、「浄金剛院法華堂」と称した。 1906年(明治39年)3月23日、従来、「嵯峨殿法華堂」「亀山殿法華堂」と称してきたが、「嵯峨陵」「亀山陵」と改称した(明治天皇紀)。「嵯峨陵」はのち「嵯峨南陵」と改称された。 後嵯峨天皇・亀山天皇の火葬塚が天龍寺の西側に治定されている。文久の修陵で区画化され、周堀と外堤が造営された。しかし、両天皇が火葬された場所は本来は別の場所であるはずである。 文久山陵図227

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