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後村上天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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天皇は、住吉で崩御したが、行宮であった[[観心寺]]に葬られた。陵は小塚で、室町時代には、陵前には拝殿が設けられ、法華堂も建てられていたという(1378『観心寺参詣諸堂巡礼記』)。塔などはなく、椿の木が陵墓の目標となっていた。頭の位置に植えられていたという。現在も椿の木が植えられている。文久の修陵以降、「檜尾山陵」と呼ばれたが、のちに改名。文久山陵図218 | 天皇は、住吉で崩御したが、行宮であった[[観心寺]]に葬られた。陵は小塚で、室町時代には、陵前には拝殿が設けられ、法華堂も建てられていたという(1378『観心寺参詣諸堂巡礼記』)。塔などはなく、椿の木が陵墓の目標となっていた。頭の位置に植えられていたという。現在も椿の木が植えられている。文久の修陵以降、「檜尾山陵」と呼ばれたが、のちに改名。文久山陵図218 | ||
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2014年8月24日 (日) 時点における版
天皇は、住吉で崩御したが、行宮であった観心寺に葬られた。陵は小塚で、室町時代には、陵前には拝殿が設けられ、法華堂も建てられていたという(1378『観心寺参詣諸堂巡礼記』)。塔などはなく、椿の木が陵墓の目標となっていた。頭の位置に植えられていたという。現在も椿の木が植えられている。文久の修陵以降、「檜尾山陵」と呼ばれたが、のちに改名。文久山陵図218