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心地覚心旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''心地覚心'''(しんち・かくしん)(1207-1298)は、[[臨済宗]]の入宋僧。信濃出身。常澄氏。[[高野山]]の[[退耕行勇]]に師事。入宋して[[杭州]][[護国仁王寺]]の'''無門慧開'''に学ぶ。[[興国寺]]、京都[[妙光寺]]の開山。[[法燈派]]の祖。高野聖の祖ともされる。日本[[普化宗]]の開祖とされる。'''無本覚心'''、'''法燈円明国師'''。 ==年譜== *1207年:誕生。信濃出身。[[福応寺]]が伝承地。 *1221年:[[戸隠]]の神宮寺(?)の忠学について仏書を習う。 *1225年:[[東大寺]]で受戒(1235年とも)。[[高野山]]に修学し、[[退耕行勇]]に師事。 *1239年:退耕行勇に従い、鎌倉[[寿福寺]]に移る。 *1242年:[[京都極楽寺]]で[[道元]]から菩薩戒を受戒。 *1247年:[[上野長楽寺]]の栄朝に参禅。 *1248年:甲斐心行寺の生蓮に参禅。 *1248年夏:草河勝林寺の天祐思順に参禅。この頃、入宋を志す。 *1249年初頭:紀伊由良浦から九州に渡る。 *1249年3月:博多から入宋。[[径山]]の癡絶道冲に師事。[[杭州護国寺]]の無門慧開から嗣法 *1254年3月:無門慧開から『月林録』『無門関』の両録と頂相を授かる。 *1254年6月:帰国。博多に到着。[[高野山]][[金剛三昧院]]に入る。 *1258年:金剛三昧院長老となる。 *1258年:願性(葛山景倫)の招きで源実朝の菩提寺として[[興国寺]]を創建。 *1260年:無門慧開から皇帝御前陞座の法衣と東山七葉図を贈られる。 *1266年:帰郷し母に孝養 *1268年:鎌倉寿福寺に招かれるが応じず。 *1281年:[[亀山上皇]]の招請で、京[[勝林寺]]で禅要を説く。[[後宇多天皇]]は[[禅林寺]]に招くが辞する *1285年:空岩心性と花山院師信の兄弟に京都[[妙光寺]]の開山に招かれる *1294年:退耕行勇の位牌を興国寺祖堂に納めて自らは2世とする *1298年4月:興国寺規法を定める *1298年10月13日:死去 *亀山法皇、勅諡「法燈禅師」号を下賜。 *後醍醐天皇、追諡して「法燈円明国師」号を下賜。 == 一覧 == *[[福応寺]]:長野県松本市神林。生誕地。高野山真言宗。 *[[興国寺]]: *[[妙光寺]]: *[[高野山]]: *[[金剛三昧院]]: *草河勝林寺:現在の[[南禅寺]]のあたりにあった。 *[[護国仁王寺]]:浙江省杭州市西湖区曙光路。 *[[径山寺]]: *[[開福寺]]: [[Category:人物旧跡]]
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