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忌宮神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
忌宮神社
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[[File:忌宮神社-11.jpg|拝殿|thumb|500px]] '''忌宮神社'''(いみのみや・じんじゃ)は山口県下関市長府宮の内町(長門国豊浦郡)にある神社。祭神は[[仲哀天皇]]、[[神功皇后]]、[[応神天皇]]。仲哀天皇行宮の[[豊浦宮]]旧跡という。[[八幡信仰]]との関係も深く'''二宮八幡'''とも呼ばれた。。[[官社]]。長門国[[二宮]]。[[国幣小社]]。[[神社本庁]][[別表神社]]。 数方庭祭(8月7日~13日の毎夜)や御斎神事(12月7日夕~15日暁)などの特殊神事が知られる。例祭は12月15日。 ==歴史== [[ファイル:忌宮神社-17.jpg|thumb|300px|忌宮神社境内に建つ「豊浦皇居跡」碑]] *仲哀天皇2年6月:[[仲哀天皇]]、九州の熊襲征討のため、長門国に入る(日本書紀)。 *仲哀天皇2年7月5日:[[神功皇后]]、豊浦津に滞在した時、海中から[[如意珠]]を得た(日本書紀)。 *仲哀天皇2年9月:仲哀天皇、[[皇宮]]を建て[[穴門豊浦宮]]と称す(日本書紀)。 *仲哀天皇9年2月:仲哀天皇、[[筑紫橿日宮]]([[香椎宮]])で崩御。豊浦宮の近くに[[仲哀天皇殯斂地|殯宮]]を設けた(日本書紀)。 *神功皇后1年2月:新羅から凱旋した神功皇后、穴門豊浦宮で仲哀天皇の遺骸を収めて大和に向かった(日本書紀)。社伝によると、この時、豊浦宮に仲哀天皇の神霊を奉斎したのが忌宮神社の起源だという。 *神功皇后2年11月:仲哀天皇、河内の[[仲哀天皇陵|長野陵]]に埋葬。 *聖武天皇代:神功皇后を奉斎して忌宮と称し、[[応神天皇]]を祀り豊明宮と称した。三殿別立していた。 *873年(貞観15年)12月15日:長門国「忌宮神」を[[神階]]従五位下から従五位上に昇叙。(三代実録) *927年(延長5年):『延喜式』で小社。 *1309年(延慶2年):焼失。 *1326年(嘉暦1年)12月20日:幕府、長門警固所領になっていた社領を復帰させるように命じる *1328年(嘉暦3年):火災。 *1336年(延元1年/建武3年)4月:[[足利尊氏]]、戦勝祈願(梅松論)。 *1337年(延元2年/建武4年)11月15日:足利尊氏、法楽2首を献詠した。「長門国神宮皇后之社壇」とある。 *1351年(正平6年/観応2年):綸旨で極楽寺(現[[日頼寺]])を仲哀天皇聖跡であるから祈願所とする。 *南北朝時代:今川貞世が参詣。『道ゆきぶり』に「松原をはるかに行過て長門国府になりぬ」「このさと一むらすぎて神功皇后宮の御社の前に出たり。御やしろは南に向たり」とある。神功皇后の神社と認識されていたことが分かる。 *1581年(天正9年):「二宮御神事御能法度」 *1634年(寛永11年)10月17日:焼失。 *1636年(寛永13年):この時点で85石。 *1671年(寛文11年):仮殿造営。 *1848年(嘉永1年):荒熊稲荷神社を現在地に遷座。 *1868年(明治1年):境内に[[豊功神社]]を創建。 *1873年(明治6年):[[県社]]列格(大日本神社志[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1264534/58]) *1876年(明治9年):焼失。 *1877年(明治10年)6月:社殿造営 *1902年(明治35年):日頼寺の殯斂地、[[宮内省]]の所管となる(国史大辞典) *1904年(明治37年)4月:1911年(明治44年)2月にかけて境内の八坂神社に周辺の神社を合祀 *1915年(大正4年):木造宝物館建設。 *1916年(大正5年)12月12日:県社から国幣小社に列格(内務省告示78号[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953422/1]) *1917年(大正6年):豊功神社、松崎八幡宮に遷座合祀して豊功神社となる。 *1955年(昭和30年)5月:「豊浦皇居跡」碑建立。 *1971年(昭和46年):コンクリート造の宝物館を再建。 *1972年(昭和47年):惣社宮、忌宮神社に合祀。 *1980年(昭和55年):惣社宮、現在地に遷座。 ==境内== {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|格式 !style="width:10%;"|神社名 !style="width:20%;"|祭神 !style="width:20%;"|所在地 !style="width:45%;"|概要 |- |本社 |忌宮神社 |[[仲哀天皇]]・[[神功皇后]]・[[応神天皇]] |本社 |現在の社殿は1877年(明治10年)6月に造営し、改修したもの。 |- |別宮 |若宮社 |[[仁徳天皇]] |本社西隣 | |- |別宮 |高良社 |[[地主大神]]・[[武内宿禰]] |本社東隣 | |- |摂社 |八坂神社 |[[牛頭天王信仰|八坂神社]]、[[春日神社]]、[[日吉神社]]、[[三島神社]]、印内神社、[[大歳神社]]2社、[[恵比寿神社]]、[[人丸神社]]、[[貴船信仰|貴船神社]]2社、[[塩竈信仰|塩竈神社]]、河内神社ほか |境内西側 |明治初年に秋葉神社など合祀。さらに1904年(明治37年)4月から1911年(明治44年)2月にかけて周辺の神社が合祀された。社殿は野久留米の塩竈神社の旧社殿。 |- |摂社 |[[長門・惣社宮|惣社宮]] |[[大己貴神]]・[[天神地祇]] |山口県下関市長府惣社町 |長門国[[総社]]。守護館(現・長府毛利邸)付近に祀られていたが、1965年(昭和40年)代に忌宮神社に一時合祀された。1980年(昭和55年)現在地に遷座。 |- |摂社 |守宮司神社 |応神天皇 |山口県下関市長府惣社町 |創建由緒など不詳。御斎神事に関わりの深い神社。 |- |末社 |荒熊稲荷神社 |[[宇迦之御魂大神]]・[[厳島社]] |境内東側 |文化文政年間、毛利元義が参勤交代で江戸から帰る途中、伏見稲荷大社から分霊を奉じて祀ったのが始まり。1848年(嘉永1年)現在地に遷座した。1990年(平成2年)11月、社殿造営。奉納相撲が行われている。厳島社(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)を配祀。 |- |その他 |逆松 | |境内東側 |神功皇后の手植えの松という。神功皇后が三韓出兵に際して七日七夜神々に祈願し、戦勝を占って松の若木を逆さまにして植えたところ繁り栄えた。明治初年に枯死。 |- |その他 |鬼石 | |広庭 |日本に攻めてきた塵輪という名の新羅の武将を討ち取り、首を埋めてその上に石を置いたもの。塵輪の顔が鬼に似ていたため鬼石と呼んだという。歓喜の余り、塵輪の遺体のまわりを踊り廻ったのが数方庭行事の起源という。 |- |その他 |宿禰公孫樹 | |広庭 |武内宿禰の手植えのイチョウという。 |- |その他 |豊浦皇居跡碑 | |境内西側 |[[穴門豊浦宮]]の記念碑。1955年(昭和30年)5月建立。 |- |その他 |[[満干島]] | |山口県下関市長府沖 |長府沖合に浮かぶ二つの島。満珠島と干珠島。忌宮神社の飛地境内。神功皇后が豊浦津に泊まった時に満珠・干珠の如意の珠を得た場所、あるいは新羅凱旋の時に如意の珠を収めた場所という。[[如意宝珠信仰]]。神社の古地図では陸に近い島を「満珠島」、遠い島を「干珠島」と呼ぶが、文化財指定では呼称が逆になっている。 |- |関連 |[[仲哀天皇殯斂地]] |仲哀天皇 |山口県下関市長府侍町 |宮内庁管理。 |} ==組織== ===大宮司=== 武内家(竹内、竹中とも)が世襲。名前からして[[武内宿禰]]の末裔か。 ===宮司=== *吉村清享(1873-1929)<1915-1918>:山口県出身の神職。1915年(大正4年)12月22日から1918年(大正7年)10月28日まで忌宮神社宮司。(略歴は[[長田神社#組織]]を参照) *礒部稜威雄 *鳴瀬嘉貞 *宮崎義敬 *松島浅之助 *磯部正明 <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> File:忌宮神社・東参道_(1).jpg|東参道 File:忌宮神社-02.jpg|東参道鳥居の扁額 File:忌宮神社・東参道_(2).jpg|東参道 File:忌宮神社・南参道_(1).jpg|南参道 File:忌宮神社・南参道_(2).jpg|南参道 file:iminomiya-jinja_001.jpg|南参道の鳥居 file:iminomiya-jinja_005.jpg|神門と鬼石 File:忌宮神社-25.jpg|鬼石 File:忌宮神社・東参道_(3).jpg|神門 File:忌宮神社-09.jpg|拝殿 File:忌宮神社-10.jpg|拝殿扁額 File:忌宮神社・本殿_(1).jpg|本殿 File:忌宮神社・本殿_(2).jpg|本殿 File:忌宮神社-16.jpg|高良社 File:忌宮神社-15.jpg|若宮社 File:忌宮神社-08.jpg|回廊 File:忌宮神社-14.jpg|荒熊稲荷神社 File:忌宮神社-17.jpg|「豊浦皇居跡」碑。1955年(昭和30年)5月建立。 file:iminomiya-jinja_002.jpg|「豊浦皇居跡」碑 File:忌宮神社-06.jpg|宿禰公孫樹 File:忌宮神社-19.jpg|神木「逆松」 </Gallery> <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> File:忌宮神社・石碑_(1).jpg| File:忌宮神社・石碑_(2).jpg|「熊野則之君紀念之碑」。1887年(明治20年)建立。 File:忌宮神社・石碑_(3).jpg|「蚕種渡来之地」碑。 File:忌宮神社・石碑_(4).jpg|「天長地久」碑 File:忌宮神社・歳男の燈籠_(1).jpg|歳男の燈籠 File:忌宮神社・歳男の燈籠_(2).jpg|歳男の燈籠 </Gallery> <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> File:忌宮神社・惣社宮_(2).jpg|惣社宮 File:忌宮神社・惣社宮.jpg|惣社宮 File:忌宮神社・惣社宮旧地.jpg|惣社宮旧地 File:忌宮神社・満干島-01.jpg|[[豊功神社]]から見た満干島 File:忌宮神社・満干島-02.jpg|満干島 File:忌宮神社・満干島-03.jpg|満干島 File:忌宮神社・満干島-04.jpg|満干島 </gallery> ==資料== *長門二宮忌宮神社文書 *紙本墨書豊浦宮法楽和歌 *忌宮神社境内絵図 *忌宮神社神事能規則書 *旧長府藩能舞台桟敷割図 *『官国幣社特殊神事調』「忌宮神社」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441772/88] *小川信1985「中世の長門府中と守護館・守護代所―「忌宮神社境内絵図」による景観復原を中心として」『国史学』127 *山村亜希2000「『忌宮神社境内絵図』における空間表現」『日本中世都市の空間構造に関する歴史地理学的研究』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3182828/45] *山村亜希2000「南北朝期長門国府の構造とその認識」[https://doi.org/10.4200/jjhg1948.52.217] *宮田尚・倉本昭2004「下関市忌宮神社蔵連歌百韻懐紙天保編2」『地域文化研究』 *佐々木孝浩2012「長門忌宮神社大宮司竹中家の文芸―未詳家集断簡から見えてくるもの」[https://doi.org/10.24604/chusei.57_4] [[category:山口県]]
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