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志々伎神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
志々伎神社
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'''志々伎神社'''(しじき・じんじゃ)は長崎県平戸市野子町(肥前国松浦郡)にある神社。祭神は[[十城別王]]。志々伎山山頂の上都宮(上宮)、中腹の中都宮(中宮)、その北西の辺都宮(下の宮、地の宮)、沖ノ島の沖都宮の4社から構成。別当は[[真言宗]]円満寺。[[官社]]。[[県社]]。'''志々岐神社'''。'''志自岐宮'''。[[田島神社]]を'''上松浦明神'''と呼ぶのに対して'''下松浦明神'''と呼んだ。 == 歴史 == 平戸島の西南端の志々伎山にある。[[神功皇后]]が三韓出兵の帰りにこの地に留まった時、仲哀天皇の弟の十城別王も警護した。十城別王の墓が山頂に築かれた(上都宮)。 のち738年(天平10年)、十城別王の神霊を祀ったのが神社の起源。811年(弘仁2年)、王の木像を祀って志々岐神社と称した。『三代実録』によると860年(貞観2年)2月8日、従五位上。同書では873年(貞観15年)9月16日正五位下、876年(貞観18年)6月8日、従五位上から正五位下とあり、順序が混乱している。 中都宮は最初山頂近くにあったが1559年(永禄2年)中腹に遷座。別当円満寺が隣接する。辺都宮は時代が遡るが『肥前国風土記』に「志式嶋之行宮」とある[[景行天皇]]の行在所が前身という。沖都宮は十城別王の最初の上陸地という。 1869年(明治2年)、神仏分離で円満寺が廃絶。1870年(明治3年)沖都宮を改築。1873年(明治6年)武器庫になっていた辺都宮を社殿に戻した。1874年(明治7年)郷社。1881年(明治14年)11月県社。1961年(昭和36年)円満寺跡に中都宮を遷座。 (日本歴史地名大系、国史大辞典ほか) == 境内 == *上都宮:山頂にある。 *中都宮:中腹にある。 *辺都宮:宮之浦にある。 *沖都宮:宮之浦の湾に浮かぶ小島。 *円満寺:真言宗寺院。新義真言宗。文永年間には成立。1634年(寛永11年)再興。1869年(明治2年)廃絶。 *阿弥陀寺:登山口にある。本尊は阿弥陀如来。真言宗智山派。向東庵。山号は志自伎山。松浦鎮信が創建。円満寺の別院。廃絶した円満寺の宝物を継承する。 [[Category:長崎県]]
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