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志々伎神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年10月7日 (日)

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志々伎神社(しじき・じんじゃ)は長崎県平戸市野子町(肥前国松浦郡)にある神社。祭神は十城別王。志々伎山山頂の上都宮(上宮)、中腹の中都宮(中宮)、その北西の辺都宮(下の宮、地の宮)、沖ノ島の沖都宮の4社から構成。別当は真言宗円満寺。官社県社志々岐神社志自岐宮田島神社上松浦明神と呼ぶのに対して下松浦明神と呼んだ。

歴史

平戸島の西南端の志々伎山にある。神功皇后が三韓出兵の帰りにこの地に留まった時、仲哀天皇の弟の十城別王も警護した。十城別王の墓が山頂に築かれた(上都宮)。 のち738年(天平10年)、十城別王の神霊を祀ったのが神社の起源。811年(弘仁2年)、王の木像を祀って志々岐神社と称した。『三代実録』によると860年(貞観2年)2月8日、従五位上。同書では873年(貞観15年)9月16日正五位下、876年(貞観18年)6月8日、従五位上から正五位下とあり、順序が混乱している。

中都宮は最初山頂近くにあったが1559年(永禄2年)中腹に遷座。別当円満寺が隣接する。辺都宮は時代が遡るが『肥前国風土記』に「志式嶋之行宮」とある景行天皇の行在所が前身という。沖都宮は十城別王の最初の上陸地という。

1869年(明治2年)、神仏分離で円満寺が廃絶。1870年(明治3年)沖都宮を改築。1873年(明治6年)武器庫になっていた辺都宮を社殿に戻した。1874年(明治7年)郷社。1881年(明治14年)11月県社。1961年(昭和36年)円満寺跡に中都宮を遷座。 (日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)

境内

  • 上都宮:山頂にある。
  • 中都宮:中腹にある。
  • 辺都宮:宮之浦にある。
  • 沖都宮:宮之浦の湾に浮かぶ小島。
  • 円満寺:真言宗寺院。新義真言宗。文永年間には成立。1634年(寛永11年)再興。1869年(明治2年)廃絶。
  • 阿弥陀寺:登山口にある。本尊は阿弥陀如来。真言宗智山派。向東庵。山号は志自伎山。松浦鎮信が創建。円満寺の別院。廃絶した円満寺の宝物を継承する。
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