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応神天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2011年4月3日 (日) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
誉田御廟山古墳は、応神天皇陵に治定されている古墳。「恵我藻伏崗陵」。かつては、誉田八幡宮の神域に含まれていた。江戸時代、幕府による数度の修復においては一貫して誉田御廟山古墳が応神天皇陵として修復された。文久の修陵においては、誉田八幡宮と分離され、北側の前方部に新たに拝所が設けられた。1864年(元治1年)5月に開始され、1865年(慶応1年)2月に竣工した。3050両が費やされたという。江戸時代中期に後円部墳丘上部には誉田八幡宮により六角堂が建てられたが、1883年(明治16年)に撤去された。周囲は史跡「応神天皇陵古墳外濠外堤」に指定されている。治定陪冢が域内に2基、域外に6基ある。
参考文献
- 『河内名所図会』
- 『大阪府史跡名勝天然記念物』
- 『文久山陵図』