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慶光院 - SHINDEN

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慶光院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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慶光院
けいこういん
Jingu-naiku-sonota (5).jpg
現・神宮祭主職舎
概要 慶光院は、中世、伊勢神宮の勧進職を務めた尼僧寺院。三上人の一つ。
奉斎 釈迦如来
所在地 (伊勢市宇治浦田1-1-29)
所在地(旧国郡) 伊勢国度会郡
格式など
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目次

概要

慶光院(けいこういん)は、伊勢国度会郡宇治の伊勢神宮門前にあった臨済宗の尼僧寺院。中世、伊勢神宮の勧進職を務め、特殊な地位にあった。無本寺。廃絶。本尊は釈迦如来。住職は慶光院上人と呼ばれ、長野善光寺上人、熱田誓願寺上人とともに、代々上人号を天皇から与えられ、紫衣着用を許可された三上人のひとつ。伊勢神宮関連旧跡

中世、山田西河原にあり、天正年間に宇治に移った。現在、跡地は神宮祭主職舎となっている。境内には弁財天堂があった。支配寺院として常慶院(菩提所)と慶性寺(真言宗 祈願所)の二つがあり、役者として寿量院、慈徳院がいた。常慶院は修学場であったともいう(『妙心寺史』)。江戸時代には江戸のほか、京都大阪に屋敷があった。江戸屋敷跡には新川大神宮が現在もある。

近くに慶光院墓地がある。

奉斎

歴史

中世

創建不詳。一説によると、最後の斎宮の祥子内親王が慶光院の始祖という。後醍醐天皇の皇女である祥子内親王は斎宮となっても下向せず、のち出家して熊野に住んで、慶光院の祖になったという。名を周徳と称したともいう[1]

中世は、全国各地を巡行して教えを説く宗教者が活躍した時代だった。特に大規模な寺院では、勧進や本願と呼ばれる僧が修理費用の募財を担って巡行していた。 慶光院も元来はそのような僧の一人であったと思われる。始祖とされる祥子内親王や3世の清順が熊野に住していたという伝承が示すように、熊野との関係を示唆している。もともとは熊野三山での勧進を担った熊野比丘尼だったとの説もある。

明応・永正のころ、守悦という尼がおり、尼僧の身でありながら、神宮の衰退を嘆き、参宮者の往来を助けるため、四方に勧進を行い、宇治橋の造営を実現した。このため、後の世に慶光院1世と呼ばれる。延徳3年(1491)と永正2年(1505)の二度に渡って架橋を完遂した。守悦は臨済宗柏庭門派の祖である柏庭宗松の法嗣の怡悦の弟子という(『妙心寺史』)。

2世智珪上人の事跡は不詳だが、近江の山本氏出身の、3世清順上人は、宇治弁才天堂の穀屋(勧進の拠点となる施設)に住していたが、遷宮の復興を志し、正親町天皇の綸旨を受け、勧進を進めた。永禄6年(1563)、外宮の遷宮を実現するに至った。 このとき、清順が巡った国々は不明だが、出身地の近江からの募財が多かったのではないかという(『茶話みやげ伊勢山田』)。特に近江の浅井氏は尽力し、国中の助成を得たという。

 清順は内宮の遷宮復興を目指しつつ、没するが、4世の周養上人がこれを引き継ぎ、天正10年(1582)に織田信長から3000貫の寄進を得ることに成功。4月に山口祭を実施。同年、織田信長は本能寺の変で没したが、その事業は豊臣秀吉が継承。翌年には天皇の綸旨を得て、天正12年、秀吉が金500枚、1000石を寄進。天正13年、120年ぶりに両宮の正遷宮にこぎつけて、復興した。 正親町天皇は功労を賞す綸旨を下し、宸筆の扁額を下賜したという。


近世1

近世になると慶光院は全盛期を迎え、やがて成熟期に入る。

文禄3年(1594)には磯村100石を秀吉から寄進された。現在、遷宮の御木曳き行事で磯地域から慶光院曳きを行っているのはこれによる。 慶長6年(1601)、淀殿から弁才天堂造営、客殿修復を寄進。9年には豊臣秀頼が宇治橋の再建を行う。

慶長14年(1609)の式年遷宮に際して、江戸幕府は慶光院に造営料として3万石を与え、これを例とした。このころはまだ慶光院を中心に式年遷宮が進められていた。

5世周清の代にも寛永2年(1625)、秀忠の朱印状をうけて遷宮を推進。当時、まだ財力のなく、任官のための上納金を払うことのできなかった神宮神官を助けることさえあった。

家光から200石を加増され、さらに紀州藩から100石を与えられた。あわせて603石となった。また寛永21年(1644)には隠居料として109石があてがわれた。

しかし、江戸時代に入って4回目となる寛文9年(1669)の遷宮では、神宮側が古制を復旧し、慶光院の関与を排除させようと請願。これを受けて、遷宮の朱印は停止となり、主導権は神宮側に戻ることとなった。ただ、慶光院の特殊的地位は変わりなく、遷宮において正宮正殿下での拝礼の特権があった

近世2

江戸時代の慶光院。隣に弁才天堂がある。

近世中期を超えると、衰退期に入る。神宮の復興と幕府の後ろ盾による安定的な遷宮の執行により、次第に慶光院の存在は埋没していった。 慶光院は、古代以来の神仏習合での神宮寺のような地位になく、存在を正当化するような教説を作ることもできず、また門跡のような制度的基盤もなかった。もともと伊勢では根強かった神仏分離の風潮が表に出てくる時期でもあった。神宮あっての勧進職であり、遷宮の資金調達のほかに特別な役割がなかった慶光院は、神宮自体が興隆するなかで、すでに存在意義が薄まりつつあった。

11世周奥まではいずれも山本家から上人を出していたが、断絶。以後、貴族から入寺が続く。12世周億上人は勧修寺家の出身である。この代の明和6年(1769)を境に神宮での特殊な地位は明確に否定された。 明和6年、神宮側は僧侶の神域参入を禁止する原則を守り、慶光院の内院参拝を廃止するように請願。朝廷はこれを受け、上人の内院拝礼を廃止した。慶光院は反対したが、認められなかった。代わりに「古殿」での拝礼が認められた。

しかし、この「古殿」の解釈を巡って議論が紛糾。次の遷宮の直前にひかえた寛政元年(1789)、神宮側が遷御後の古社殿を意味するものだと主張する一方、慶光院側は、遷御直前の社殿のことだと主張した。協議の結果、遷宮後直後に古い社殿の玉串御門より参入し、瑞垣御門内で拝礼することとなった。 文化6年(1809)の式年遷宮では「空の社殿に拝礼してどうする」と再び抗議。寺社奉行の裁断により、慶光院側の主張が認められた。ところが、慶光院は「月経中のため遠慮」することになり、以後、神域で拝礼することはなかった。

近現代

元治元年(1864)、復古思想が高まる中で、慶光院に対し、還俗して斎宮となることを奏上するものがあったが、14世周昌は一度仏門に入ったものであるからとこれを辞退した。

明治初年、寺院廃絶の建議もあるなかで後見人が上京して一旦は廃絶を免れた。しかし、明治2年4月、度会府の勧奨に従い、還俗し、慶光院の歴史は幕を閉じた。

明治5年、神宮司庁が買い取り、庁舎とした。明治24年、神宮祭主の職舎と改められた。 翌年、太郎館太夫から表門を移築した。

慶光院上人は、維新後、宮橋氏を名乗り、養子を取って男子相続となり、士族に編入された。明治36年に姓を慶光院と改称した。明治38年11月、天皇の神宮参拝に際して、過去の慶光院上人に贈位された。

玉雲寺では毎年5月初旬、法要を行っている。慶光院清順上人顕彰碑が熊野市にある。

歴代

  • 周徳:祥子内親王。後醍醐天皇皇女。
  • 1守悦:宇治橋の造営
  • 2智珪:
  • 3清順:外宮遷宮を実現
  • 4周養:両宮遷宮を実現。
  • 5周清
  • 6周宝
  • 7周長
  • 8周貞
  • 9周栄
  • 10周香
  • 11周奥
  • 12周億
  • 13周恭
  • 14周昌
  • 15盈子

境内

塔頭の常慶院は、菩提所と言われるが、京都からの禅僧が住持を務め、慶光院上人を始め、尼僧の指導を行う修学所でもあった。

近世初頭、九天宗瑞(滝川一益の子)の法嗣の碧潭が住した。碧潭は妙心寺春光院(俊巌院)の勧請開山ともなっている。慶光院は本山を持たない寺院であるが、以後、春光院系統の禅僧の指導を受けることとなった。春光院には鎮守として神宮が祀られているが、このような縁による。

碧潭の法孫の列宗が春光院を退いた後、古和浦に隠棲するまで一時常慶院に住した。その後、霊雲派が一時住すが、列宗の法孫である春光院端宗が、伊勢に改易となった檀家の石川家に招かれて、常慶院に住し、周香の師匠となる(年代が合わないが)。(『妙心寺史』)

画像

参考文献

  • 『宇治山田市史』

脚注

  1. 田尻佐『贈位諸賢伝』、「慶光院世代書」(『妙心寺史』)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%85%B6%E5%85%89%E9%99%A2」より作成

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