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扶余神宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
扶余神宮 ふよ じんぐう | |
概要 | 植民地時代、百済の首都扶余の跡に創建される予定だった、百済所縁の天皇を奉斎する神社。未鎮座のまま廃絶。 |
所在地 | (朝鮮忠清南道扶余郡扶余面) |
社格など | 官幣大社(未鎮座) |
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目次 |
概要
百済の首都扶余に創建される予定だった神社。祭神は「応神天皇、斉明天皇、天智天皇、神功皇后」である(『大陸神社大観』58)。
祭神
神功皇后は新羅出兵を行った皇后で、応神天皇はその時に懐妊していた天皇である。また応神天皇の代には百済、新羅、高麗の各国と交流が盛んになった。斉明天皇・天智天皇の時代には、斉明天皇6年(660年)新羅が唐の援助を得て、百済を攻撃した。滅亡の危機に瀕した百済は日本に援軍を求めた。斉明天皇はこれに応じて出兵させたが、行宮にて崩御。天智天皇が称制して引き継いだが、天智天皇2年(663年)に白村江の戦いで大敗した。この大敗によって朝鮮半島との交流は衰退したとされるが、1910年(明治43年)の植民地化によって「上代の旧態に復した」とされたのであった。このように植民地支配の歴史的正当化に、これらの天皇を奉斎する意義が見出されたのであった。また祭神に関して、朝鮮神宮創建のときには朝鮮の土着の神を祀るべきだという主張が見られたが、扶余神宮においては、そのような議論は見られなかったことが指摘されている。
歴史
朝鮮総督府は植民地朝鮮における「内鮮一体」を進めるために、1938年(昭和13年)11月ごろ、新たな神宮の創建を計画した。1939年(昭和14年)1月には内務省神社事務調査会で適当と判断された。1939年(昭和14年)3月8日、朝鮮総督府は、談話を発表し、紀元2600年に際して、古代において日本と縁が深かった百済の王都を記念し、百済、新羅、高麗に関連深い応神天皇、斉明天皇、天智天皇、神功皇后を祀る官幣社を創立することを発表した。
計画は5月末にはまとまり、名称を「扶余神宮」とし、1943年(昭和18年)10月に鎮座することが予定された。造営費は250万円、その内、150万円を国費で賄う予定であった。また扶余神宮創建は、忠清南道による扶余神都計画の一環でもあった。それまで寒村であった扶余を史跡整備を通じて、「内鮮一体の精神的基地」とするこが計画されていた。都市整備のほか、博物館や青年道場の設立が計画されていた。
1939年(昭和14年)6月9日に上奏されて、6月15日、扶余神宮を創立し、官幣大社に列格することが仰出された(昭和14年拓務省告示第2号並朝鮮総督府告示第503号)。8月1日に鎮座地清祓が行われ、8月18日、朝鮮総督府に扶余神宮造営委員会および扶余神宮造営事務局が設置されて本格的な造営が始まった。翌年7月30日に地鎮祭が執行された。しかし、工事は難航したらしく、敗戦までに基礎工事が完了するに留まった。敗戦後の1945年(昭和20年)11月17日、廃止となった(昭和20年11月22日 内務省告示第264号)。
社殿構成
計画図によると、境内地は橿原神宮や朝鮮神宮のように山地に広大な面積を擁していた。王宮があったとされる扶蘇山の南麓に社殿を配置し、その区域は扶蘇山の北麓を超えて、錦江(白村江)沿岸に至る。境内地および付属地あわせておよそ21万8000坪とされた。社殿は、明治神宮や近江神宮と同様に、回廊をめぐらした壮大なもので、丘陵山腹に本殿が鎮座し、その前に内拝殿があり、その下方に外拝殿がある。外拝殿前庭は広く、正面は山下を臨む舞台造となっていた。境内社として地主社と保食社が計画されていたことは興味深い。
参考文献
『大陸神社大観』、菅浩二 2004年(平成16年)『日本統治下の海外神社』「総督府政下朝鮮における「国幣小社」」、『公文類聚』「朝鮮忠清南道扶余郡扶余面ニ扶余神宮ヲ創立シ官幣大社ニ列格セラル」、未見 五島寧 「「神都」計画と扶余神宮に関する研究」、孫禎睦『日本統治下朝鮮都市計画史研究』、青井哲人『植民地神社と帝国日本』