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新熊野山

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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新熊野山は岡山県倉敷市林の熊野神社五流尊瀧院を中心とする熊野信仰修験霊場。中国地方に勢力を擁した児島修験児島五流五流修験)の拠点である。役小角の高弟5人に由来するとされる。後鳥羽天皇皇子の覚仁法親王と頼仁親王の兄弟が中興し、頼仁親王の子孫が五院を代々継承してきたとされる。この地は紀伊熊野本宮大社長床衆の所領児島荘であり、派遣されて紀伊熊野と往復しながら荘園を管理する立場にあった山伏が定着し、地方教団を築いたと考えられている。天台宗寺門派の系統だが、一部の山伏は真言宗を兼ね、東寺とも深いつながりを持っていた時期がある。近世には聖護院門跡を中心とする本山派教団に属したが、教団内で高い地位を占めると共に、聖護院とは別に独自の免許状を発行する権限も持っていた。

目次

子院

五流六院

  • 尊瀧院:大宝元年創建。開山は義学。中興は澄意。史料初出は1467年(聖護院道興安堵状)。
  • 太法院:大宝元年創建。開山は義玄。中興は隆禅。
  • 建徳院:大宝元年創建。開山は義真。中興は昌範。史料初出は1594年(清田八幡宮棟札)か。
  • 報恩院:大宝2年創建。開山は芳元。中興は澄有。史料初出は1524年(山上雑用明鏡)。
  • 伝法院:大宝元年創建。開山は寿元。中興は親兼。史料初出は1422年(清田八幡宮棟札)。
  • 吉祥院:塩飽島
  • 智蓮光院):五流総禄。中世は東寺と関連が深く、東寺の御影供に出仕していた。真言宗だったかもしれない。五流総禄や長床政所を称し、近世の修験道制度ができる以前は中心的寺院だった可能性もある。史料初出は1427年(熊野本宮権三昧職補任状)。

十院

  • 観了院:
  • 大泉院:
  • 常楽院:
  • 覚城院:覚王院が改称か。「天和三年書上」では智蓮光院と共に「長床政所」を称す。史料初出は1594年(清田八幡宮棟札)か。
  • 正寿院:
  • 南瀧院:
  • 本城院:
  • 常住院:
  • 青雲院:
  • 宝良院:

十院の名は『院家院室末寺修験頭分書上帳』による。

その他

  • 覚王院:史料初出は1364年で、宋弁僧正が東寺御影供に出仕(東寺私用集)。1426年に亮宋が出仕(東寺長者補任)。宗縁、隆縁という僧侶もいた(山伏帳)。応仁の頃、円海が反乱を起こし、一山を焼く。
  • 千手院:
  • 正寿院:
  • 大泉坊:
  • 不善坊:
  • 宝乗院:
  • 瀧学院:
  • 神宮寺
  • 是如院
  • 密蔵坊
  • 多宝坊
  • 観乗院:史料初出は1418年(備陽記)。

新熊野三山

  • 蟻峰山麓:熊野本宮に相当する
  • 蟻峰山上:峰入り修行を行う。
    • 福岡神社:地主神。
    • 蔵王権現:
    • 巌屋毘沙門天:
    • 歴代墓地:
  • 神蔵山:熊野新宮に相当するという。
    • 諸興寺:奥之院。元禄年間に廃絶(日本歴史地名大系)。
    • 頼仁親王墓:治定墓。若宮御霊殿という御影堂があった。
  • 由加山:熊野那智に相当。新熊野三山の一つとされるが具体的な関係性を示す史料は見つかっていない。現在では瑜伽権現の一大霊場として知られるが、五流尊瀧院との関係や熊野信仰や修験道の要素はほぼみられないか。

周辺

  • 木華佐久耶比〓神社:岡山県倉敷市福江。福南山妙見社。山頂に奥宮。1597年に麓の山田の地に遥拝所を設けた。1948年、山頂の奥宮が山火事で焼失。1976年、現在地に再建した。(日本歴史地名大系)
  • 鴻八幡宮:岡山県倉敷市児島。県社。別当は総願寺。
  • 総願寺:岡山県倉敷市児島。王子権現社がある。
  • 清田八幡宮:岡山県倉敷市曽原。祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。村社。神功皇后の創建。元は粒江村の清滝八幡宮だったが、1219年頃に現在地に遷座。中世の棟札が伝わり、熊野神社の長床衆の名がみえる。熊野神社の御旅所ともいう。
  • 一等寺:岡山県倉敷市曽原。真言宗御室派。護国寺、有南院、福聚寺とも。一山の菩提寺。山号は新熊野山。(日本歴史地名大系)
  • 藤戸寺:岡山県倉敷市藤戸町藤戸。備前国児島郡。本尊は千手観音。高野山真言宗。補陀落山千手院。705年に藤戸の海に千手観音が出現。天平年間、行基がこれを祀って寺院を創建。聖武天皇勅願寺となる。806年、坂上田村麻呂が造営。1151年、大般若経が寄進され、鳥羽天皇勅願寺。中世、謡曲「藤戸」の舞台として亡者慰霊の寺として知られた。戦乱で荒廃。近世、厳島大聖院の宝光院栄遍が、岡山藩主池田忠雄の帰依を得て復興。(日本歴史地名大系)
  • 本荘八幡宮:岡山県倉敷市児島通生。祭神は品陀別命・足仲彦命・息長帯姫命。郷社。701年創建。石鳥居は1421年造営ということが明確な貴重な鳥居。
  • 惣堂大明神:崇道天皇
  • 天石門別保布羅神社:岡山県倉敷市福田町広江。祭神は天手力雄命。郷社。頼仁親王が祈願したという。旧称は天形星社という。境内の石洞神社は後鳥羽上皇の墓という。
  • タコラ山


影響地域

  • 後山:一時期、配下に置いていたらしい。
  • 伯耆大山:中世には児島修験の山伏が修行の場としていたらしいがはっきりしたことは分からない。伯耆大山の信仰を児島修験が中国地方各地に広めたとも考えられている。
  • 阿波・妙楽寺:熊野信仰。五流建徳院の次男が入り復興させたと伝える。しかしいつまで児島修験との関係が続いたのかは不詳。1947年に廃絶。

非座衆

大願寺の末寺34寺。近世には6寺のみ残る。

京都ほか

  • 聖護院:京都府京都市左京区。中世から近代まで本山と仰いだ。
  • 新熊野神社:京都府京都市東山区。中世の児島修験の京都における拠点だった。覚王院宗縁(宋縁)など新熊野別当を兼ね、中央の政治に深く関与した山伏もいる。
  • 東寺:京都府京都市南区。児島修験は天台宗寺門派だが、真言宗も兼学し、東寺の御影供にも出仕した。
  • 大峰山寺:奈良県吉野郡天川村洞川。山上に児島修験の宿坊があった。
  • 阪堺役講五流組:成立に児島修験が関わっているという。

年表

  • 701年:役小角高弟5人が熊野神社を祀り、五流尊瀧院など5院を創建したと伝える。
  • 761年:諸興寺と瑜伽寺を創建。
  • 1098年閏9月7日:諸興寺で延暦寺西塔長寿坊の薬仁という僧が『瑜祇経西決』という書を記す。諸興寺の史料初出。
  • 1205年:児島荘が紀伊熊野本宮大社の長床衆の所領となる(清田八幡宮棟札)。
  • 1219年頃:清田八幡宮、現在地に遷座したという。
  • 1221年:承久の乱。頼仁親王が児島に配流となる(吾妻鏡)。
  • 1240年(仁治1年):後鳥羽天皇供養塔を建立。現存。
  • 1279年(弘安2年):紀伊熊野長床衆、荘園管理と仏事を定めた『長床六十三箇条式目』を制定。
  • 1327年(嘉暦2年):児島修験の良宋(良宗)、紀伊熊野関係の歌を集めた『新浜木綿和歌集』を編纂する。
  • 1364年:児島覚王院の宋弁僧正が東寺御影供に出仕(東寺私用集)。
  • 1370年(応安3年)10月5日:幕府と近しい関係を築いていた児島覚王院の宋縁(宗縁)(生没年不詳)の京都新熊野神社にある自坊で、後光厳天皇の譲位の発意を受けた大名会議が開かれた。
  • 1371年(建徳2年/応安4年):在京の児島覚王院の宋縁(宗縁)、興福寺強訴で興福寺衆徒から三宝院光済と共に配流を要求された。興福寺内の内紛で、衆徒と対立していた門主側に加担したとみられたため。1374年まで続き、配流が決まるが、形式的な処置で終わる。
  • 1374年4月末:『太平記』作者の「小島法師」という人物が死去(『洞院公定日次記』)。小島法師を児島修験の山伏とみる説があるが異論もある。
  • 1379年(天授5年/康暦1年)閏4月14日:「康暦の政変」で管領細川頼之が失脚。その腹心となっていた児島覚王院の宗縁も京都を離れたとみられる。
  • 応仁年間(1467-1469):覚王院円海が細川方と組んで反乱を起こし、五流一山を焼いたという。
  • 1467年6月5日:聖護院門跡道興から知行安堵状を与えられる(五流尊瀧院蔵知行安堵状)。
  • 1492年(明応1年):熊野神社本殿再建。第2殿は現在の社殿。
  • 1493年(明応2年):聖護院道興が児島を訪問。五流が聖護院の所属となる。
  • 1515年2月14日:1503年より熊野長床領の豊前国津守庄の利権をめぐり、智蓮光院と聖護院が争っていたが、後柏原天皇の裁決により円満院門跡の令旨に基づき智蓮光院の権限を認めた(頼継卿記)。ただしこの後も係争は続いたようである。智蓮光院は『国史大辞典』などでは京都新熊野に所在とするが、児島の智蓮光院のことと思われる。
  • 永正年間:五流太法院などが美作の後山に進出。のち衰退。(児島五流大法院訴訟文書)
  • 天正年間:熊野神社長床再建。
  • 天正年間:豊臣秀吉の中国攻めで所領を失ったという。
  • 1560年:建徳院の次男見隆が阿波・妙楽寺に入り復興(『日本歴史地名大系』)。
  • 中世:伯耆大山と関係があったが近世には途絶えていく。
  • 1589年:聖護院に訴え、旧領のうち100石を得る(『撮要録』など)。
  • 1601年:検地により160石となる(『撮要録』など)。
  • 1647年:熊野神社本殿を再建。
  • 1674年:岡山藩池田家から160石が安堵されると共に神主領30石を認められた(『撮要録』など)。
  • 1683年(天和3年):五流尊瀧院、「天和三年書上」を岡山藩もしくは幕府に提出。
  • 元禄年間(1688-1704):諸興寺、廃絶。
  • 1705年:塩飽島に讃岐・吉祥院成立。
  • 1725年頃:吉祥院玄仙が『修験本当偽邪弁論』を記す。
  • 1769年(明和6年):熊野神社、長床焼失。再建。
  • 1779年(安永8年)2月:庵室の修理に際して聖護院から「柴庵室」の額を与えられる。
  • 1820年(文政3年):三重塔再建。
  • 1840年(天保11年):熊野神社本殿再建。修理?
  • 1849年(嘉永2年)9月1日:五流尊瀧院、院室先達の寺格に昇格する。
  • 1862年6月:金光教開祖の金光大神が、弾圧を避け布教を合法化するため、五流尊瀧院の免状を受ける(1864年1月に返却。1867年には白川家の免状を受けた)。
  • 1871年:熊野社が「熊野神社」が正式名称となる。
  • 1872年:修験道廃止令。
  • 1918年(大正7年)9月27日:頼仁親王墓が宮内省管轄と決定(『岡山県児島郡案内誌』)。
  • 1946年3月30日:五流尊瀧院、独立して修験道本庁(正式名称は「修験道」)を設立。
  • 1971年2月:後鳥羽天皇供養塔を学術調査。中から歯などの納入品が発見された。
  • 2003年:熊野神社長床を焼失。

資料

古典籍

  • 『古今熊野記録』:
  • 『長床六十三箇条式目』:1279年(弘安2年)。児島荘と児島修験を管理する紀伊熊野の山伏が定めた規則。『備陽記』、『吉備温故秘録』、『撮要録』などに収録。田中修實1994「史料紹介『長床六十三箇条式目』」『岡山民俗』に訓読あり。
  • 『山伏帳』:1417年頃までに成立。下巻のみ現存。紀州熊野本宮大社の諸職を務めた僧侶リストと入峰次第。児島修験の僧の名も多数ある。
  • 『東寺私用集』:東寺執行の栄増が東寺執行日記を基に編纂。成立は1490年をあまり下らない時期か。東寺と児島修験との関係を示す史料。
  • 『両峯問答秘抄』:
  • 『熊野長床宿老五流』:
  • 「天和三年書上」:1683年(天和3年)。幕府もしくは岡山藩の寺社奉行に提出した書類とみられる。五流尊瀧院が役小角の弟子にまで遡ると記した最古の史料。『和気絹』や『岡山紀聞』に引用されて伝わる。諸興寺や瑜伽寺に関する記述はない。後鳥羽院石塔や覚仁法親王、「御庵室」の記述はあるが、末裔との記述はない。真言修験を三宝院が管轄するようになったのは新しいことであり、五流でも真言宗を管轄していたと記す。
  • 「五流伝記略」:『備陽国誌』(1739年(元文4年))や『吉備温故秘録』(寛政)に引用されて伝わる。
  • 『長床縁由興廃伝』:五流尊瀧院蔵。『修験道史料集2』に一部翻刻されている。全文はいまだ公開されていないようだ。1731年(享保16年)以降の成立とみられるという。
  • 『新熊野権現御伝記』:1738年(元文3年)書写か。『長床縁由興廃伝』に類似。原三正1969「新熊野権現御伝記(上)(下)」『倉子城』1〜2号に翻刻。『新熊野御伝記』。
  • 『紀州熊野三所大権現由来 備前国児島郡郷内村大字林』:岡山県立図書館蔵。1859年(安政6年)の勧進帳や寛文文政の文書を1935年に書写したもの。
  • 「大願寺由来」:『再訂増補岡山藩山伏留』所収。
  • 「備前児島尊瀧院系図」[1]:33世元興までの詳細な略歴。34世隆興の名前もある。1863年(文久3年)以降の成立とみられる。
  • 「備前国児島郡林村熊野権現別当尊瀧院伝」[2]:『諸系譜第28冊』所収。後鳥羽天皇から頼仁親王、覚仁法親王、児島高徳までを簡単に図で記すのみ。
  • 「五流正統尊瀧院世系伝」[3]:頼仁親王、覚仁法親王から5世宴深までの略歴。1910年(明治43年)2月、五流尊瀧院所蔵のものを宮内省御用掛が借用し一部書写したもの。
  • 「血脈系図」[4]:頼仁親王、覚仁法親王から5世宴深までの略歴。
  • 「大悲大権現宮縁由伝」[5]
  • 「紀州熊野三所大権現由来」:1973『倉敷市史2』所収。寛文5年とするが、1869年のものとみられる。
  • 「新熊野山縁起」
  • 「新熊野十二所権現由来」
  • 「新熊野山社中並寺家伝記」:1738年(元文3年)。正宗文庫蔵。
  • 「建徳院文書」:五流建徳院伝来の文書。
  • 「五流尊瀧院文書」:1冊。東大影写本。室町時代の所領関係。広島県文書館に複製資料がある。
  • 「備前尊瀧院文書」:『岡山県史 第20巻 家わけ史料』に所収。
  • 「五流正統尊瀧院正系」:東京大学史料編纂所蔵。1897年(明治30年)調査。記文・系図3点。
  • 「尊瀧院文書」:東京大学史料編纂所蔵。文書2点。
  • 『五流并山伏』:岡山藩の寺社方が編纂。岡山県立図書館蔵。池田家文庫「社寺旧記」の原本。6冊。1704年(宝永1年)から1871年(明治4年)まで断続的に残る。
  • 『備前軍記』「児島本太城合戦並五流山伏の事」[6]:土肥経平著。江戸中期。
  • 「備前国児島児林庄新熊野山鐘銘」『集古十種』[7]

史料集・調査報告

  • 『黄薇古簡集』:斎藤一興編。1793年(寛政5年)。岡山藩の古文書集。東大史料編纂所DB[8]
  • 『再訂増補岡山藩山伏留』:1996年。三宅淳彦編。
  • 『五流山伏』:1989年。1991年改訂版。三宅淳彦編。
  • 2008「新熊野山遺跡確認調査報告」『倉敷埋蔵文化財センター年報11』
  • 2019「新熊野山遺跡」『倉敷市埋蔵文化財発掘調査報告17』[9]


文献

  • 1915『岡山県児島郡誌』「五流一山」[10](デジコレ送信館限定)
  • 宇垣武治1936『児島めぐり』「五流一山」「新熊野山五流尊瀧院」[11](デジコレ送信館限定)
  • 和歌森太郎1939「小島法師について」『修験道史の研究』
  • 和歌森太郎1964「児島山伏と『太平記』」『山伏』[12](デジコレ限定)
  • 大伴茂1941『山伏と尊皇』[13](デジコレ送信館限定)
  • 1953『郷内村文化財解説』
  • 1956『灘崎町史』「五流一山と郷土」[14](デジコレ送信館限定)
  • 吉田寂水1976「新熊野権現と五流一山」『歴史と旅』[15](デジコレ限定)
  • 鈴木昭英1959「修験道史研究資料-1-五流山伏の「無言加持法次第」」[16]
  • 中山薫1976「修験道」『児島諸島及び石島の民俗』[17](デジコレ送信館限定)
  • 宮家準1979「五流修験の成立と展開」
  • 宮家準1982「修験と寺社縁起―五流修験の「長床縁由」を中心として」『国文学 解釈と鑑賞』[18](デジコレ送信館限定)
  • 宮家準1988「熊野修験の地方的展開」
  • 宮家準1990「熊野信仰と児島修験」
  • 宮家準1992『熊野修験』
  • 宮家準1999「本山派内の一山組織」
  • 宮家準2012「神道と修験道―五流修験の『山伏記』を中心に」『國學院雜誌』113-11
  • 宮家準2013『修験道と児島五流―その背景と研究』岩田書院
  • 豊島修1971「美作修験と後山信仰」[19]
  • 1971『重要文化財五流尊滝院宝塔修理工事報告書』
  • 1973『重要文化財五流尊滝院宝塔』
  • 1973『倉敷市史2』「新熊野山新宮諸興寺」、「瑜伽山蓮台寺」、「山林仏教、修験道と新熊野権現」、「郷社熊野神社本殿」、「藤戸寺志」、「頼仁親王墳墓考」、「児島本太城合戦並五流山伏の事」[20](デジコレ送信館限定)
  • 高橋彪1979『史上の福田・福田の伝説1 福田地内の林熊野権現と頼仁親王』[21](デジコレ送信館限定)
  • 巌津政右衛門1981「尊瀧院宝塔と納入舎利」『史迹と美術』51-4
  • 榎原雅治1986「山伏が棟別銭を集めた話」
  • 中山薫1988『岡山県修験道小史』
  • 中山薫1983「児島山伏の延年」『岡山の歴史と文化』[22](デジコレ送信館限定)
  • 1989『岡山県史4中世1』「熊野信仰と児島五流」[23](デジコレ送信館限定)
  • 1983『岡山県史15民俗1』「児島山伏」[24](デジコレ送信館限定)
  • 1983「新熊野山」『写真集明治大正昭和児島』[25](デジコレ限定)
  • 村山修一1992「児島五流修験」
  • 別府信吾1993「近世前期の新熊野山―岡山藩と輪王寺門跡」:2013『岡山藩の寺社と史料』に再録。
  • 別府信吾1994「近世後期、児島五流の昇進問題―岡山藩と聖護院門跡」:2013『岡山藩の寺社と史料』に再録。
  • 森章1996「桜井塚層塔の研究」
  • 1999『新修倉敷市史2』「熊野五流の展開」
  • 三宅克広2003「中世後期の山伏と東寺―東寺・新熊野神社・備前児島五流をめぐって」
  • 長谷川賢二2005「阿波国における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義」
  • 長谷川賢二2011「熊野信仰と天台宗・真言宗」
  • 岡野浩二2009「平安末期における天台僧の修行巡礼」:2019「聖教奥書からみた僧侶の往来」『中世地方寺院の交流と表象』に再録。
  • 岡野浩二2014「児島修験の再検討」:2019「備前国児島の五流修験」『中世地方寺院の交流と表象』に再録。
  • 近藤祐介2010「室町期における備前国児島山伏の活動と瀬戸内水運」
  • 首藤善樹2015「宿老=備前児島五流」『修験道聖護院史要覧』
  • 長村祥知2019「児島五流建徳院伝来の近世聖護院門跡発給文書」
  • 田嶋正憲2009「旧児島湾南岸の中近世のムラ(村)について(上)―鉄滓・中世貝塚・児島五流・慶長検地・灘崎地域を中心に」
  • 水野圭士2014「細川頼之と覚王院宋縁」[26]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%96%B0%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%B1%B1」より作成

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