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新羅明神信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年7月26日 (日)

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'''新羅明神'''(しんら・みょうじん)は[[園城寺]]の鎮守神。総本社は[[園城寺]]の[[新羅善神堂]]。[[赤山明神]]と同一視されることもある。円珍が唐からの帰国途中の船上で感得したという。新羅善神。
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'''新羅明神'''(しんら・みょうじん)は[[園城寺]]の鎮守神。総本社は[[園城寺]]の[[新羅善神堂]]。[[円珍]]が唐からの帰国途中の船上で感得したという。本地仏は[[文殊菩薩]]とされることが多い。'''新羅善神'''。
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園城寺本尊でもある[[弥勒菩薩]]がこの世に出現するまで仏法を守護する。
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眷属として般若童子と宿王童子がいる他、園城寺新羅善神堂の地主神という火御子神も関連する神とされる。
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[[三尾神社]]の眷属の黒尾神も新羅明神と同一視される。[[円仁]]が帰国の際に感得した[[赤山明神]]と共通点が多く、同一視されることもある。神木は柳と杉。神像は柳で彫られた。杉は依代。神使はカラス、アシナガクモ、イタチ。
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==由来==
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858年(天安2年)、円珍が日本に帰る際、船中に新羅明神が出現し、請来の法を弥勒下生の時まで守護すると誓約したという。『園城寺龍華会縁起』をはじめ諸書に記される縁起である。『園城寺龍華会縁起』では帰国後、さらに新羅明神が円珍を園城寺の地に導いて教侍という162歳の老僧から寺を譲られたとし、さらに新羅明神が円珍の問に答えて教侍の正体は弥勒菩薩だと告げた。また「智証大師御記文」(『古今著聞集』所引)では、唐から請来した経典類を円珍が[[比叡山]]に運ぼうとすると、新羅明神が現れ、比叡山では末代に必ず争い事が起きるため園城寺の地に導いたとする。『新羅略記』では入京の後、円珍のもとに現れて霊場に経典を納めるように告げたが、これは鴻臚宮の岩神だ([[京都・中山神社]])という。『兼邦百首歌抄』でも帰国の船中に現れた神をまず二条大宮の岩神に中山大明神として円珍が祀り、のちに園城寺の新羅明神となったとする。『古今著聞集』では[[娑竭羅龍王]]の子であり、帰国の時ではなく、入唐に際に出現して仏法を守護することを誓ったという別伝を掲げる。『新羅記』逸文では859年(貞観1年)12月に三尾明神の譲りで新羅権現を祀ったとする。
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『寺門伝記補録』では859年(貞観1年)、円珍が新羅明神、[[山王権現]]の2神とともに伝法にふさわしい地を求めて園城寺にいたり、教侍と大伴都牟麻呂から寺を譲られたとする。山王権現は比叡山に帰ったが、新羅明神は寺の北野の三椏(みつまた)の杉の木に鎮座した。この時、地主神の三尾明神が眷属とともに現れ、饗応したという。
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出自については新羅記では
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新羅明神はインド・中国・日本にそれぞれ現れ、インドでは[[弁財天]]として[[釈迦]]の誕生を寿ぎ、中国では[[天台山]]で朱山王として疫鬼をはらい、[[嵩山]]にも出現した。日本では[[素戔嗚尊]]として生まれ、出雲国[[簸川]]から新羅国の曾尸茂梨にわたり王法を守り僧俗を教化したという。
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また新羅明神は唐の[[終南山]]で[[道宣]]から三摩耶戒を受戒し、新羅で[[善無畏]]門下の玄超から[[密教]]を伝授されたという。
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『園城寺伝記』の「大師和讃」では「渡唐の風には琉球国、大聖明王化現し、帰朝の波には新羅国、権化の善神影向す」とある。
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『新羅明神問答鈔』では本地を文殊師利菩薩、浄名大士([[藤原鎌足]])、尊星王([[妙見菩薩]])の3説を挙げ、文殊については三摩耶形が1000の剣であるため祭礼に1000本の剣を献じるとする。藤原鎌足については「もし新羅明神像が焼失したら浄名大士(藤原鎌足)像を元に再造するように」と円珍が指示したことによるという。尊星王については円珍が尊星王法を伝来し、新羅明神がその守護にために来臨したという。そして三尊は一体であり機に応じて形を示すという。『新羅祠記』では本地を文殊大士、釈迦、[[不動]]、尊星王、浄名居士とする。
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新羅明神の別名として『新羅祠記』では朱山王、崧嶽王、菘崧王、四天夫人、素髪翁をあげる。インドでは[[摩多羅神]]または[[牛頭天王]]、日本では[[武塔神]]とする。
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眷属の般若童子と宿王童子は、[[天照大神]]が素戔嗚尊に与えた鉾が二つに折れて化身したものという。像容は共に唐装で髪を束ね、笏を持つ。胡床に坐す。衣の色はは般若が赤、宿王が青。園城寺の学僧は受胎の時から二童子の擁護を受けているという。
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北院の地主神の火御子神は和製の衣冠で笏を持ち、牀に坐す。本地仏は[[十一面観音]]または[[不空羂索観音]]。
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近年の美術史研究で、新羅明神の像容を元に[[役小角]]の像容が形作られていったことが明らかにされている。
==一覧==
==一覧==
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*[[新羅善神堂]]
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*[[新羅善神堂]]:滋賀県大津市園城寺町。園城寺内。総本社。
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*[[赤山禅院]]新羅明神社
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*[[赤山禅院]]新羅明神社:京都府京都市左京区修学院開根坊町。
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*[[京都・大雲寺]]新羅明神社
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*[[京都・大雲寺]]新羅明神社:京都府京都市左京区岩倉。
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*[[讃岐・金倉寺]]新羅山王社
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*[[讃岐・金倉寺]]新羅山王社:香川県善通寺市金蔵寺町。
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*[[岩神王子]]:和歌山県田辺市中辺路町道湯川。[[熊野九十九王子]]の一つ。岩上王子。廃絶。石碑が立つ。
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*[[京都・中山神社]]:京都府京都市中京区岩上町。元は冷泉院にあった。岩上大明神。
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*[[京都・岩上神社]]:京都府京都市上京区大黒町。一説に新羅明神と関係があるという(改訂京都民俗志)。
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*[[如意寺]]新羅社:廃絶。
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*[[三室戸寺]]新羅社:京都府宇治市莵道滋賀谷。廃絶。
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*[[安布知神社]]:長野県下伊那郡阿智村駒場。
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*八雲神社:岩手県釜石市八雲町。大天場権現とも。1089年(寛治3年)、新羅三郎義光が勧請。
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*新羅神社:静岡県浜松市南区江之島町。
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*木徳新羅神社:香川県善通寺市木徳町。円珍が885年(仁和1年)勧請とも。別当は金倉寺宝幢院だった。
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*[[関山神社]]:新潟県妙高市関山。中尊聖観音の脇に新羅大明神を祀っていた。
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*[[長者山新羅神社]]:青森県八戸市長者。祭神は源義光と素佐嗚尊など。1683年(天和3年)に新羅大明神を合祀したという。
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*新羅神社:岐阜県多治見市御幸町。1394年(応永1年)新羅大明神を勧請。
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==年表==
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*858年(天安2年):円珍、日本に帰る際、船中に新羅明神が出現し、請来の法を弥勒下生の時まで守護すると誓約したという。
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*860年(貞観2年)2月25日:勅により円珍が新羅明神の社を建立。(『新羅略記』)
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*924年(延長2年):尊意が赤山禅院に新羅祠を創建。
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*971年(天禄2年)5月5日:新羅明神、正四位上を授かる。冷泉院の物怪を降伏した園城寺余慶の奏状による。史料上の初出。『僧綱補任抄出上』
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*995年(長徳1年):慶祚ら円珍像を比叡山千手院から園城寺に奉遷して寺門派を形成。この時、慶祚は園城寺に八所明神を祀る。
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*997年(長徳3年):慶祚、新羅明神社を南向きに改築。
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*1049年(永承4年)9月1日:新羅明神、三位を授かる。明尊の働き掛けによる。
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*1051年(永承6年):前九年の役で源頼義が出陣の際に新羅明神に戦勝祈願。勝利の際は子を衆徒とすることを誓約。凱旋後、子を出家させ快誉と称した。年時不明だが、同じく子の義光の元服を新羅明神の前で行ったことから新羅三郎と呼ばれた。
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*1052年(永承7年)9月9日:明尊、新羅明神の祭礼を盛大に実施。1000本の剣をともない神輿が御旅所に渡御。新羅明神はこれを喜び仏法守護の託宣を下す。
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*1060年(康平3年):成尋が入宋を祈願し成就する。
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*延久年間:園城寺の戒壇設置の請願が認められないと、新羅明神社が鳴動。後三条天皇が発病。
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*1073年(延久5年):後三条天皇は皇位を退き、新羅明神に祭文を奏上して謝したがまもなく崩御した。
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*1109年(天仁2年)9月14日:新羅明神社で念仏会が始まる。
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*1110年(天永1年)9月:藤原忠実参詣。
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*1121年(保安2年)閏5月3日:延暦寺衆徒の襲撃で園城寺が全焼。覚基が焼け跡を巡っていると白衣の翁の姿で新羅明神が出現。覚基は新羅明神に対し「なぜ焼失を防げなかったのか」と咎めたが、新羅明神は「焼失を悲しむより、発心者を得ることのほうが大切だ」と答えたという。
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*1125年(天治2年)9月19日:新羅明神祭。
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*1127年(大治2年)9月:藤原忠通参詣。
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*1153年(仁平3年)6月:房覚が新羅明神社に7日間参籠。花を供えて一切経を読誦。園城寺北院の僧を供花衆と定めた。新羅明神社の夏安居の始まり。
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*1154年(久寿1年)9月26日:新羅明神祭。
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*1161年(応保1年)4月7日:後白河法皇、園城寺御幸。新羅明神社に参詣。後白河法皇の持仏堂には上段に新羅明神と円珍の御影、下段に師の行慶の御影を祀っていたという。
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*1165年(永万1年)7月28日:二条天皇崩御。寺門派の僧侶が天台座主になるとき、延暦寺で受戒することを定めた院宣に対し、新羅明神眷属の般若菩薩と、三尾明神眷属の黒尾明神の為す業だと噂された。
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*1203年(建仁3年)4月1日:公胤・行舜らにより三十講。
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*1210年(承元4年)10月18日:新羅明神祭。神輿11基が出て素戔嗚尊(新羅明神)と稲田姫に扮した稚児8組が練り歩き、長吏ほか500人の僧侶が従って法禅寺西南の御旅所に渡御。
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*1213年(建保1年)4月26日:法勝寺九重塔落慶にあたり、園城寺でも金堂や新羅明神社などで拝賀。新羅明神社では特に奉幣・神馬献上がされた。
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*1342年(興国3年/康永1年)4月22日:足利尊氏が粟津別保の地頭職を寄進。
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*1349年(正平4年/貞和5年)頃:現在の社殿造営。
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*1412年(応永19年):新羅明神社に護摩堂
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==資料==
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===古典籍===
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*『園城寺龍華会縁起』:1062年(康平5年)。藤原実範。
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*『新羅記』逸文:『園城寺伝記』に収録。鎌倉時代末。
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*『新羅明神問答鈔』:『寺徳集』(1344年(興国5年/康永3年))に収録。
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*『新羅祠記』:『寺門伝記補録』(応永年間)に収録。
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*『新羅略記』:応永年間。『新羅記』の要約。
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*『新羅明神記』:1425年(応永32年)。
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===文献===
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*辻善之助1915「史壇 新羅明神考」『歴史地理』25-1
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*辻善之助1919「新羅明神考―附三井寺の起り」『日本仏教史之研究』金港堂書籍
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*宮地直一1931「平安朝に於ける新羅明神」『園城寺之研究』天台宗寺門派御遠忌事務局:『比叡山と天台仏教の研究 (山岳宗教史研究叢書)』再録
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*松村政雄1961「新羅明神画像」『Museum』128
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*倉田文作1963「園城寺新羅明神像(新羅善神堂安置)」『古美術』3
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*荻野三七彦1964「赤山の神と新羅明神」『慈覚大師研究』天台学会
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*宇野茂樹1968「園城寺新羅明神像」『史迹と美術』38-4
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*亀田孜1973「ボストン美術館蔵 新羅明神を脇侍とする弥勒如来像」『仏教芸術』90
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*渡辺信和1981「「新羅明神発心者悦事」考」『馬淵和夫博士退官記念説話文学論集』大修館書店
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*山本ひろ子1988「異神の時代―園城寺新羅明神考(1)新羅明神来臨考―伝承と教説をめぐって」『月刊百科』309
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*菅原信海1991「園城寺と新羅明神」博士論文『山王神道の基礎的研究』
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*宮井義雄1992「素戔鳴尊と新羅明神」『日本書紀研究 第18冊』塙書房
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*伊東史朗1996「同聚院不動明王像と園城寺新羅明神像―定朝樣成立に至る図像と技法」『國華』1203:博士論文『平安時代彫刻史の研究』に再録
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*伊東史朗2018「園城寺調査と新羅明神像について思い出すこと」『園城寺の仏像3(天台寺門宗教文化資料集成仏教美術・文化財編)』
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*黒田智1998「新羅明神と藤原鎌足」『仏教芸術』238
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*黒田智2001「史料紹介 新羅明神記」『東京大学史料編纂所研究紀要』11
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*阪口光太郎1998「新羅明神譚の片隅から―『覚基僧都記』余韻」『文学論藻』72
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*田畑千秋・平本留理2000「『古今著聞集』巻2第40話から第49話訳注―「智証大師の帰朝を新羅明神擁護し園城寺再興の事」から「一乗院大僧都定昭法験の事」」『大分大学教育福祉科学部研究紀要』22-1[http://hdl.handle.net/10559/3765]
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*宮家準2002「新羅明神信仰と役行者像」『神道宗教』188
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*宮家準2007「新羅明神と役行者」『神道と修験道』春秋社
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*新藤透2005「『新羅之記録』と新羅明神史料」『図書館情報メディア研究』3-1[http://doi.org/10.15068/00131228]
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*菊地照夫2008「赤山明神と新羅明神―外来神の受容と変容」『古代日本の異文化交流』
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*袴田光康2012「平安仏教における新羅明神」『淵民学志』17(韓国)
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*石川知彦1990「新羅明神像の種々相」科学研究費報告書『日本美術のイコノロジー的研究』
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*石川知彦2015「増誉と新羅明神・役行者像」『大法輪』82-4
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*崔景振・金祥圭2017「秦氏と新羅明神との係わりについて」『北東アジア文化研究』52(韓国)[https://www.earticle.net/Article/A311499](有料)
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*キム・スジョン2018「天台寺門から見た天台仏教―新羅明神と天台寺門」『天台学報』特別号第2集
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*出羽弘明(年時不明)「新羅神社考」園城寺ウェブサイト[http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/index.htm]
[[category:系譜記事]]
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2020年7月26日 (日) 時点における最新版

新羅明神(しんら・みょうじん)は園城寺の鎮守神。総本社は園城寺新羅善神堂円珍が唐からの帰国途中の船上で感得したという。本地仏は文殊菩薩とされることが多い。新羅善神

園城寺本尊でもある弥勒菩薩がこの世に出現するまで仏法を守護する。 眷属として般若童子と宿王童子がいる他、園城寺新羅善神堂の地主神という火御子神も関連する神とされる。 三尾神社の眷属の黒尾神も新羅明神と同一視される。円仁が帰国の際に感得した赤山明神と共通点が多く、同一視されることもある。神木は柳と杉。神像は柳で彫られた。杉は依代。神使はカラス、アシナガクモ、イタチ。


目次

由来

858年(天安2年)、円珍が日本に帰る際、船中に新羅明神が出現し、請来の法を弥勒下生の時まで守護すると誓約したという。『園城寺龍華会縁起』をはじめ諸書に記される縁起である。『園城寺龍華会縁起』では帰国後、さらに新羅明神が円珍を園城寺の地に導いて教侍という162歳の老僧から寺を譲られたとし、さらに新羅明神が円珍の問に答えて教侍の正体は弥勒菩薩だと告げた。また「智証大師御記文」(『古今著聞集』所引)では、唐から請来した経典類を円珍が比叡山に運ぼうとすると、新羅明神が現れ、比叡山では末代に必ず争い事が起きるため園城寺の地に導いたとする。『新羅略記』では入京の後、円珍のもとに現れて霊場に経典を納めるように告げたが、これは鴻臚宮の岩神だ(京都・中山神社)という。『兼邦百首歌抄』でも帰国の船中に現れた神をまず二条大宮の岩神に中山大明神として円珍が祀り、のちに園城寺の新羅明神となったとする。『古今著聞集』では娑竭羅龍王の子であり、帰国の時ではなく、入唐に際に出現して仏法を守護することを誓ったという別伝を掲げる。『新羅記』逸文では859年(貞観1年)12月に三尾明神の譲りで新羅権現を祀ったとする。 『寺門伝記補録』では859年(貞観1年)、円珍が新羅明神、山王権現の2神とともに伝法にふさわしい地を求めて園城寺にいたり、教侍と大伴都牟麻呂から寺を譲られたとする。山王権現は比叡山に帰ったが、新羅明神は寺の北野の三椏(みつまた)の杉の木に鎮座した。この時、地主神の三尾明神が眷属とともに現れ、饗応したという。

出自については新羅記では 新羅明神はインド・中国・日本にそれぞれ現れ、インドでは弁財天として釈迦の誕生を寿ぎ、中国では天台山で朱山王として疫鬼をはらい、嵩山にも出現した。日本では素戔嗚尊として生まれ、出雲国簸川から新羅国の曾尸茂梨にわたり王法を守り僧俗を教化したという。 また新羅明神は唐の終南山道宣から三摩耶戒を受戒し、新羅で善無畏門下の玄超から密教を伝授されたという。 『園城寺伝記』の「大師和讃」では「渡唐の風には琉球国、大聖明王化現し、帰朝の波には新羅国、権化の善神影向す」とある。

『新羅明神問答鈔』では本地を文殊師利菩薩、浄名大士(藤原鎌足)、尊星王(妙見菩薩)の3説を挙げ、文殊については三摩耶形が1000の剣であるため祭礼に1000本の剣を献じるとする。藤原鎌足については「もし新羅明神像が焼失したら浄名大士(藤原鎌足)像を元に再造するように」と円珍が指示したことによるという。尊星王については円珍が尊星王法を伝来し、新羅明神がその守護にために来臨したという。そして三尊は一体であり機に応じて形を示すという。『新羅祠記』では本地を文殊大士、釈迦、不動、尊星王、浄名居士とする。

新羅明神の別名として『新羅祠記』では朱山王、崧嶽王、菘崧王、四天夫人、素髪翁をあげる。インドでは摩多羅神または牛頭天王、日本では武塔神とする。

眷属の般若童子と宿王童子は、天照大神が素戔嗚尊に与えた鉾が二つに折れて化身したものという。像容は共に唐装で髪を束ね、笏を持つ。胡床に坐す。衣の色はは般若が赤、宿王が青。園城寺の学僧は受胎の時から二童子の擁護を受けているという。


北院の地主神の火御子神は和製の衣冠で笏を持ち、牀に坐す。本地仏は十一面観音または不空羂索観音

近年の美術史研究で、新羅明神の像容を元に役小角の像容が形作られていったことが明らかにされている。

一覧

  • 新羅善神堂:滋賀県大津市園城寺町。園城寺内。総本社。
  • 赤山禅院新羅明神社:京都府京都市左京区修学院開根坊町。
  • 京都・大雲寺新羅明神社:京都府京都市左京区岩倉。
  • 讃岐・金倉寺新羅山王社:香川県善通寺市金蔵寺町。
  • 岩神王子:和歌山県田辺市中辺路町道湯川。熊野九十九王子の一つ。岩上王子。廃絶。石碑が立つ。
  • 京都・中山神社:京都府京都市中京区岩上町。元は冷泉院にあった。岩上大明神。
  • 京都・岩上神社:京都府京都市上京区大黒町。一説に新羅明神と関係があるという(改訂京都民俗志)。
  • 如意寺新羅社:廃絶。
  • 三室戸寺新羅社:京都府宇治市莵道滋賀谷。廃絶。
  • 安布知神社:長野県下伊那郡阿智村駒場。
  • 八雲神社:岩手県釜石市八雲町。大天場権現とも。1089年(寛治3年)、新羅三郎義光が勧請。
  • 新羅神社:静岡県浜松市南区江之島町。
  • 木徳新羅神社:香川県善通寺市木徳町。円珍が885年(仁和1年)勧請とも。別当は金倉寺宝幢院だった。
  • 関山神社:新潟県妙高市関山。中尊聖観音の脇に新羅大明神を祀っていた。
  • 長者山新羅神社:青森県八戸市長者。祭神は源義光と素佐嗚尊など。1683年(天和3年)に新羅大明神を合祀したという。
  • 新羅神社:岐阜県多治見市御幸町。1394年(応永1年)新羅大明神を勧請。

年表

  • 858年(天安2年):円珍、日本に帰る際、船中に新羅明神が出現し、請来の法を弥勒下生の時まで守護すると誓約したという。
  • 860年(貞観2年)2月25日:勅により円珍が新羅明神の社を建立。(『新羅略記』)
  • 924年(延長2年):尊意が赤山禅院に新羅祠を創建。
  • 971年(天禄2年)5月5日:新羅明神、正四位上を授かる。冷泉院の物怪を降伏した園城寺余慶の奏状による。史料上の初出。『僧綱補任抄出上』
  • 995年(長徳1年):慶祚ら円珍像を比叡山千手院から園城寺に奉遷して寺門派を形成。この時、慶祚は園城寺に八所明神を祀る。
  • 997年(長徳3年):慶祚、新羅明神社を南向きに改築。
  • 1049年(永承4年)9月1日:新羅明神、三位を授かる。明尊の働き掛けによる。
  • 1051年(永承6年):前九年の役で源頼義が出陣の際に新羅明神に戦勝祈願。勝利の際は子を衆徒とすることを誓約。凱旋後、子を出家させ快誉と称した。年時不明だが、同じく子の義光の元服を新羅明神の前で行ったことから新羅三郎と呼ばれた。
  • 1052年(永承7年)9月9日:明尊、新羅明神の祭礼を盛大に実施。1000本の剣をともない神輿が御旅所に渡御。新羅明神はこれを喜び仏法守護の託宣を下す。
  • 1060年(康平3年):成尋が入宋を祈願し成就する。
  • 延久年間:園城寺の戒壇設置の請願が認められないと、新羅明神社が鳴動。後三条天皇が発病。
  • 1073年(延久5年):後三条天皇は皇位を退き、新羅明神に祭文を奏上して謝したがまもなく崩御した。
  • 1109年(天仁2年)9月14日:新羅明神社で念仏会が始まる。
  • 1110年(天永1年)9月:藤原忠実参詣。
  • 1121年(保安2年)閏5月3日:延暦寺衆徒の襲撃で園城寺が全焼。覚基が焼け跡を巡っていると白衣の翁の姿で新羅明神が出現。覚基は新羅明神に対し「なぜ焼失を防げなかったのか」と咎めたが、新羅明神は「焼失を悲しむより、発心者を得ることのほうが大切だ」と答えたという。
  • 1125年(天治2年)9月19日:新羅明神祭。
  • 1127年(大治2年)9月:藤原忠通参詣。
  • 1153年(仁平3年)6月:房覚が新羅明神社に7日間参籠。花を供えて一切経を読誦。園城寺北院の僧を供花衆と定めた。新羅明神社の夏安居の始まり。
  • 1154年(久寿1年)9月26日:新羅明神祭。
  • 1161年(応保1年)4月7日:後白河法皇、園城寺御幸。新羅明神社に参詣。後白河法皇の持仏堂には上段に新羅明神と円珍の御影、下段に師の行慶の御影を祀っていたという。
  • 1165年(永万1年)7月28日:二条天皇崩御。寺門派の僧侶が天台座主になるとき、延暦寺で受戒することを定めた院宣に対し、新羅明神眷属の般若菩薩と、三尾明神眷属の黒尾明神の為す業だと噂された。
  • 1203年(建仁3年)4月1日:公胤・行舜らにより三十講。
  • 1210年(承元4年)10月18日:新羅明神祭。神輿11基が出て素戔嗚尊(新羅明神)と稲田姫に扮した稚児8組が練り歩き、長吏ほか500人の僧侶が従って法禅寺西南の御旅所に渡御。
  • 1213年(建保1年)4月26日:法勝寺九重塔落慶にあたり、園城寺でも金堂や新羅明神社などで拝賀。新羅明神社では特に奉幣・神馬献上がされた。
  • 1342年(興国3年/康永1年)4月22日:足利尊氏が粟津別保の地頭職を寄進。
  • 1349年(正平4年/貞和5年)頃:現在の社殿造営。
  • 1412年(応永19年):新羅明神社に護摩堂

資料

古典籍

  • 『園城寺龍華会縁起』:1062年(康平5年)。藤原実範。
  • 『新羅記』逸文:『園城寺伝記』に収録。鎌倉時代末。
  • 『新羅明神問答鈔』:『寺徳集』(1344年(興国5年/康永3年))に収録。
  • 『新羅祠記』:『寺門伝記補録』(応永年間)に収録。
  • 『新羅略記』:応永年間。『新羅記』の要約。
  • 『新羅明神記』:1425年(応永32年)。

文献

  • 辻善之助1915「史壇 新羅明神考」『歴史地理』25-1
  • 辻善之助1919「新羅明神考―附三井寺の起り」『日本仏教史之研究』金港堂書籍
  • 宮地直一1931「平安朝に於ける新羅明神」『園城寺之研究』天台宗寺門派御遠忌事務局:『比叡山と天台仏教の研究 (山岳宗教史研究叢書)』再録
  • 松村政雄1961「新羅明神画像」『Museum』128
  • 倉田文作1963「園城寺新羅明神像(新羅善神堂安置)」『古美術』3
  • 荻野三七彦1964「赤山の神と新羅明神」『慈覚大師研究』天台学会
  • 宇野茂樹1968「園城寺新羅明神像」『史迹と美術』38-4
  • 亀田孜1973「ボストン美術館蔵 新羅明神を脇侍とする弥勒如来像」『仏教芸術』90
  • 渡辺信和1981「「新羅明神発心者悦事」考」『馬淵和夫博士退官記念説話文学論集』大修館書店
  • 山本ひろ子1988「異神の時代―園城寺新羅明神考(1)新羅明神来臨考―伝承と教説をめぐって」『月刊百科』309
  • 菅原信海1991「園城寺と新羅明神」博士論文『山王神道の基礎的研究』
  • 宮井義雄1992「素戔鳴尊と新羅明神」『日本書紀研究 第18冊』塙書房
  • 伊東史朗1996「同聚院不動明王像と園城寺新羅明神像―定朝樣成立に至る図像と技法」『國華』1203:博士論文『平安時代彫刻史の研究』に再録
  • 伊東史朗2018「園城寺調査と新羅明神像について思い出すこと」『園城寺の仏像3(天台寺門宗教文化資料集成仏教美術・文化財編)』
  • 黒田智1998「新羅明神と藤原鎌足」『仏教芸術』238
  • 黒田智2001「史料紹介 新羅明神記」『東京大学史料編纂所研究紀要』11
  • 阪口光太郎1998「新羅明神譚の片隅から―『覚基僧都記』余韻」『文学論藻』72
  • 田畑千秋・平本留理2000「『古今著聞集』巻2第40話から第49話訳注―「智証大師の帰朝を新羅明神擁護し園城寺再興の事」から「一乗院大僧都定昭法験の事」」『大分大学教育福祉科学部研究紀要』22-1[1]
  • 宮家準2002「新羅明神信仰と役行者像」『神道宗教』188
  • 宮家準2007「新羅明神と役行者」『神道と修験道』春秋社
  • 新藤透2005「『新羅之記録』と新羅明神史料」『図書館情報メディア研究』3-1[2]
  • 菊地照夫2008「赤山明神と新羅明神―外来神の受容と変容」『古代日本の異文化交流』
  • 袴田光康2012「平安仏教における新羅明神」『淵民学志』17(韓国)
  • 石川知彦1990「新羅明神像の種々相」科学研究費報告書『日本美術のイコノロジー的研究』
  • 石川知彦2015「増誉と新羅明神・役行者像」『大法輪』82-4
  • 崔景振・金祥圭2017「秦氏と新羅明神との係わりについて」『北東アジア文化研究』52(韓国)[3](有料)
  • キム・スジョン2018「天台寺門から見た天台仏教―新羅明神と天台寺門」『天台学報』特別号第2集
  • 出羽弘明(年時不明)「新羅神社考」園城寺ウェブサイト[4]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E6%98%8E%E7%A5%9E%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

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