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新羅王室
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
新羅王室
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[[ファイル:定康王陵001・トリミング.JPG|thumb|500px|文武大王・武烈大王・興武大王を祀る統一殿。朴正煕大統領が建てた]] 新羅(356-935)の[[王室]]。首都は[[慶州]](金城)だった。[[高句麗]]・[[百済]]と共に三国時代を経て統一新羅時代を築いた。 ==神祇祭祀== *社稷 *南郊壇 *五岳: **東岳:[[吐含山]]:慶尚北道慶州市。脱解王の遺骨を納めた[[脱解祠]]があった。標高745m。 **南岳:[[智異山]]:山頂に智異聖母を祀る天王堂がある。小白山脈の主峰。標高1915m。韓国半島部の最高峰。[[金剛山]]、[[漢拏山]]とともに三神山の一つ。法華寺、華厳寺、[[双渓寺]]、実相寺、泉隠寺、神興寺などの名刹が多い。三国史記には「地理山」とある。 **西岳:[[鶏龍山]]:忠清南道中央部にある。標高828m。[[東鶴寺]]や[[甲寺]]がある。山頂近くの新都内という集落には李朝時代から民間信仰の集団が集まる。 **北岳:[[太白山 (韓国)|太白山]]:標高1546m。太白山脈の南端にある。五台山、雪岳山、金剛山が連なる。三国史記には「太伯山」とある。 **中岳:[[八公山]]:頂上に高さ8mの冠峰石造如来坐像があり、笠岩(カッバウィ)と呼ばれている。麓に[[桐華寺]]、[[把渓寺]]、[[符仁寺]]などがある。三国史記には「父岳」とある。 ==祖先祭祀== *[[慶州・始祖廟]] *[[神宮_(奈乙)]] *[[崇徳殿]]:慶尚北道慶州市塔洞。初代赫居世王。朴氏の祖。[[赫居世王陵]]に付属。[[李朝]]が祭祀。1429年に創建。1723年「崇徳殿」の額を掲げた。 *[[崇信殿]]:慶尚北道慶州市東川洞。4代脱解王。昔氏の祖。当初は月城内にあった。[[脱解王陵]]に付属。李朝が祭祀。1898年、創建。1906年、「崇信殿」と称した。1980年に移転。 *[[崇恵殿]]:慶尚北道慶州市皇南洞。13代味鄒王(金氏の祖)、30代文武王(半島統一)、56代敬順王(最後の王。当初祭神)。創建不詳。元は月城にあった。李朝が祭祀。[[味鄒王陵]]の南側にある。1888年増築し皇帝が「崇恵殿」額を下賜 *[[統一殿]]:文武大王・武烈大王・興武大王を祀る。韓国政府が創建。 *[[脱解祠]]:慶尚北道慶州市普徳洞・仏国洞・陽北面の吐含山にあった。 *[[出石神社]] *[[新羅明神信仰]]も参照 <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> ファイル:蘿井01.jpg|蘿井 ファイル:崇信殿001.JPG|崇信殿 ファイル:崇恵殿001.jpg|崇恵殿 ファイル:崇徳殿02.jpg|崇徳殿 ファイル:脱解王陵001.JPG|脱解王陵 </Gallery> ==陵墓== [[朝鮮の陵墓]]を参照。歴代国王の陵墓は、敬順王陵を除いてすべて慶州にある。現在の陵墓の比定と景観は李朝時代がベースと思われ、考古学的な正しさは不明。日本植民地時代を経て、近年は観光資源として大規模な修繕工事を行われている。 <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> ファイル:武烈王陵002.jpg|武烈王陵 ファイル:敬順王陵004.jpg|敬順王陵 ファイル:文武王陵004.jpg|海中の岩礁を陵墓とする特異な「文武王陵」 ファイル:武烈王陵003.jpg|いくつかの陵墓には陵碑がある ファイル:景徳王陵003.jpg|石柵と彫刻がある陵墓も ファイル:聖徳王陵007.jpg|石像 ファイル:神文王陵001.jpg|一部の陵墓には門がある ファイル:景徳王陵001.jpg|墳墓の前にある祭壇 ファイル:善徳女王陵004.jpg|墳墓の前にある祭壇 ファイル:拝洞三陵004・トリミング.JPG|陵墓の前に立つ石碑。いつ建てられたものかは未確認。 ファイル:逸聖王陵001.jpg|陵墓の前に立つ石碑。いつ建てられたものかは未確認。 ファイル:慶州五陵・C祭祀殿003.JPG|祭祀殿?があるのは慶州五陵と敬順王陵のみか ファイル:神文王陵005.jpg| </Gallery> ==寺院== *[[七処伽藍]]:『三国遺事』阿道条などに記載。 *[[皇龍寺]] *[[霊廟寺]] *霊廟寺成典 *奉聖寺成典 *感恩寺成典 *奉徳寺成典 *孝恩寺成典 *永興寺成典 *[[九華山]]:安徽省池州市青陽県九華山風景区にある、[[地蔵菩薩]]の霊山。中国仏教四大霊山の一つ。新羅の王子の金喬覚が開いたという。 ==一覧== {|class="wikitable" |+ !style="width:3%;"|代 !style="width:8%;"|王号 !style="width:7%;"|生没年 !style="width:7%;"|在位年 !style="width:6%;"|姓名 !style="width:6%;"|諡号 !style="width:6%;"|廟号 !style="width:38%;"|略歴 !style="width:19%;"|陵墓 |- |1 |赫居世王 |前69-4 |前57-4 |朴赫居世 |(なし) | |伝説的な新羅の始祖王。姓は朴氏。生誕地には[[蘿井]]がある。蛇陵に埋葬。陵墓のそばに[[曇厳寺]]があったという。陵墓のそばの[[崇徳殿]]に祀られた。赫居世居西干。三国史記に「[[慶州・始祖廟|始祖廟]]」、「始祖赫居世居西干」とあるが「始祖」が必ずしも赫居世王を指すとは限らないようだ。李朝が[[崇徳殿]]に祭った。 |[[蛇陵]]<br>[[ファイル:慶州五陵・C祭祀殿003.JPG|200px]] |- |2 |南解王 |?-24 |4-24 |朴南解 |(なし) | |姓は朴氏。南解次次雄、慈充とも。蛇陵に埋葬。 |[[蛇陵]]<br>[[ファイル:慶州五陵・D墳丘003.jpg|200px]] |- |3 |儒理王 |?-57 |24-57 |朴儒理 |(なし) | |姓は朴氏。儒理尼師今、弩礼尼叱今。蛇陵に埋葬。 |[[蛇陵]]<br>[[ファイル:慶州五陵・D墳丘001.jpg|200px]] |- |4 |脱解王 |?-80 |57-80 |昔脱解 |(なし) | |姓は昔氏。脱解尼師今、吐解尼師今。北壌井丘に埋葬。[[吐含山]]に遺骨が奉安され東岳神として[[脱解祠]]に祀られたともいう。李朝が[[崇信殿]]を創建した祭った。 |[[脱解王陵]]<br>[[ファイル:脱解王陵001.JPG|200px]] |- |5 |婆娑王 |?-112 |80-112 |朴婆娑 |(なし) | |姓は朴氏。婆娑尼師今。101年、月城を築く。蛇陵に埋葬。 |[[蛇陵]]<br>[[ファイル:慶州五陵・航空写真005・トリミング.JPG|200px]] |- |6 |祇摩王 |?-134 |112-134 |朴祇摩 |(なし) | |姓は朴氏。祇摩尼師今、祇磨尼叱今。三国史記に埋葬地の記載はない。 |[[祇摩王陵]]<br>[[ファイル:祇摩王陵001.jpg|200px]] |- |7 |逸聖王 |?-154 |134-154 |朴逸聖 |(なし) | |姓は朴氏。逸聖尼師今。三国史記に埋葬地の記載はない。 |[[逸聖王陵]]<br>[[ファイル:逸聖王陵004.jpg|200px]] |- |8 |阿達羅王 |?-184 |154-184 |朴阿達羅 |(なし) | |姓は朴氏。阿達羅尼師今。三国史記に埋葬地の記載はない。 |[[阿達羅王陵]](拝洞三陵)<br>[[ファイル:拝洞三陵003.jpg|200px]] |- |9 |伐休王 |?-196 |184-196 |昔伐休 |(なし) | |姓は昔氏。伐休尼師今。三国史記に埋葬地の記載はない。 |(不詳) |- |10 |奈解王 |?-230 |196-230 |昔奈解 |(なし) | |姓は昔氏。奈解尼師今。三国史記に埋葬地の記載はない。 |(不詳) |- |11 |助賁王 |?-247 |230-247 |昔助賁 |(なし) | |姓は昔氏。助賁尼師今。三国史記に埋葬地の記載はない。 |(不詳) |- |12 |沾解王 |?-261 |247-261 |昔沾解 |(なし) | |姓は昔氏。沾解尼師今、理解尼叱今、〓解王。三国史記に埋葬地の記載はない。 |(不詳) |- |13 |味鄒王 |?-284 |262-284 |金味鄒 |(なし) |太祖? |姓は金氏。味鄒尼師今、味照、味〓、未祖、未召、未鄒、未祖、未古。後世、五廟制度の一廟に定められる。陵名を竹現陵という。廟号は「太祖」という説がある。「始祖」も味鄒王を指す場合もあるようだ。李朝が敬順王を祀る[[崇恵殿]]に合祀。 |[[味鄒王陵]]<br>[[ファイル:味鄒王陵003.jpg|200px]] |- |14 |儒礼王 |?-298 |284-298 |昔儒礼 |(なし) | |姓は昔氏。儒礼尼師今、世理智王。三国史記に埋葬地の記載はない。 |(不詳) |- |15 |基臨王 |?-310 |298-310 |昔基臨 |(なし) | |姓は昔氏。基臨尼師今、基立。三国史記に埋葬地の記載はない。 |(不詳) |- |16 |訖解王 |?-356 |310-356 |昔訖解 |(なし) | |姓は昔氏。昔氏として最後の王。訖解尼師今、乞解尼叱今とも。三国史記に埋葬地の記載はない。 |(不詳) |- |17 |奈勿王 |?-402 |356-402 |金奈勿<br>金樓寒 |(なし) | |姓は金氏。奈勿尼師今、那密、奈勿麻立干。三国史記に埋葬地の記載はないが、『三国遺事』に占星台の西南に埋葬したとある。 |[[奈勿王陵]]<br>[[ファイル:奈勿王陵002.jpg|200px]] |- |18 |実聖王 |?-417 |402-417 |金実聖 |(なし) | |姓は金氏。実聖尼師今、実聖麻立干、実主王、宝金。埋葬地は不詳。[[皇南大塚]]とする説もある。 |(不詳) |- |19 |訥祇王 |?-458 |417-458 |金訥祇 |(なし) | |姓は金氏。訥祇麻立干、内只王。三国史記に埋葬地の記述はない。 |(不詳) |- |20 |慈悲王 |?-479 |458-479 |金慈悲 |(なし) | |姓は金氏。慈悲麻立干。三国史記に埋葬地の記述はない。 |(不詳) |- |21 |〓知王 |?-500 |479-500 |金〓知 |(なし) | |姓は金氏。〓知麻立干、照知王、毘処麻立干。三国史記に埋葬地の記述はない。 |(不詳) |- |22 |智証王 |437-514 |500-514 |金智大路 |智証王 | |姓は金氏。64歳で即位。国号を新羅とし、君主号を王に統一した。初めて諡号「智証王」が贈られる。三国史記に埋葬地の記述はない。[[天馬塚]]という説がある。智哲老王、智訂麻立干。 |(不詳) |- |23 |法興王 |?-540 |514-540 |金原宗<br>金牟即智 |法興王 | |姓は金氏。元号「建元」を定める。534年、[[興輪寺]]の創建を発願。自ら出家して法雲、法空と称した。[[哀公寺]]の北峰に埋葬。王妃は[[慶州・永興寺]]に住んだ。法興大王。 |[[法興王陵]]<br>[[ファイル:法興王陵003.jpg|200px]] |- |24 |真興王 |534-576 |540-576 |金彡麦宗<br>金深麦夫 |真興王 | |姓は金氏。伽耶を滅ぼした。各地に真興王巡狩碑を建てた。忠州を小京に定めた。独自の元号を使用した。[[皇龍寺]]・[[慶州・祇園寺|祇園寺]]・[[慶州・実際寺|実際寺]]・[[慶州・永興寺|永興寺]]などを創建。恵亮を僧統に任命した。自ら出家して法雲と称した。王妃は永興寺に住んだ。哀公寺の北峰に埋葬。 |[[真興王陵]]<br>[[ファイル:真興王陵002.jpg|200px]] |- |25 |真智王 |?-579 |576-579 |金舎輪<br>金輪 |真智王 | |姓は金氏。舎輪王。[[永敬寺]]に埋葬。 |[[真智王陵]]<br>[[ファイル:真智王陵001.jpg|200px]] |- |26 |真平王 |?-632 |579-632 |金伯浄 |真平王 | |姓は金氏。官府を整備。漢祇に埋葬。神文王時代に五廟制度の一廟に定められる(のち解除)。 |[[真平王陵]]<br>[[ファイル:真平王陵003.jpg|200px]] |- |27 |善徳女王 |?-647 |632-647 |金徳曼 |善徳女王 |聖祖? |姓は金氏。即位して「聖祖皇姑」の尊号を奉られる。[[芬皇寺]]や[[霊廟寺]]を創建。645年3月、皇龍寺の九層塔を造営。狼山に埋葬。陵墓に近くに[[慶州・四天王寺]]が建てられた。 |[[善徳女王陵]]<br>[[ファイル:善徳女王陵004.jpg|200px]] |- |28 |真徳女王 |?-654 |647-654 |金勝曼 |真徳女王 | |姓は金氏。650年独自元号を廃止して唐の元号を採用。沙梁部に埋葬。 |[[真徳女王陵]]<br>[[ファイル:真徳女王陵003.jpg|200px]] |- |29 |武烈王 |603-661 |654-661 |金春秋 |武烈王 |太宗 |姓は金氏。660年、[[百済]]を滅ぼす。永敬寺の北(哀公寺の東とも)に埋葬。初めての廟号「太宗」が贈られた。後世、五廟制度の一廟に定められる。のちに唐から廟号を変えるように迫られた。1977年、朴正煕大統領によって慶州[[統一殿]]に祀られた。 |[[武烈王陵]]<br>[[ファイル:武烈王陵003.jpg|200px]] |- |30 |文武王 |626-681 |661-681 |金法敏 |文武王 | |姓は金氏。663年、白村江の戦いで日本軍を撃退。[[高句麗]]を滅ぼす。北原小京、金官小京を設置。[[慶州・四天王寺]]、[[浮石寺]]を創建。初めて火葬され、海中王陵に埋葬された。大王岩と呼ばれており、王は龍になったという。感恩寺が建てられた。四天王寺に文武王陵碑がある。後世、五廟制度の一廟に定められる。李朝は敬順王を祀る[[崇恵殿]]に合祀。1977年、朴正煕大統領によって慶州[[統一殿]]に祀られた。 |[[文武王陵]]<br>[[ファイル:文武王陵001.jpg|200px]] |- |31 |神文王 |?-692 |681-692 |金政明<br>金明之 |神文王 | |姓は金氏。五廟制度を定める。[[感恩寺]]、[[奉聖寺]]、[[望徳寺]]を創建。西原小京、南原小京を設置。狼山の東に埋葬。 |[[神文王陵]]<br>[[ファイル:神文王陵005.jpg|200px]] |- |32 |孝昭王 |687-702 |692-702 |金理洪<br>金理恭 |孝昭王 | |姓は金氏。[[望徳寺]]の東に埋葬。 |[[孝昭王陵]]<br>[[ファイル:孝昭王陵001.jpg|200px]] |- |33 |聖徳王 |?-737 |702-737 |金隆基<br>金興光 |聖徳王 | |姓は金氏。典祀署を創設。[[移車寺]]の南に埋葬。五廟制度の一廟に定められる。菩提のため「聖徳大王神鐘」が771年に鋳造された。 |[[聖徳王陵]]<br>[[ファイル:聖徳王陵002.jpg|200px]] |- |34 |孝成王 |?-742 |737-742 |金承慶 |孝成王 | |姓は金氏。[[法流寺]]の南で火葬され、日本海に散骨された。 |(不詳) |- |35 |景徳王 |?-765 |742-765 |金憲英 |景徳王 | |姓は金氏。慶州永興寺、[[元延寺]]を修復。[[仏国寺]]の造営を始めた。[[毛祇寺]]([[頃只寺]]とも)の西峰に埋葬。五廟制度の一廟に定められる。 |[[景徳王陵]]<br>[[ファイル:景徳王陵003.jpg|200px]] |- |36 |恵恭王 |758-780 |765-780 |金乾運 |恵恭王 | |姓は金氏。律令体制を整備。五廟制度を定める。反乱で殺害された。三国史記に埋葬地の記述はない。 |(不詳) |- |37 |宣徳王 |?-785 |780-785 |金良相 |宣徳王 | |姓は金氏。17代奈勿尼師今の十世王孫。恵恭王を殺害して即位。父を開聖大王に追贈して五廟に加えた。[[社稷壇_(新羅)]]を整備。仏教の帰依に基づき火葬を遺詔した。 |(不詳) |- |38 |元聖王 |?-798 |785-798 |金敬信 |元聖王 |烈祖 |姓は金氏。17代奈勿尼師今の十二世王孫。祖先を王に追贈し五廟を改定。794年7月、[[奉恩寺]]創建。三国史記では奉徳寺の南で火葬。『三国遺事』では[[慶州・崇福寺]]に埋葬された。廟号は烈祖(有唐新羅国初月山大崇福寺碑銘)。 |[[元聖王陵]]<br>[[ファイル:元聖王陵002.jpg|200px]] |- |39 |昭聖王 |?-800 |799-800 |金俊〓 |昭聖王 | |姓は金氏。元聖王の王孫。昭成王。三国史記に埋葬地の記述はない。 |(不詳) |- |40 |哀荘王 |?-809 |800-809 |金清明<br>金重熙 |哀荘王 | |姓は金氏。五廟制度を改正。802年、[[海印寺]]を創建。806年に仏教寺院の新設を禁止。反乱で殺害された。三国史記に埋葬地の記述はない。 |(不詳) |- |41 |憲徳王 |?-826 |809-826 |金彦昇 |憲徳王 | |姓は金氏。昭聖王の弟。金憲昌の反乱を鎮圧。[[泉林寺]]の北に埋葬。 |[[憲徳王陵]]<br>[[ファイル:憲徳王陵002.jpg|200px]] |- |42 |興徳王 |777-836 |826-836 |金秀宗<br>金景徽 |興徳王 | |姓は金氏。昭聖王、憲徳王の弟。章和王妃の陵に合葬。 |[[興徳王陵]]<br>[[ファイル:興徳王陵006.jpg|200px]] |- |43 |僖康王 |?-838 |836-838 |金悌隆<br>金悌〓 |僖康王 | |姓は金氏。反乱が起こり自害。蘇山に埋葬。 |[[僖康王陵]]<br>[[ファイル:僖康王陵001.jpg|200px]] |- |44 |閔哀王 |817-839 |838-839 |金明 |閔哀王 | |姓は金氏。38代元聖王の王曾孫。反乱を起こして僖康王の自害に追い込み即位。反乱で殺害された。埋葬地の記述はない。敏哀王。 |[[閔哀王陵]]<br>[[ファイル:閔哀王陵004.jpg|200px]] |- |45 |神武王 |?-839 |839-839 |金祐徴 |神武王 | |姓は金氏。38代元聖王の王曾孫。弟兄山の西北に埋葬。 |[[神武王陵]]<br>[[ファイル:神武王陵001.jpg|200px]] |- |46 |文聖王 |?-857 |839-857 |金慶膺 |文聖王 | |姓は金氏。孔雀趾に埋葬。 |[[文聖王陵]]<br>[[ファイル:文聖王陵003.jpg|200px]] |- |47 |憲安王 |?-861 |857-861 |金誼靖 |憲安王 | |姓は金氏。45代神武王の異母弟。孔雀趾に埋葬。 |[[憲安王陵]]<br>[[ファイル:憲安王陵004.jpg|200px]] |- |48 |景文王 |?-875 |861-875 |金膺廉 |景文王 | |姓は金氏。憲安王の娘婿。三国史記に埋葬地の記述はない。 |(不詳) |- |49 |憲康王 |?-886 |875-886 |金〓 |憲康王 | |姓は金氏。876年2月には[[皇龍寺]]で百高座を設けた。[[望海寺]]を創建。[[慶州・菩提寺]]の東南に埋葬。 |[[憲康王陵]]<br>[[ファイル:憲康王陵002.jpg|200px]] |- |50 |定康王 |?-887 |886-887 |金晃 |定康王 | |姓は金氏。887年1月に[[皇龍寺]]で百高座を設けた。菩提寺の東南に埋葬。 |[[定康王陵]]<br>[[ファイル:定康王陵002・トリミング.jpg|200px]] |- |51 |真聖女王 |?-897 |887-897 |金曼<br>金垣 |真聖女王 | |姓は金氏。黄山に埋葬した。 |(不詳) |- |52 |孝恭王 |?-912 |897-912 |金嶢 |孝恭王 | |姓は金氏。[[師子寺]]の北に埋葬した。 |[[孝恭王陵]]<br>[[ファイル:孝恭王陵002.jpg|200px]] |- |53 |神徳王 |?-917 |912-917 |朴秀宗<br>朴景暉 |神徳王 | |姓は朴氏。8代阿達羅尼師今の23代王孫という。妃は憲康王の娘。竹城に埋葬。 |[[神徳王陵]](拝洞三陵)<br>[[ファイル:拝洞三陵003.jpg|200px]] |- |54 |景明王 |?-924 |917-924 |朴昇英 |景明王 | |姓は朴氏。918年、王建が高麗を建国。[[黄福寺]]の北に埋葬。 |[[景明王陵]](拝洞三陵)<br>[[ファイル:拝洞三陵002.jpg|200px]] |- |55 |景哀王 |?-927 |924-927 |朴魏膺 |景哀王 | |姓は朴氏。927年、後百済の甄萱王の攻撃を受け、捕縛され殺害された。蟹目嶺に埋葬。 |[[景哀王陵]]<br>[[ファイル:景哀王陵002.jpg|200px]] |- |56 |敬順王 |?-978 |927-935 |金傅 |敬順王 | |姓は金氏。後百済王の甄萱王により推戴され、即位。935年高麗の王建王に降伏し退位し新羅は滅亡した。高麗王朝からは正承公に封じられ、死後は諡号を贈られた。娘は高麗5代景宗の王妃となっている。開城郊外に埋葬。孝哀王とも。李朝が[[崇恵殿]]を建てて祭った。 |[[敬順王陵]]<br>[[ファイル:敬順王陵005.jpg|200px]] |} ==新羅王族== *金〓信:金庾信。興武大王 *金喬覚:中国[[九華山]]を開く。地蔵菩薩の化身とされる。 *[[天日槍]]:[[出石神社]]祭神。 *阿加流比売:[[比売許曽神信仰]]
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